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ギミック

<手品師>「必要以上に種明かし」とテレビ局を提訴
5月1日20時26分配信 毎日新聞


テレビ番組で手品の種を明かされ、損害を受けたとして、マジシャン49人が1日、番組を放送した日本テレビ放送網とテレビ朝日を相手に計197万円余りの損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こした。原告側の小野智彦弁護士によると、手品の種明かしをめぐる訴訟は初めてという。
 訴状によると、両局は昨年11月、手品用に硬貨を削ったとして、原告とは別のマジシャンらが貨幣損傷等取締法違反容疑で逮捕されたと報道した。
 その際、日本テレビは、キャスターが手品用コインを使って、たばこがコインを貫通したように見せ掛ける手品を実演し、同時に種明かしをした。テレビ朝日も、別のコインを使った手品の種を明かした。

実際のコインを加工し、仕掛けを施したコインをギミックコインといい、コインマジックをする人であればまず知らない人はいません。手品の世界ではハーフダラーと呼ばれるアメリカの50セント硬貨が良く使われ、アメリカのコインは加工することに対しては法的な規制がないので、ハーフダラーのギミックは数多くあります。しかし日本で手品をするときはなじみのない外国のコインを使うより、やはり見慣れている日本の硬貨を使うほうがはるかに効果的 (あ、駄洒落になった) なのですから、当然日本の硬貨でもギミックを作りたいという欲求が生じます。しかし日本の硬貨の加工には貨幣損傷等取締法という壁があったのです。半年ほど前、日本の硬貨を加工していた手品師がこの法律違反によって逮捕され、手品界に大きな衝撃が走りました。

というのも実を言えば、日本の硬貨のギミックなんてとうの昔から出回っており、事件前はマジックショップのカタログにも堂々と載っていましたし、今でもコインマジシャンの道具箱を見れば大概入っているような代物なのです。僕の友達で財布の中にギミックコインを入れておいたのをうっかりレジで使ってしまい、後で気付いてあわててレジに戻り、「すいません、さっき間違って大事な''記念硬貨''を使ってしまったのでレジを調べさせてもらっていいですか。」と苦しい言い訳をして取り戻したというつわものがいました。笑い話ですが、これだって一歩間違えば立派な犯罪となります。

多くのマジシャンはそれが法律に触れるかもしれないことは認識しながらも、手品以外のことに悪用はしないという良識のもとでギミックを使ってきたわけです。ギミックコインはその存在自体コインマジックにおいてはトップシークレットなので、その''違法行為''はギミックコインの存在とともに秘密のベールで隠されていました。そんな経緯から、マジシャンにとってショッキングだったのは、その逮捕もさることながら、事件の報道によってギミックコインの存在を多くの一般の人が知ることになってしまったことです。それが冒頭に引用したニュースにつながったわけです。原告のマジシャンの中にはテレビに何度も出ているような手品界の大物も名を連ねています。

このニュース、あくまで部外者である手品愛好家の一人として書かせてもらうと、手品師の側の言い分は少し「大人げない」という印象です。もちろん手品師として種の秘密を守らなければならないというのは分かります。しかし、手品というのはたった一つの種が知れてしまったからといって、そのすべてが台無しになってしまうほど底の浅いものではないでしょ。一流の手品師によって演じられる手品というのは、客が例えそのようなギミックがあるという予備知識を持っていたとしても絶対にそれを見抜くことはできないし、同じように驚き感銘を受けるものだと断言できます。手品にとって道具のタネなんてあくまで付随的なものに過ぎず、おしゃべり、目線の動き、客の心理のコントロールなどもっと重要な要素が作用しながら成立しているものです。例えばデパートに売っている手品用品は「誰がやってもできる」が売り文句なのですが、それを素人がやるのとプロが演じるのではその印象は同じ現象を見せられているとは思えないほど違ってきます。その差こそプロの技術であり、手品師の共有する財産です。

