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しみじみ Archive

負けないで

僕は別にZARDの大ファンだったわけじゃないけど、ZARDの曲は僕の高校時代の記憶としっかり結びついてます。最も多感な時期が彼女の歌声によって彩られてる、僕の世代の人間ならきっと誰でもね。「負けないで」の曲を聴くと高校時代によく過ごした狭苦しく蒸し暑い夏の生徒会室の風景がなんとなく頭に浮かび上がってきます。

昔よく知っていた有名人が亡くなったというニュースを聞いたとき僕たちが感じるなんともいえない気持ちは、その人にもう二度と会うことはできないんだという悲しみ、というよりもむしろ、そのニュースを聞くまでその人のことを忘れていた自分に対する罪悪感なんじゃないかって気がする。その人はいつの間にか表舞台から姿を消していたはずなのにそのことに全く気付かないで、何変わらず日常を過ごしていた自分に愕然とするんだね。もちろんそれはそれで当たり前のことなんだけど。

死の原因についていろいろな憶測が飛び交っているんだろうけど、不慮の事故だって僕は信じたいですね。自殺を考えるのに3mって高さはいくらなんでも低すぎる。やはり足を滑らせたと考えるのが自然な気がするな。限りなく自殺に見える20mダイブで窪塚洋介は軽傷で助かり、限りなく事故のように見える3mの落下で坂井泉水は命を落とした。真相は誰にも分からないけど、人生ってつくづく皮肉にできてる。

今ZARDのアルバムは飛ぶように売れているらしいです。窪塚がダイブしたとき窪塚作品が再評価されることは決してなくて、むしろみんなサッて引いちゃったけど。でもこの2つのケースにおける違いはたった一つしかないんだよね。一方は生きていて、一方は死んでしまったってこと。死が作品に新しい命を吹き込むものだとしたら、これもまた悲しい皮肉だな。

今日の一言
マイケルジャクソンとジョンレノンの唯一の違いは生きているか死んでいるかだと思う。

街灯の下で

僕の家の近辺は比較的閑静な住宅街で、夜中に自転車で家に帰るとき通る裏道には人や車の往来はほとんどありません。まっすぐに伸びる道路を街灯の光が等間隔にくりぬいています。最近気付いたのですが、毎週同じ曜日同じ時間にその街灯の下の側道のブロックに制服の女子高校生が二人並んで腰を下ろしているのです。もう夜の10時を回っているし、若い女の子が家に帰らないで大丈夫なのかなっとも思うのですが、まあそんなに風紀の悪い場所でもないし、その子達も特別素行が悪そうな感じでもないので、多分この近所に住んでいる仲良しの子が一緒に帰ってきて、別れるタイミングを逸したままここでずっとおしゃべりしてるんだろうなって勝手に想像しています。

なんとはなく絵になる光景です。暗転してる舞台上を天井からのサスペンションライトが丸く切り取っているような感じ。その中に座っている感覚、僕は大好きなんだよね。光の外側の世界からリアルさが失われて、光に照らされた自分の周りだけが自分の生きている世界のすべてになる。自分が世界の中心になったような、もしくは逆に世界の片隅に自分だけが取り残されたような不思議な錯覚。ちょうどキャンプで焚き火を囲んでいるときもこんな感じがするものですね。そういう空間を何人かで共有していると普段話せないようなことも話せるような気がしてくるのです。いつもは横に流れている時間がこのときだけは縦に流れる。

この女の子達が大人になり僕ぐらいの年になって高校時代を振り返ったとき、鮮明に思い出すのはこうして2人で喋っている今この瞬間なんじゃないかな。何を喋ったのかなんて全く思い出せなくても、街灯に切り出されたこの小さな空間の持つ空気の手触りやにおいは記憶に刻み付けられていると思うのです、きっと。

舞台という空間の魅力は、きっとこれに近いものなんだと思うな。見る人にとっても演じる人にとっても。

今日の一言
光と影が生み出す魔力

心が通う

職場の洗面所は、節電対策なのでしょうが、普段は明かりが消えていて人が入るとパッと点くようになっています。センサーか何かで人が来たことを感知しているのでしょうし、それ自体は別に珍しいものでもありません。

ところが先日の朝、僕がいつもどおり洗面所に入ったとき、いつもは点くはずの電灯が点かないのです。センサーを切っていたのかそれとも故障していたのかその原因は分かりません。ともあれそれを操っているのは機械的ななにがしかであり、そこに何の意識もないということは十分に分かってはいるのですが、なんとなくその空間に拒絶されているようなさびしい気持ちがしてしまいました。

AmazonのようなWeb上のショッピングサイトなどで以前に買い物をしたことのあるページにアクセスすると、「ようこそ、○○さん」と自分のid名がトップページに表示されたりします。これも別に機械が自分が目の前にいることを判別しているわけではなく、クッキーと呼ばれるWebブラウザの古くからある機能を利用しているに過ぎません。でもこんなささいなことが人の購買意欲にわずかながらでも貢献していることは間違いないでしょう。

心なんて通っていなくても、何かが自分を認識してくれるってただそれだけのことに知らず知らず安らぎを感じているところが人間にはあるのかもしれないな。

今日の一言
形に心が宿ることもある

夜は短し歩けよ乙女

この1ヶ月ほどゆっくり本を読む時間が取れていなかったのですが、表題の本をようやく読み終えました。タイトルとハードカバーの表紙を見た時点から惹きつけられていたのですが、いやいや、面白すぎるよ、これ。

作家が京大出身ということもあり、舞台はすべて京大近辺。木屋町でのサークルのコンパとか古本市とか、もう全部分かる、分かるよ!って感じ。特に学園祭では僕もゲリラ的に大道芸やったりしてたからね、学祭実行委員とのバトルとか想像できすぎて笑えました。

物語はそんな京大生にとってのリアリティーと荒唐無稽なファンタジーの混ざり合う汽水域を軽やかに進んでいくのです。そのバランスがまた絶妙。思えば京大生の学生生活も恋愛感も一般の視点からみたら限りなくファンタジーなんだろうからね。その境界線がどんどん分からなくなっていく感覚がすごく楽しい。

作家のプロフィールを見たら、この人僕より年下なんですよ。子供のころから作家ってのは尊敬すべき人生の大先輩っていう思いを抱いてきてたから、僕もついに年下の作家に楽しまされてしまう年になったのかと思うとちょっと複雑でもあります。ちょうど憧れのお兄さんだった高校球児がいつの間にか年下になっていたことに気付いたときのショックと同じですね。世の中は目まぐるしく動いているように見えるけど、実はいつも同じ場所に留まっていて、その中で少しずつ自分自身の立ち位置が変わっているだけなのかもしれない。寂しくもあり、素敵なことでもある。

人生は短し。僕も頑張って歩こう。

今日の一言
「熟女もの」の女優が年下だったんですけど

陸上競技の素晴らしいところ

なぞなぞを一つ。

みんなそれが始まることを心待ちにしているんだけど、いざ始まると一秒でも早くそれが終わることを望んでしまう競技ってなーんだ。

****


答えは陸上のトラック競技。

世界陸上はテレビにかじり付きというほどではないですが、割と見てしまいました。ちなみに僕は中学生のときは陸上部。だからあの競技場の独特の雰囲気ってすごく良く分かります。広いフィールドでいろいろな種目が同時に行われるんだけど、これからスゴイ人がでるぞってときは誰も口にしなくてもなんとなく肌で分かるんですね。例えば跳躍競技で記録が期待できそうな人の試技になると会場中の空気が張り詰める。そういうのが好きだったなあ。

陸上競技のよさはなんてったってその分かりやすさ。あらゆる競技の中でこれほど勝敗がはっきりつくものはないですよね。より速く、より高く、より遠くへ行ったものが勝者。単純明快、解説なんて一切不要です。でもその勝敗の基準以上に分かりやすいものがもうひとつあるんだな。ある陸上選手がインタビューで言ってました。

「陸上競技の素晴らしいところは、失敗しても全部それが自分の責任になることだ」

分かる、その気持ち。

日本代表のサッカーを見てて、ゴールが目の前にあるんだから直接シュート打てよっていうシーンでも変なパスを出してチャンスをつぶしてしまっている (少なくとも素人の僕の目にはそう見える) ことがあるでしょ。自分がシュートを打ってゴールできる確率が20%という状況でパスという選択肢もあって、それでゴールが決まる確率が同じ20%だったとするとどうしてもそっちを選んじゃう心理が働くんでしょうね。そういうのって追うべき責任までパスしているように見えてすごくイライラする。同じ80%で失敗するのでも個人が責任を負う失敗のほうが見ているほうは吹っ切れるんです。

陸上競技は誰にもパスをすることができない。弱気になったって自信がなくたって自分がシュートするしかないんです。そう腹をくくったときの人間の姿ってなんか美しいな。やっているほうだってうまくいかなかったらとことん落ち込めるし、逆に成功したらその栄誉はすべて自分のものにできるのですよ。1人ってのはしんどいけど分かりやすい。

責任が導火線に火の点いた爆弾とばかりにぽいぽい投げ交わされている社会にあって、心からスカッとさせられる名言ですね。「陸上競技」の部分は「受験」や「大道芸」に置き換えても同じことがいえるんじゃないかな。そうであって欲しいね。

今日の一言
投てき競技って記録よりも落下地点にいる人に当たらないかにハラハラしてしまう

最後の夏服

土曜日の予備校は学校が終わって直接やってくる制服の高校生がいっぱい。昨日、僕の授業を受けている高3の女子生徒から
「先生、今日でこの制服を見るのも最後ですよ。」
って言われました。一瞬なんのことかと思ったのですが、なるほどね。来週からはもう10月。彼女にとって高校生の夏服を着るのは今日が最後だということです。

そういえば昨日は、小雨がぱらついていたせいもあってか、駅で電車から降りた後いつもと違うひんやりとした空気にどきっとさせられました。つい数日前までひょっとしたらこのまま永遠に夏が続くんじゃないかと心配していたのが嘘みたいですね。極端に暑いか、極端に寒いか、断固としてちょうどいい温度になろうとしないうちの予備校の教室の空調を思わせる気候の変化。きっと誰かが大慌てで空のエアコンのスイッチをONにしたのに違いありません。