ギミックコインの加工の技術というのは驚かされるほどレベルが高いもので、たぶんキャスターが紹介したのはもっとも素人受けするその精巧な機構の部分なのだろうなと思います。それをされると商品価値が下がるっていうのはマジックショップやマジッククッズメーカーの言い分としては分かりますが、手品師までが血相を変えて損害賠償だなんてのはいかにも「大人気ない」。プロならそこはプライドを持って、「そんなのなんでもないよ」と言って欲しかった。「そんなのただの仕掛けでしょ」と。タネを明かされたから「手品がやりずらくなった」なんていうのは手品ってのは種がすべてだといっているようなものですからね。

手品道具のテクノロジーの歴史をみるとこの手のいたちごっこは常に繰り返されていたわけで、例えば昔は目新しいものだった鏡や磁石を使うトリックはいまや誰でも知っている安っぽい手品の代名詞のようになっています。しかしそれでも手品は廃れてないでしょう。それは既存のものを改良したり、さらに新しいトリックを考案していく人の知恵があったからであり、なによりテクノロジーとは関係ないところで常に磨かれてきた見せ方の技術があるからです。僕が手品という芸術をなにより尊敬するのはこの部分なのだな。

ちょっと前にテレビを騒がせていた「マスクマジシャン」の種明かしに対して、多くのマジシャンが彼を非難する声明を発表したのは記憶に新しいところですが、アメリカのマジシャンデビットカッパーフィールドがそのときこのようなことを言っていたのを覚えています。「手品の種というのは過去に多くの人が心血を注いで築き上げた英知であり、それを個人の金儲けのために利用するというのは許せない」。彼は同時に次のように付け加えたのです。「彼が一つの現象について種明かしをしたとしても、私はその同じ現象を全く別のトリックを使ってやってみせることはできる」。この最後の言葉は彼の手品師としてのプライドが言わせた言葉だなと感じます。

最後に付け加えるなら、安易な種明かしによって本当に損害をこうむるのは、マジックショップでも手品師でもなく、それによって手品を素直に楽しむことができなくなる観客、つまりは視聴者なのだということ。テレビのほうもちゃんと考えていただきたいです。

今日の一言
知る権利と同じくらい知らない権利も大切だ

新作完成

池田洋介2年ぶりの新作がひとまずの完成をしました。テーマは「ネガとポジ」。ジャグリングなし、マイムオンリーの作品です。コンセプトは従来のものとかぶっているところがありますが、新しいアイデアは盛りだくさん、というよりほぼアイデア一本の作品ですね(技術がないもので、、)。

構想に半年、道具作りに1ヶ月、そしてこの4,5日はほぼ家にこもって動きと曲を作っていました。動いてみて、それにあわせて曲を組み立て、さらにその曲にあわせて動きを作るという繰り返し。やってる最中は気が狂いそうになりますが、自分の頭の中のイメージがちょっとずつ形になっていく過程は(終わってみれば)すごく楽しかったです。これこそ創作の醍醐味なんだな。

今日久々に京大の体育館の練習にいって、後輩たちを捕まえてネタを初披露。新ネタをかける瞬間は独特の緊張感があります。小学校の夏休みの工作を学校に持っていくときの気持ちを思い出しますね。自信作なんだけど、「なんだよこれ!」とか馬鹿にされるのが怖くてなかなかカバンから出せない、みたいな。一番否定されたくない自分の内面を人前にさらす、そんな感覚なんですね。

でも結果はまずまず、ほぼ想定どおりの反応を得られました。みんなが異口同音に「池田さんらしいですね」とか言うし。これは一応ほめ言葉と受け取っていいのかな。確かに(少なくとも今の日本で)このアイデアで何かをしようと思うのは僕ぐらいではないかと。ちょっとうぬぼれてみました。悪く言えば自分で作った殻を打ち破れていないともいう。次回は絶対「池田さんらしくない」ものを作るぞ。

そんなこんなで池田ワールド全開のネタです。8月3日の東京公演にはさらに磨きをかけて持っていきます。期待していてください!