彼女にとって高校時代の夏がもう二度とやってこないのと同じで、僕にとっても今年の夏は二度とやってこないかけがえのないものであったはずなんだよね。だらだらと過ごしている僕でも時節の変わり目には不思議とそういう特別な気持ちになってしまいます。気候の変化が木の成長の速度を変化させ年輪となって痕跡を残していくように、季節の移り変わりはそれぞれの人生に小さな句読点を打つ役割を果たしているのだろうなと思います。四季が日本人の感受性を高めたっていう説もちょっとうなずける気がしますね。

今日の一言
人生の記憶は季節ごとにチャプター編集されている

イルミネーション

大阪なんば辺りのクリスマスの雰囲気を見ていると小学校の授業参観日を思い出します。慣れないよそいきの格好で現われる親、とってつけたようなやさしい口調で喋る担任の先生。やけに張り切って手を上げる生徒。みんながみんな無理してちょっと浮き足立ってる。お前ら普段は絶対そんなんじゃねえだろって突っ込みたくなる感じですね。ところが同じ雰囲気を神戸が身に纏うととたんに本物に見えるから不思議なものです。普通の民家の玄関先に置かれている小さなクリスマス飾りさえ何の違和感もなくしっとりと空気に溶け込んでいる気がする。お洒落な洋服と同じで着こなせている街とそうでない街があるんだよ。あ、思いっきり偏見入ってます。大阪の人、ごめん。

夜、三ノ宮の街の木を彩る無数の青白い光を見ていると、ふと、坂口安吾「桜の森の満開の下」の冒頭にある印象的な一節を思い出します。

桜の花の下から人間を取り去ると恐ろしい景色になります。

現代人は桜の下で陽気に宴をし、その花を綺麗だと愛でているけど、満開の桜の下は本当はすごく怖い場所で昔の人は誰も近寄らなかったんだってくだり。

クリスマスイルミネーションをじっと見てると同じような怖さを感じるときがありますね。例えば今もし周りからすべての人が消えて、この電飾の下に僕だけがとり残されたとしたら。たぶんとても正気ではいられなくなるだろうな。小説の中の盗賊のように一刻も早くこの場を離れようと走り出してしまうんだ。人の心を虜にする美しさってのは実は恐怖心と紙一重なのかもしれない。その恐怖心を紛らわすため人は人の温もりを求める。クリスマスのイルミネーションの下にカップルが集まる本当の理由はこれに違いないね。

財政難でその存続が危ぶまれている神戸のルミナリエが本日からスタート。10年前くらいに一度行ったきりあまりの人の多さに足が遠のいていたんだけど、最後の機会っていうのならもう一度見てみたい気もするなあ。

今日の一言
玄関のクリスマス飾りにも経済が見える

落し物

先日名古屋の地下鉄に乗ったときの話。最初は気がつかなかったのですが、僕が座っている席のすぐ前の床に何か落ちている。よく見るとそれはボールペン、しかもただのボールペンではなく三色ボールペンです。学生か誰かが落としたものなのかな。テーブルの上に置いてあれば見慣れた物が、地下鉄の車内の床に落ちていると何か異質な物体に見えるから不思議なものです。

で迷ったのはですね、例えばこれが財布だったり切符だったりするなら当然駅員さんを呼び止めて「これ落ちてましたよ」って渡すのが筋です。しかしボールペンにそこまでする義理もない。かといって拾ってポケットにしまってしまうにはちょっと心が痛むでしょ。まだ普通のボールペンだったら「あり」なのかもしれないけど、三色ボールペンだと「なし」なのよ。この余分な贅沢感。三色ボールペンの落し物としてのポジションはかなり微妙だよな。

でまあ、結果的にどうしたかっていうと完全に無視を決め込んだのですよ。気づかぬ振りの知らぬ顔。しかし如何せんやけに人目にとまる地下鉄の床の三色ボールペン。その目の前に僕が座って本読んでいるのだから、まあ当然誰もが僕が落とし主だと思うわね。心ある人が近寄ってきては三色ボールペンを拾い上げ、「これ落とされてますよ。」って言ってくるわけだ。そのたびに「いや、すいません、僕のじゃないんですよ。」ってちょっと気まずい感じになる。でもそのあと人間の行動がなかなか面白いね。しばらく持て余すようにボールペンを眺めた後、おもむろに最初と全く同じ状態にボールペンを置いて去っていくのよ。まるでしてはならないことをしてしまったみたいな感じで。多分みんな考えてることは僕と同じなんだろうな。

車内の微妙な違和感をよそに床の上の定位置を占有しつづける三色ボールペンはどことなく文学的です。丸善の本棚に置かれたレモンのその後はきっとこんな感じだったに違いないね。

今日の一言
一日三色ボールペン

これが私の優しさです

「イエスキリストは私たちの罪を背負って十字架にかけられました」

まるで卒業証書でも読み上げるかのような高らかな口調を響かせながら街宣車が走っていきます。何もこんな日にまでやらなくてもいいのにと思ってしまった自分に苦笑。あっ、そうか今日はもともとそういう日なのか。ホーリーかどうかはともかく決してサイレントではないクリスマスイブの神戸で昨日も夜まで仕事でした。