今日の一言
表現することは自分の愚かさをさらけ出すこと

電位差

いつの間にか8月になってしまいました。ブログの更新がちょっと滞っていてすいません。公演を直前に控え、あわただしくもものすごく充実した日々を送っています。31日から東京入りをしてゲネプロ(通しリハーサル)をし、昨日は一日オフだったので東京観光で、築地や浅草を巡り、初めて上野公園での大道芸を見たりしました。

一流のパフォーマーさんと一緒に仕事をしたり、その芸を目の当たりにするたびに自分の芸の未熟さを痛感します。全然まだまだじゃん、って。僕がなんとか面白いものができないかって何日も何ヶ月も考えてひねりだすようなことを、その場の即興でいとも簡単にポンって飛び越えちゃう、そういう感性の違いを感じてしまうんですね。こんな世界に僕のいる場所なんかあるんだろうかって、不安でもあり、同時にとてつもない刺激でもある。

電位差が電流の動きを引き起こすのと同じように、自分が届きたい目標と自分の立ち位置との差を知るとき、それが人を動かす原動力になるんだと思う。電流との違いは人の志は低いところから高いところに向かうこと。見上げるべきものがあることはとても辛く、とても幸せなことです。

今日の一言
上を向いて歩こう

トランク

東京公演「トランク」無事終了いたしました。多くの素晴らしいパフォーマーと、影で支えていただいた素晴らしいスタッフのおかげで本当に気持ちよくパフォーマンスができました。大成功の公演だったと思います。関係者の方々、見に来てくださった方々、本当にありがとうございました。

大道芸ももちろん好きだけど、やっぱり僕は舞台が大好きです。舞台の最大の魅力とは何かって聞かれたとき、音楽や拍手がホールに反響することで大きく聞こえることや、いろいろな色の照明効果が使えることなんていうのももちろん1つの答えなのだけど、僕はむしろまったく逆の答え方ができるように思います。舞台には「無」があるんですよ。まったくの沈黙、まったくの暗闇。

ひとつの演目が終わりその余韻の中でおとずれる頭がクラってするような暗転、ざわめきがぴたりとやみ観客席が息を飲む音が聞き取れるほどの静寂。暗闇が見え、無音の音が聞こえる。これこそが大道芸にない舞台の醍醐味。そして僕は何よりこの瞬間が好きなのです。

僕の前の演目が終わり、真っ暗の舞台上板付きで照明が点くのを待っていたほんの10秒足らずの間、自分の心臓の音が鳴ってるのがはっきり聞こえました。ものすごい緊張感。あ、今僕は生きてるんだって実感した瞬間ですね。照明が点き、僕の一つ一つの動作が会場の空気を動かすのを肌で感じ、最後の大きな拍手の中で照明が静かに消える。スーパーファミコンのF-ZEROで車がピットエリアに入ったときみたいな感じで、頭の上から電波みたいなのが降ってきて僕の中のライフインジケーターを満タンにしていくのです。もこもこもこもこ。

体は疲れてるんだけど、なぜか気持ちは充電完了の緑色ランプです。他のパフォーマーから、観客から、いっぱいエネルギーをもらったんですね。さあ、このエネルギーで夏後半も乗り切るぞ。明日から怒涛の授業ラッシュ、、、

今日の一言
帰りのトランクは思い出の分だけ重くなる

制約が人を高める

久々に録りだめをしておいた「ピタゴラスイッチ」をまとめて見ました。間違いなく世界で最もクオリティーの高い子供向け番組。手間と時間と人間のアイデアがあればこんな良いものができるってことを教えてくれる僕の大好きな番組です。

といいながらも最近忙しくて見れてなかったのですが、1年ぶりくらいに見てちょっと嬉しかったのはこの番組全然変わっていないのですよ。オープニングやエンディングの映像も音楽も番組内のコーナーもその中の決まり文句もいつもどおり。番組のスタート時と何一つ変わっていません。すごく安心したのと同時にこれってすごいことだなって感じました。

民放のバラエティーなんかではマンネリ化してくるとすぐセットを変えたり出演者を変えたりってするものでしょ。でもパッケージを変えただけで結局内容は相変わらずなものを繰り返していたりします。「ピタゴラスイッチ」の番組作りの姿勢はそれとは全く逆なんですね。まず枠組みを設定し、その定められた枠組みを決して動かさずにその中で物を作ろうとしている。そういうストイックな制約の中からも毎回毎回思わず声をあげてしまうようなアイデアを生み出しているってのは本当に素晴らしいことだなと感じます。

創作にとってある種の「制約」というのは実は必要不可欠なものなのではないかとさえ僕は思っています。出口が小さければ小さいほど押し出された水は勢いよく飛び出すのと同じように、手かせ足かせをされた状態でこそ人間のアイデアはその本領を発揮してくるものではないかなと。俳句には17文字という文字数の縛りがあり、折り紙には一枚の紙というスペースの縛りがある。しかしその中で何ができるかと考えそこから生み出される作品に人間の無尽蔵の英知を感じ、感動してしまうのですよ。

型にはまらないこと、型を破ることがさも格好よいこと、すごいことのようにみなされる風潮があるけれど、行き詰ったとき型を破ろうとすることは実は一番安直な道であって、本当にすごいのは型を守り続けようとすることなのかもしれないですね。

今日の一言
創作にとって必要ないといえる制約は「時間」だけだ

アサッテの人

生まれて初めて「文藝春秋」という文芸雑誌を買いました。目当ては今年芥川賞を受賞した諏訪哲史さんの「アサッテの人」。純文学には面識も免疫もない僕ですが今年は自分の好みに偏らずいろいろなものを読むのが目標なので背伸びしてがんばってみました。序盤はちょっと辛いかなーと挫折しそうになるのですが、読みすすめていくうちにちょっとずつ引き込まれます。面白い。物語の中心に据えられるのは叔父が時折なんの脈略もなく発する単語。それら何ら意味を持たない語の並びが何故か不思議な魅力を持っているのです。その言葉の担っていた役割が叔父自身の手記によって次第に明らかにされていきます。

世の中の矛盾も混沌も結局はすべて定められた予定調和なんじゃないだろうかって思うことがあります。例えば毎朝のニュースでキャスターが残酷な殺人事件に眉をしかめ、政治を嘆き、スポーツの結果に一喜一憂するのがまるで結婚式のスピーチみたいな決まり文句に聞こえてくることってないですか。そしてそれがとても重たく耐えられないものに感じてくる。そういうのって僕はすごく理解できちゃうな。ときどき人と話していても先の読めた話に想定どおりの愛想笑いを浮かべている自分にたまらなく嫌気が差してくることがある。この本で「アサッテ」とはそういう予定調和を打ち砕くものとして定義されます。数学的に言えば平面的な日常に対して1次独立に伸びるベクトル。他人にとって理解不能な言葉は叔父にとっての「アサッテ」なんです。

「アサッテ」を追求し続けた叔父は妻の死を一つの契機として次第に自己矛盾に陥っていきます。予定調和を壊すはずの「アサッテ」自体が一つの予定調和になってしまうことに気づきはじめるのですね。それが少しずつ叔父のバランスを壊し始める。これは落語の型を徹底的に分析し、それを崩していった桂枝雀さんがその晩年に陥っていったジレンマにも通じるものなのかもしれない。

僕にとってパフォーマンスの果たす役割がこの「アサッテ」なのかもしれないって思ったとき、すごく身につまされるものを感じたのですね。芸術の方向は多かれ少なかれ日常のベクトルとは独立な向きを向くもので、それが日常と共存するためのバランス感覚はとても繊細で危ういものなのだろうな。

今日の一言
芸術にとって最後の命綱は常識じゃないだろうか

人気と実力

ラジオのFM放送、アーティストを紹介するコメントでMCが
「もともと実力のあった彼らですが、最近は人気も伴ってきました。」
というべきところを間違えて
「もともと人気のあった彼らですが、最近は実力も伴ってきました。」
と言ってしまい、あわてて訂正していました。なるほど、結果は一緒でも順番が入れ替わっただけで受ける印象が全く変わってしまうものですね。

確かに後者は「今までは人気だけで実力がなかった」って暗に言ってるわけだから、決してほめ言葉にはなりません。だけどこの2つのケースをよくよく比べてみると後者の方がひょっとしたらはるかに難しく、尊いことではないかという気もしてきます。

「人気」「実力」を共に兼ね備えることを理想だとするならば、人気が先行してしまうのはある意味すごく不幸なことではある。過剰な評価は時に自分の実力を客観的にみることを難しくするでしょ。人気の上にあぐらを掻いて努力をやめてしまったり、もしくは人気が重石になって新しい挑戦ができなくなるなんてのはありがち。一発屋と呼ばれる芸人たちがいやがおうにも陥ることになった落とし穴ですよね。そこで謙虚に自分の実力のなさを悟り、足りない実力を補い、新境地を切り開いていくことは、実力のある人が人気を得ていくこと以上にエネルギーのいることかもしれないのですよ。