クリスマスには街に人が増えるからか献血や募金を呼びかける人の姿も多く、その横を大勢の幸せそうなカップルが素通りしていきます。この恒例の光景を見てサイモン&ガーファンクルの歌うクリスマスの定番曲「Silent Night」を思い出しました。2人のしっとりとしたハーモニーのバックにチューニングのずれたラジオみたいにぶつぶつ喋る人の声が入っているもの。これは決して電波の混線でもレコーディングの失敗でもなく、ポールサイモンが意図的に挿入した実際のテレビニュースの音声です。神聖なクリスマス曲とあまりに現実的なニュースを重ねることで世の中の理不尽を浮かび上がらせる、ポールサイモンらしいといえばらしい手法なのですが、残念ながら英語のさっぱり分からない日本人にとってはバックの声は辛気臭い雑音以外の何ものでもありません。いや、おそらく英語が分かる人にとってはもっと辛気臭いんだろうな。頼むから普通に美しく歌を聞かせてくれと思っている人は多いはず。

谷川俊太郎さんはこの光景を全く別の視点で切り取っています。

あなたが死にかけているときに
あなたについて考えないでいいですか

「これが私の優しさです」という詩の一節。

幸せの中にいる人にとって移植を必要とする子供がいる現実も、こんな日にまで働かなければならない予備校講師の愚痴もすべて耳障りな雑音にしか聞こえない。それはそれでしかるべき人間のあり様なのかもしれないな。誰だって人気のレストランでおいしい料理を食べている間は、その外に並んで待っている人の気持ちを考えることはしないもんね。

そういう人間の罪を背負うために今日はキリストが生まれた日なんです。別にキリスト教徒ではありませんが、とりあえずキリストに感謝。

今日の一言
クリスマスが誰の誕生日なのか知らない人は多いとかよく言うけど、その前日が誰の誕生日で休みなのかを知らない人はもっと多いんじゃないだろうか

メッセージ

今年は大晦日の夜中まで講習があるというハードなスケジュール。周りがどんどん仕事収めをしていく中いつもどおり働かないといけないってのは不思議な気分ですね。かくれんぼをしていたらいつの間にか隠れていたのは自分だけだと気づいたときのような寂しさ。同時に、いま世界を回しているのは自分なんだみたいな妙な誇らしさもあったり。

まあ、喫茶店や電車がすいてのんびりとすごせる時間が増えるのはいいことなんだけどね。今日は授業と授業の間の空き時間とパソコンを駆使してこんなものを作ってみました。お世話になった人への感謝を込めて。

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ちょっと分かりにくいかな。文字の半分は洗面所の鏡の中にあるのです。不思議でしょ。どういうからくりかはよーく見たら、、分かるはず。

試行錯誤しながら作っている間、これを見てみんながどんな顔をするかを想像して馬鹿みたいにどきどきしている自分に気づきました。誰かに驚いて欲しい、すごいって言って欲しいっていうすごく子供じみた感情。多分すべてのパフォーマンスの出発点ってこの「どきどき」なんだって思う。まだ自分の中にそんなところがあるのに気づいてちょっとうれしかったり。

我ながらなかなかの出来ですね。洗面台のところにセットして写真を撮り、そのままの状態にしてこっそり帰ってきました。明日みんな気づいてくれるかな。

今日の一言
どうかゴミと間違えられて捨てられませんように

裏表紙

「文章がうまいですね」って褒められると素直に嬉しい。たぶんそれは誰かが誰かの魚の食べ方を見て「きれいに食べますね」って褒めている程度の意味合いでしかないんだろうけども、それでもやはり嬉しい。さほど文学的な才能に恵まれなかった僕がそれでもなんとか人に喜ばれる文章を書きたいと思って試行錯誤しながらどうにかこうにか身に付けてきたものを認めてもらった気がするからなんだろうな。

「人に読ませるために文章を書く」という行為に僕が初めて向き合ったのは高校生の頃、生徒会のメンバーがたむろする小さな部屋に置かれていた生徒会誌と呼ばれるノートがその出発点だった気がします。生徒会誌と銘打ってはいるものの活動の内容を報告するといった殊勝な目的とは全く無縁で、日々思うことや小ネタを皆が自由に書きあうようなものでした。とはいえ時には1つのテーマについてみんなが意見を寄せあったり、その結果ちょっとした論戦になることも。

そのノートに文章を綴ることが僕は好きでした。夏休みの宿題に提出する読書感想文なんて大嫌いだったんだけどね。定められた原稿用紙のマスを塗り絵のように埋めていくだけの文字は書かれた瞬間に役目を終えて死んでしまうけど、そのノートに書いた文字は確かに生きて自分の身近な人に届く、その人を笑わせたり、考えさせたり、時には傷つけたりする。それを肌で感じるのはすごく素敵な、そして大切な経験でした。言葉の持つ力の強さや繊細さを知り、心と言葉の間合いの取り方やリズムを自分なりに少しずつ体得していく。我流ででたらめもいいとこ、国語の時間に習う文章のセオリーなんてちっともピンとこないし、句読点の打ちかたも曖昧だし、「です・ます調」と「だ・である調」が混在するし。それは今も全く変わらないんだけど、でも多少なりとも人に感心されるような文章が書けるのはこのとき培った経験あってこそだと思うし、このブログも確かにこの会誌の延長線上にあります。