人の真価というのは身の丈以上の評価を得たときにこそ問われるものかもしれないですね。

今日の一言
「もともと性格よかったけど、最近は美人にもなってきたよね」ってのは割とありそうだけど、その逆はあんまり聞かない

マルセルマルソー

パントマイムをしている人でこの人の名前を知らない人はまずいないであろうフランスのマイミスト、マルセルマルソー氏が亡くなられたというニュースをちょうど昨日東京から帰る新幹線の電光掲示板で知りました。以前来日したときおそらく日本で彼の演技を見ることができるチャンスはこれが最後だろうとささやかれていましたが結局その言葉どおりとなってしまったのですね。パントマイムが市民権を得ているとはいえない日本で彼の死がこれほど大きく取り上げられたこと自体、彼がいかに偉大さなアーティストであったかを説明しています。

ネットニュースには彼の写真が載せられていましたが、この写真をみて「なんだ、どこにでもいる白塗りの道化師じゃないか」って思った人もいるかもしれません。そういう人のために解説しておくと、思わずそういう言葉がでるほどに今では誰もの頭の中に定着している白塗りのマイムのイメージを全世界に広めた人こそ、このマルソー氏に他なりません。その後、このスタイルが多くの人に踏襲され、今ではマイムの代名詞のようになってしまったわけです。確かにパントマイムをやっていますと人に言えば、「やっぱり白い化粧とかするんですか」って必ず尋ねられますからね(笑)。

「The Mime Book」の訳本「パントマイムのすべて」のあとがきにカンジヤマ・マイムさんが書いていたことですが、アメリカでパントマイムが一世を風靡したころ、単に白塗りをして通行人にちょっかいをだすばかりの質の悪い未熟な芸人たちが街のあちこちに見受けられるようになり、大衆のイメージの中に白塗りが「陳腐なもの」としてとらえられる弊害が生まれ始めたそうです。これはたぶん日本にも当てはまることです。とても悲しいことではありますが、普遍性のある素晴らしいものであればあるほど必ずそういう道をたどるものなのかもしれませんね。シェイクスピア劇を生まれて初めて見た老婦人が「ちっとも面白くなかったわ、だって使い古された台詞ばっかりでてくるんですもの」と言ったというアメリカのジョークを思い出します。

僕にとっては雲の上の人でした。一度も生で見ることはできなかったのですが、せめてご冥福をお祈りさせていただきます。

今日の一言
ちなみにマイムをする人のことはマイマーではなくマイミストと言います。

11月祭

銀杏の葉が東大路通りを黄色に染め始めるこの時期、青春のあふれるエネルギーをいかに無益に浪費するかという崇高な目的のもと、京大学園祭、通称NF (November Festival)が開催されています。金曜日に珍しく1日オフの日があったので、久々の学園祭を満喫してきました。NF委員が暴走する自転車を体を張ってとめようとしたり、セーラー服の女がセーラー服の男にナンパされてたり、お祭り広場で需要をはるかに上回る焼そばが売られてたりするいつもの光景。軽い殺意を覚えるほど下手糞なバンドの演奏ですらやさしく包み込む偉大なるぬるさ、これこそが京大学園祭。

そんな中、手前味噌で真に恐縮なのですが、ジャグリングドーナツがステージでやった30分のジャグリングショーはまるっきり次元が違いましたね。ダントツの★★★。このためだけに新幹線に乗って京大学園祭を見に来ても全く後悔しないレベル。始めたときはパラパラとしか人がいなかったのに、最後のほうはお祭り広場のほとんどの人がステージに集まってたんじゃないかと思えるほどの人だかり。自然と声が上がり、自然と拍手が起こる。見たか、本当のパフォーマンスってのはこういうものなんだぜ、ってちょっと誇らしげな気分になりましたよ。まっ、こっちは世界で通用してるレベルですから、素人バンドと比べること自体が可哀想ですけどね (ちょっと偉そう)。出演した後輩たち、本当にお疲れ様。素晴らしかったです。

学園祭の4日間を通して、吉田図書館前で大道芸もやっているのですが、こちらは初めて一般のお客さんを前に演技をするような1回生も混ざってる初々しい感じ。別の意味で見ていてどきどきします。何かで読んだことがあるのですが、日本の伝統芸能の面白い特色は初心者と熟練者が全く同じ舞台に上がることが許されていることらしいです。例えば大相撲では幕下と横綱が同じ土俵で相撲をとり、落語でも新入りと名人が同じ高座に上がるでしょ。客は同じ日に一つの芸の下から上まですべて見ることができるわけ。このことによって客も芸を見る目を養い、その客によって芸が育てられていく。なるほどなって思いますね。ドーナツにとってNFの大道芸ってのもそういう機会なのかも。

説教くさいことを言う柄でもないのですが、1つ言えるのはうまい芸だけじゃなく、こいつは下手だなと思う奴の芸こそしっかり見とけってことですね。客としての立場で、どこがダメなのか、どうすればよくなるのかを考えてみる。裏返せばそれは自分自身に当てはまることです。落語の名人、古今亭志ん生さんがこんなことを言ってます。

他人の芸を見て、あいつは下手だなと思ったら、そいつは自分と同じくらい。 同じくらいだなと思ったら、かなり上。 うまいなあと感じたら、とてつもなく先へ行っている。

今日の一言
学園祭の半分は優しさでできています

公演情報

最近いろいろあってブログが滞りがちですいません。

3月の公演情報です。

「PLAY」
出演: 池田洋介、目黒陽介
3月13日(木) ~14(金) 19:00~
東京都江東区 門仲天井ホール
http://www.nidyumaru.com/play_juggling/

旧作のリニューアル、そして新作盛りだくさん。
是非見に来てください。

詳細はまたおいおい。

今日の一言
通称Wようすけライブ

よし、いける

アイデア帳に日ごろから書き留めているかなりの量のメモがあるのですが、でもどれもそれ単独では全然面白くないし、到底使いものにならない。でもそれが全く別の文脈の中に入れたとき突然輝きだすこともあります。すごく不思議だけどね。いろいろな関係のないアイデアが結びつき、まるで霧が晴れるかのように一本の筋がすっと通る。そんな奇跡の瞬間があります。

やっかいなのはこの奇跡がいつ起こるのか、どうやったら起こるのかが分からないこと。とにかくただひたすら考え、使えそうなものも使えなさそうなものもメモに残す。そうして何かが頭の中で熟成されていくのを祈るように待つしかありません。今回の公演の準備期間、特にこの数ヶ月は本当に苦しかったです。1ヶ月前になってもまだ全く先の見通しが立たなかったときは本当に逃げ出したい気分でした。映画より短い時間に映画より高いお金を払う、そうまでして演技を見に来てくださる人たちをちゃんと満足させることは当然の責任なんだけど、やはり相当のプレッシャーになっていたんだろうな。

でもこの1週間でぱっと視界が開けました。貯めてきたアイデアがびっくりするほどすんなりと結びついて作品がパタパタと組みあがった。この瞬間は本当にうれしい。「父さん、ラピュタは本当にあったんだよ」って叫びたくなるほどうれしい。うん、これならいけるかも。

先日受験指導をしていた隣の先生が「天は自らを助けるものを助けるんだよ」って生徒に言ってました。横で聞きながらなんてベタなことをと思っていましたが、その言葉をちょっと実感。ひらめきの神様は僕を見捨てなかった。

もちろん、まだまだやることは山積みだけどね。でも先が見えちゃえばそれは僕にとってすごく楽しい作業です。大好きな舞台公演。これからが勝負。がんばるぞ!