今ではこういうやり取りはネット上の掲示板やmixiの日記にとって変わったのだろうけど、大学ノートに書く生徒会誌だからこそ皆が共有できていた面白い認識が一つありました。ノートに文字を書いていく限り必ずおとずれる最後の1ページ。それも紙のページをすべて費やした後おまけのように残される表紙の裏側のつるつるした部分ね。本来字を書くための場所ではないので鉛筆の芯がすべって異様に書きづらい。それでも最後を締めくくる文章をここに書くのはここにたどり着いた人だけに与えられる貴重な権利でした。誰も口にしないけど、そこには間違いなく何か特別な雰囲気があったな。普段なら気恥ずかしくてちょっと書けないようなまじめ考えであるとか、将来の夢、あるいは誰かに対する個人的な感情とか、そんな文章を書いても許されるような気がした。新しいノートが始まればすべてなかったことになっていつもどおりまた皆がたわいのない話を始めてくれるんだからってね。

明日はいよいよ大晦日。それが1年分のノートをきちんと使い切った自分へのご褒美としてやってくるつるつるの裏表紙のように僕には思えます。さあ、何を書こうかな。生徒会誌を前にペンをとり、どきどきしていた高校時代の自分の姿がふとよぎります。

今日の一言
裏か表か裏表紙

つれづれなるままに

今年何十回と通った中津のスターバックスのなじみのイスに座り、パソコンを開けてこの文章を打っています。小雪のちらつく寒さの中、テラスでコーヒーを飲もうと思う人はさすがに僕ひとり。でも今年ずっと続けてきた習慣を年の最後の日だけ変えるのは癪なので半ばむきになっています。大昔に誰がどういう基準で今日を年の区切りに定めたのかは知りませんが、とにもかくにも2000回以上続けられてきた習慣には寒さを我慢するくらいの敬意を払ってもいいのではないかって思ってます。パーカーの前をきゅっと閉じ、時折やってくる強い横風に背中を丸めながらキーを叩く僕の姿は、傍から見たら何の罰ゲームかと思われてるに違いありません。

年末には誰もが歩みを止め、頭を上げて自分の立ち位置を確認します。自分の歩んできた道を振り返り、自分のこれから進む先を見定めようとする。もちろん僕も人並みにはそういうことをします。でも幸運にも、ひょっとしたら「不幸にも」というべきなのかもしれないけれど、僕は今の自分のいる地点が本当に正しいのかどうかなんて真剣に悩んだことがないし、その軌道を修正しようと思ったこともない。全く後悔していないのかと言われてもそれは「分からない」としか言えないな。例えばずっとWindowsパソコンを使ってきた人にそれを後悔していないかと尋ねたところで、MacもLinuxも使ったことがなければそれはやはり「分からない」としか言えない、それと同じです。もちろん不満を挙げればきりがないけど、まあ悪くはないんじゃないか、そんな気持ち。

それにどのOSを選択したところで、それは枠組みだけの問題であって僕がその中でやることはさほど変わるものじゃないような気がするのです。人生の分岐点でもう1人の僕が今とは反対の選択をしていたら、あるいは今と違う職業につき、違う恋愛をし、違う結婚をし、違う家に住み、いいか悪いかはともかく今とは180度違う生活をしていたのかもしれない。でもいまその自分がここに現れたとしたら、それはパリっとしたスーツに身を包んだビジネスマンかもしれないけど、やはりその僕はテラスのテーブルに座り、寒さにうち震えながら、今の僕と同じような文章をパソコンに打ちこんでいるのではないか。そうだといいな。自分の根っこの部分の頑固さについては我ながらそれくらいの信頼は置いてもいいかと思ってます。歳末希望的観測。

自分が好きだと思ったことをやり、好きだと思った人とつきあいながら生きていく。そんなことばっかり続けてたらいつか壁にぶつかるぞって声も聞こえるけど、そのときはそのときでまた考えればいいや。幸いなことに僕は自分がこうやると決めたことには割と謙虚に取り組み、それなりの結果を出すだけの甲斐性は持っている(らしい)。もっと才能が欲しいと思うことはしょっちゅうだけど、身に余る才能が人を滅ぼすことがあることを思えば、少なくとも僕の手におえる範囲のそこそこの才能は与えられていることには感謝しようかな。

こんな能天気なことを書いていられるのも、きっと僕の知らないところで僕を支えてくれている多くの人のおかげであることは十分承知しているつもりです。どうも1年間ありがとうございました。そして真に勝手ながら来年もどうかよろしくお願いします。

来年が皆様にとって今年以上に素敵な一年でありますように。

2007年 大晦日 小雪舞い散る極寒のスターバックステラスにて

緊張と付き合う

センター試験を直前に控え「先生、早くも緊張してきました。」みたいなことを言ってる受験生がいました。いやいや、さすがに早すぎる。まあ気持ちは分かるけどね。きっと僕ら芸人が舞台袖で自分の1つ前の演目を見ているときと同じなんだろうな。あのときの緊張ってすごいですからね。自分の心臓の音が誰かに聞こえているんじゃないかって思うくらい。