今日の一言
ひらめきの神様は気まぐれのようで意外と現実的

東京入り

昨日仕事で東京に入り、今日から公演に向けてしばらく東京に滞在です。

なんか単身赴任している気分。出勤前、家ではいつも「めざまし」を見ているのですが、ビジネスホテルではなぜか「朝ズバ」を見てしまいます。シャワー浴びてトランクスのままごろごろしているこの朝の怠惰な雰囲気はとてもアヤパンには見せられません。

ちなみに今日は共演者の目黒君との合同練習の日です。前回の宿題はとにかく自分の作品を仕上げてくるということだったので、お互いにそれを初披露。ちょっとワクワク。

公演に向けての練習の様子も少しずつブログに書いていきますね。

今日の一言
朝ズバを見ると朝からブラックコーヒーを飲んでいる気分になります

ブラッドバルーン

現在バルーンの猛特訓中。

細長の風船を使っていろいろな形を作る芸のことね。子供受けが非常にいいので多くの大道芸人がレパートリーに加えているよく言えば王道、悪く言えばベタな芸です(もちろんクリエイティブなバルーンパフォーマーはたくさんいます、念のため)。

できる限り既存のものを使わないというポリシーを持って芸を作ってきた僕としては今まであえて避けてきた分野ではありますが、今回の公演に向けての作品作りの中で「こういうシチュエーションでこういう使い方をしたら面白いな」というアイデアがあり、それを実現するだけのためにバルーンを練習することにしました。

正直甘く見ていたのですが、いやいや、難しい。作っているのは多分誰もが小一時間も練習すれば作れるようになるような基本中の基本の動物なのですが、それを適度なバランスで作るのって予想以上に大変です。最初にどれだけ空気を入れるか、どこをひねるか、全体像を先読みしながら微調整していくのだけど、なぜか空気が余りすぎたり、逆に足りなくなったり絶対にちょうどよくならないのです。最後にはどんな子供も出した手を引っ込めるんじゃないかってくらい気持ち悪いものができちゃってます。うん、才能ないですねえ。

とにかく練習あるのみ。夜の10時過ぎのホテルで黙々と練習していると、いつの間にかベッドの上にはおびただしい数のいびつな形の生き物が転がっています。まさかこのままにしておくわけにもいかないので練習後は1つずつはさみでつぶしていきます。考えようによってはかなり凄惨な光景だよなあ。子供がみたら絶対泣きますね。みなさん、夢のある芸の裏側にはこんな夢も希望もないつらい現実があるのですよ。ブラッドダイヤモンドならぬブラッドバルーン。今度バルーンをしている芸人を見たときには思い出してください(笑)。

どこで、どういう使われ方をするかはお楽しみに。

昨日は目黒君との合同練習でした。僕が言うのも大変失礼なのですが、改めて目黒君はジャグリングがうまいです。見ていてワクワクしてくる。僕はほとんど(通常の意味での)ジャグリングをしないので、ジャグリングステージとしてどうなんだろうとちょっと心配していたのですが、目黒君がこれだけのものを見せてくれるなら安心だな。面白い舞台になりそうです。チケットも残り少なくなっているようですので(特に木曜日!)、見に来る予定の人はできる限り早く予約を入れてくださいね。

さあ、今日も練習。

今日の一言
風船の赤は芸人の血の色です

応募しました

静岡大道芸ワールドカップという僕の人生に多大な影響を与えた大会が今年も11月に開催されます。

http://www.daidogei.com/

世界中から超一流のパフォーマーが静岡に集結し、街中のいたるところで大道芸をするという夢のようなイベント。世界で三本の指に入るほど有名で大規模なフェスティバルです。エントリーするにはビデオ審査を通過しないといけませんが、国内外から出演希望は殺到していてパフォーマーにとって非常に狭き門になっています。

僕は2001年から5年間このフェスティバルに出演させてもらっていたのですが、やる内容が進歩していないことの反省から昨年は応募自体をしていませんでした。でも今年こそは新しい作品が出せる目処が付いた。明日が応募の締め切りということで出来立てほやほやの新作3つをDVDに収め、実行委員宛てに郵送しましたよ。僕の中では結構自信作です。これがどう評価されるか。大好きな大会なので出場できるといいのですが。

結果は4月に分かります。ドキドキ。

今日の一言
運命は黄色の封筒に入ってやってくる

技術の進歩と芸

何日か前の記事ですが、元F1世界チャンピオンが「最近のマシンは進歩しすぎていて、誰が運転しても同じだ」みたいなことを言ってましたね。コンピューター制御などによりマシンの性能がドライバーの技術を追い越してしまい、駆け引きやチームワークではなくマシンの良しあしだけで勝敗が決定してしまうのだとか。F1に関してはまったく無知ですし、この意見にも多少言いすぎのところはあるのだとは思いますが、確かにそのようなことは起こりうるのだろうなと興味深く読んでしまいました。