その緊張をどうやってほぐすか。僕の場合はどうしてもほぐれないですね。ステージに上がって照明がつくその瞬間までずっとどきどきしてます。でもいつも自分が使っている音楽が聞こえ、それにあわせて動いているうちにすっと冷静になれる。そこにいつもの自分がいることに安心するのです。ゆとりが出てくると大舞台は逆に味方になります。反応に手ごたえがあるから、それでいっそうリラックスして良い演技ができる。

もちろん常に失敗は怖いです。過去にも思い出すだけでぞっとするような演技はいくつもありました。例えば初めて大道芸ワールドカップにソロで出演したときの初っ端の演技。出だしの音あわせネタで動きを間違えて、そこから舞い上がってしまって、ほとんど何をしたか覚えていないほどテンパってしまいました。へこみまくった苦い記憶です。でもですね、その演技を後から恐る恐るビデオで見てみると、自分が想像していたほど悪くはないのですよ。まあ、よい演技ではないけど、死にたくなるほどひどいものでもなかった。特に完璧を目指すような環境では小さな失敗を必要以上に増幅してしまう心理が働きがちなんだろうな。実際はたいしたことではないのにそれがものすごく重大なミスに思えてしまう。

ミスなんてうまく対処さえすればどうにでもできるもの。いつもどおりの自分の演技ができないのはすごく悔しいけど、それでもそのときにできる一番いい方法を探してそれで納得する。悪い、でも最悪ではない、そういう演技をしたらいい。僕が経験から学んだ1つの哲学です。そのために考えうるありとあらゆるミスのうち最も悪いものに遭遇したときを想定し、それにどう対処するかまで考えておく。それは心の余裕にもつながります。

最後に、舞台袖でどきどきしている僕にある先輩の芸人がつぶやいた言葉。

「ここで緊張しなくなったら芸人なんてやめたほうがいいよ。」

その通りですね。ちょっとくさいですが、緊張は自分が全力で生きている証だと思います。一生のうちにそう何度もこないであろう熱い瞬間。それをしっかりと楽しむくらいの気持ちが持てれば一番いいですね。

今日の一言
MCに「池田たかし」と間違えられたことを僕は未だに忘れない(笑)

少なくとも最後まで歩かなかった

「走ることについて…」の中の春樹さんの言葉。この言葉の重みを実感させるような大阪女子マラソンの福士選手の走りでした。朝のニュースでみて感動してちょっと泣いてしまいましたよ。

マラソンの鬼門といえる35km地点で失速、ゴールまであと1kmという距離になって足が動かなくなり、何度も転び、それでも起き上がって走り続ける。ランナーとしてのプライドをずたずたにされ、記録なんか到底望むべくもない状態。コーチも何度も歩いてもいい、やめてもいいと声をかけ続けていたのに、それでも走り続けた。あの状態で人を動かしているものっていったい何なんだろうね。

鼻を真っ赤にして、苦しそうに顔をゆがめて走る人は冷静に見りゃすごく格好悪い。無様に転び、生まれたての子鹿のようによろよろと立ち上がろうとする姿もとても人に見せられるもんじゃない。それでもつい目が離せなくなってしまうのは、走ることに込められたたくさんの比喩があり、僕らはそれを見ていたいからなんだろうな。だって生きるってそういうことじゃん、みたいな。

彼女の姿勢を見ていると記録とか、五輪とか、そんなこともうどうだってよくなるね。

少なくとも最後まで歩かなかった。

ただそのことに心から拍手。

今日の一言
あの状態でも人は笑うことができるのが素敵だ

さあ、いよいよ

家に帰る道程、駅を降りて外にでたら、楠玉を割った後の紙ふぶきみたいに大量の雪が降っていました。その音が聞こえるんじゃないかと思うほど閑静な夜の住宅街。街頭の明かりに雪が反射して、光の筋がくっきりと浮かび上がっています。ちなみにこれを物理学の用語では「チンダル現象」といいます。うーん、せめてもう少し品のある名称にして欲しかったね。どんなロマンチックな光景も台無しです。

今から14年前の今日もきっとこんな雪の夜だったはず。どうしてそんなことが分かるかというと明日はいよいよ国公立の大学入試の日なのです。雪の中、電車が遅れないかどきどきしながら会場に向かった記憶が僕の中にまだありますね。明日の朝は大丈夫かな。人のことには基本的に無頓着な僕ですが、それでも魚心あれば水心。僕を慕ってついてきてくれた受験生には愛着があるし、その努力が報われて欲しいと心から思っています。

僕も明日は職場に待機。新聞に掲載するための解答速報を作るという大切な仕事があります。実はこれは僕の最も好きな仕事の一つなんだよね。試験問題ってのは一つの歴史を作るでしょ。何年か後に今年の入試を振り返って、ああ、あの年にはこんな問題が出たんだよ、なんてそのときの受験生に話すことに絶対になる。そう思うと問題用紙をめくる時にまるで新しい歴史の扉を開くような気分になります。今年はどんな出題がされるのか、ちょっとワクワク。

さすがに受験生にはそんな余裕はないかな。でも間違いなく明日は一生の記憶に残る1日になるはずですよ。僕がそうであるように。その1分1秒をかみしめるようにどうぞ楽しんで来て下さい。

くれぐれも朝は家を早めに出ましょう。

今日の一言
人事を尽くして天命を待つ

花はさかりを

今週の日曜日は素晴らしい天候にも恵まれ、京都は桜の最高の見頃を迎えました。人ごみが嫌いな僕ですが、とある事情で円山公園にお花見に連れて行かれるはめに。

桜の時期にここに来るのは8年ぶりくらいかもしれません。想像を絶する人の間でブラウン運動を繰り返しながら、全国的にも有名なしだれ桜の前に近づいていきます。公園のほぼ中央に位置する大木の周りはやはり絶好の写真スポットであるようで誰もが空に向けて携帯を向けます。その結果少し離れた所からみるとものすごい数の携帯電話が人の頭からにょきにょきと突き出し、ちょっとした携帯の草原を作ります。ちょっと頑張ればあの上を歩けるんじゃないかな。ナウシカのラストシーンを思い出して目頭が熱くなりました。ランランララランランラン。

なんだかんだ言って僕もこの桜とは久しぶりの対面だったので、内心は少しわくわくしていたのですが、いよいよそれを目にしたとき何か物足りない感じを覚えました。周りの人を観察するとみんなもちょっと微妙な反応なのですね。あれ、ま、でもやっぱり綺麗だよねー、みたいなワンクッションあるリアクションをする。

過去の記憶の美化を差し引いても、やはりかつての見事さが影を薄めているのは否定できないですね。かなりの老木、幹への負担を考えて大幅に枝を間引いたのかもしれない。人の容姿と同様、花はその木の生命力を如実に反映してしまう。それが徐々に失われていくことをさらけ出すことになるのは桜であるが故の悲しい宿命です。

自分の衰えを自覚し、それでもなお公園の中央に居座り続けなければいけないこの桜はどんな気持ちなのかな。無様な姿を人目に晒すくらいならいっそと、円楽さんのように潔く身をひきたいと本当は願っているのかもしれない。そう思うと桜に向けて浴びせられる無数のカメラのフラッシュがものすごく残酷なものに感じられてしまいました。

今日の一言
桂米朝さんの姿をふと重ねてしまいます

アビーロード

最近は大分体もランニングに適応してきたのか、少々の距離では悲鳴を上げなくなりました。普段は5kmほどですが、週に1回、時間のあるときを見つけて10kmの距離を走ります。北大路通りから鴨川を南へ。今出川通りを超え近衛通りまで下り、荒神橋を渡って折り返して帰ってくるとちょうど10kmくらいになります。

途中に休憩をはさまなければ時間として50分弱、これはビートルズのアルバムにうってつけの長さ、というわけで最近はもっぱらアビーロードを聴きながら走っています。曲のテンポもアルバム全体の時間もジャストフィット。レコード時代のアルバムは往路がA面、帰路がB面になるというのも面白いです。

「Abbey Road」。ビートルズの事実上のラストアルバム。4人が横断歩道を横切るジャケット写真は最も多くの人にパクられた構図としてギネスブックに載ってもいいのではないかというくらいあまりに有名ですね。ジョギングしているのが朝だからかもしれませんが、個人的にはこのアルバムには深夜から早朝、そして真昼間に向かう1つの時間軸を感じてしまいます。

序盤は夜のライブ。「Come Toghether」を始めとする定番のロックナンバーが続きます。お酒が入ってきたのか徐々にテンションが高まり、やがて深夜へ。朝の2時を超えて何しても笑えてしまうようなあの高揚感が訪れます。「I Want You」はそんなめくるめく混沌、悪夢。

それが急に途絶える。

ここで聞こえてくるのがジョージハリスンの名曲「Here Comes the Sun」です。まだ朦朧とする頭の中で妙に痛い朝日を浴びる。荘厳な印象の「Because」は朝の教会のミサの雰囲気。

さてここから、ラストまであの圧巻のメドレーが続きます。バラバラだけどつながっているのか、つながっているけどバラバラなのか。一晩明けて何かが吹っ切れたような多少やけっぱちな爽快さがあるな。とにかく一つ一つの楽曲が、本当にこれが解散を間近にしたバンドの演奏なのかと思わずにはいられない完成度の高さです。

メドレーの最後を締めくくるのが「The End」。ここにポールがビートルズ脱退の記者会見をする昔の白黒映像がかぶります。あの映像がどの時刻に撮影されたのかは分からないけど、僕の中ではあれは真昼間のイメージなのです。やるだけのことはやった、これでいいだろう、そうつぶやくような「Her Majesty」であまりにあっさりとアルバムが終わりを迎えます。

彼らの最高傑作と称えられながら、しかし決して完成してはいない。聞き終えるたびに切なくなるアルバムです。モーツァルトが生きていれば彼らと同じことをしたであろう。ビートルズをそう評する人がいます。それに準えればこのアルバムはまさにモーツァルトの未完のレクイエムなのかもしれないな。

ちなみに今活動休止で話題となっているサザンオールスターズの現時点での最新アルバム「キラーストリート」のタイトルおよびジャケットがこのアビーロードのオマージュであることは有名な話。これがサザンのラストアルバムにならないことを僕は心から祈ってます。

今日の一言
バンドの終焉は恋の終わりに何か似ている

全力少女

今日駅で全力疾走している女の人を見ました。

髪振り乱して、カバンとかバンバン柱にぶつけて、冷ややかに見つめる通行人なんか目もくれず走る。これでパンを口にくわえてたら完全に漫画です。どのくらい本気で走っているかは腕の振り方を見るとよく分かりますね。マラソン大会なんかでやる気のない生徒が手をだらだらと横に振りながら走ってるのを良く見かけますが、その女の人はカバンを肩にかけて腕をしっかりと前後に振りながら走っていましたから。腕振りは走ることの基本であるといいますが、こういうのを見るとなるほどと納得できます。

単に漠然と急いでいるというだけではああいう走り方にはなりません。電車に乗り遅れそうなのか、自分の身代わりになった友人が処刑されそうになっているのか、タイムリープしようとしているのかは定かではないですが、いずれにせよ具体的な何かが彼女の頭の中には見えているんだろうな。苦笑しながらも、その後姿がなんとなく美しいものに見えました。事情は分からないけど、なんか頑張れ。

なりふり構わず一心不乱に走ること、最近忘れかけているよなあ。

今日の一言
曖昧な理想を持っている人より、差し迫った現実を目の前にしている人の方がはるかに強い。

休日の雨はなんか好き

雨の日と月曜日はいつも私を憂鬱にさせる

ってカーペンターズも歌っているように、何かと厄介もの扱いされることの多い雨の日です。

でも最近は休日は雨が降っている方が落ち着くようになりました。逆にいえば気持よく晴れ渡った休日ほど心乱される日はないです。お弁当を持って外にピクニックにでもいく計画があるのなら別ですが、僕は休日はたいてい部屋、ちょっと良くて喫茶店にでもこもって原稿を書いたり、採点をしたりと作業をしていることがほとんどだからです。外が晴れているときに閉ざされた空間にいることに何とも言えぬ後ろめたさを感じてしまうのはどうしてなんでしょうね。ひょっとしたら自分は何か取り返しのつかないものを無駄にしているのではないか、そんな根拠のない焦りが湧き上がってくる。太陽は内の世界と外の世界に残酷なまでにはっきりとした陰陽をつけてしまいます。

でも雨はそんな陰陽をやさしくひっくり返す。雨が降っているのを内側から眺めるときの安心感、守られているって感覚はすごく好きですね。休日の朝、目が覚めた時に屋根を打つ雨音が聞こえてきたりなんかすると無性に嬉しくなります。家にいるための免罪符をもらったような気持ち。仕事も不思議にはかどります。

くれないの 二尺のびたるばらの芽の 針やわらかに 春雨の降る

病気で部屋で横になっていることの多かった正岡子規、この句には冒頭の歌詞とは対照的に雨をやさしく見つめる気持ちが表れている気がします。それはきっと彼が内側の世界の人間だったからなんだろうな。雨が降る外の世界を眺めながら感じた安堵感が今はなんとなく分かる。

梅雨が終わることがふと悲しく思えるこの頃です。

今日の一言
教室にいるとき雷がなると不思議にワクワクした

天高く馬肥ゆ

空は頭上に限りなく広がっているもので天井なんてないはずなのですが、それでも「天高く」という表現はまさにこれを言い表したものに違いないと確信させるほど見事な秋晴れの空ですね。闇にも深さがあるように、永遠より遠くがあるように、空にも高さがあるのです。無限に続くものに大きさの差を認識する人間の感性はなかなか面白いですね。カントールなら今日の空を見て「この青空はアレフ2だ」とかなんとか言ったのでしょうか。

思えばここ近年、ああこれぞ秋と感じさせる日が少なかったです。10月になっても11月になっても夏の気配がくずぐずと残り続け、小さい秋も大きい秋も見つけられぬまま気づいたら冬になっていたというパターン。振られた男の未練みたいなもので、ちょっとみっともないね。最近の秋にはちょっとそういう女々しいところがあるのよ。夏のことはもうきれいさっぱり忘れました、今ではいい思い出です、秋にはそう言い切って欲しいのです。でも今日の澄み切った空を見て、あ、もう大丈夫だなと僕は思いました。やったじゃん、ちゃんと吹っ切れたじゃん。

ちなみに「天高く馬肥ゆ」という表現に僕たちは澄み渡った空に食欲の秋というすがすがしいイメージを連想をしますが、これはもともと中国の国境沿いに住んでいた農民の諺で「秋になると馬に乗って略奪にくる蒙古人に気をつけろ」という警告の言葉だという話を聞いたことがあります。日本人の「侘び寂」の精神性を育んだ大切な季節も、中国の農民にとっては脅威の対象でしかなかったのかもしれませんね。この抜けるような青空にも現代に通じる日本と中国の文化の差が垣間見えます。

今日の一言
開晴の空

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