似たような話をひとつ。かつて舞台芸で「読心術」という定番の出し物があったそうです。演者が舞台上で目隠しをし、助手が客席に降りて、お客さんから何か物を借ります。「これがいったい何か分かりますか」と助手が問うと舞台上の演者は「それは財布です」と答えます。

「さて、それはどのような財布ですか。」
「茶色で折りたためるものですね。」
「では、材質はなんでしょう。」
「皮です」

助手の質問に演者は正確な答えを返す。

実はこれにはからくりがあって助手は演者への質問の中にその問いの答えをさりげなく散りばめているのです。たとえば上のやり取りでは「いったい」、「さて」、「では」といったキーワードがその問いの答えを示す暗号であるといった具合です。これは単純な例ですが熟練した演者の手にかかるとほんの短い言葉でかなり多くの情報をやり取りすることができたらしく、中には職人芸の域に達するものもあったとか。これを題材にした有名な推理小説もあります。

しかしいまやこの芸はすっかり廃れ、それこそ小説の中くらいでしかお目にかかれなくなってしまいました。その理由はいたって簡単、通信機器の発達です。隠しカメラやマイクを使えばこんな現象は素人でも簡単に起こせてしまう。実際にそれを使用していなかったとしても、その可能性が誰の頭にもよぎる以上、もはやこれは「不思議」として成立しなくなってしまったのです。

技術の進歩がかつてはあったはずの興をそいでしまう。芸をするものにとって一つの脅威かもしれませんね。かつては手品を見た観客がやや負け惜しみ気味に言う定番のセリフは「あれは鏡を使ってるんだ」だったそうです。それに代わる次の定番はこうなるに違いありません。

「あれはコンピューターを使ってるんだ」

今日の会話
「でも時々ボール落してるけど、、、」
「それはマイクロソフトだからだよ。」

PLAY初日

無事終わりました。

通し稽古、ゲネプロ、すべてを通じて今日の本番が一番いい出来だった気がします。本番に強いダブルようすけです。今日見れた人はラッキーですよ。明日はこの完成度はないかもしれません(笑)。

嘘です。明日は今日に負けないくらいいい舞台を作ります。明日のチケットはまだ残っているようですので迷っている人は是非、見に来てください。

今日見に来てくれた皆さん。どうもありがとうございました。
感想等はコメントにてお寄せください。

今日の一言
肩の荷を半分下ろした気分

終演、そして

ほぼ半年間、自縛霊のように頭に取り付き、僕を悩ませ続けた公演「PLAY」が終演しました。

2日目は雨も降り、客足は初日に比べやや遠のいたものの、非常に盛り上がりました。内容も技術的には2,3の失敗はありましたが、総じてまずまずの出来。とりあえず期待には応えられたのかなと一安心です。

この公演について総括は後日ゆっくりやるとして、今日はどうしても書いておきたいことがあるのです。

公演から一夜明け、東京でのオフ日。久しぶりに職場に行って溜まっていた仕事を片付け、夜は1人でゆっくり過ごすつもりだったのですが、夕方宿に戻ってから昨日のプログラムに挟み込まれていたチラシに目がとまりました。今日の夜、僕の尊敬するパントマイミスト「山本光洋」さんの公演が神楽坂の劇場である。開演は19:30だから、今からならまだぎりぎり間に合います。全くそんな予定はなかったのですが、不意に行かなければならないという衝動に駆られました。劇場に電話するとチケットはあるとのこと。すぐに予約して急いで劇場に向かうことになりました。

大道芸では何度も見ている光洋さんですが、よく考えたら劇場でみるの初めてなのです。でも、大変失礼ながら、劇場でやることも大道芸の延長のようなことなんだろうなという気持ちでいました。そして今日初めて舞台で光洋さんを見て、、、。

打ちのめされました。

なんなんだこの人は。演じるとは何か、表現するとは何か、マイムとは何か。僕は全然理解していなかったんだなって思い知らされましたよ。前日までの公演でそれなりにいい反応をもらい、そろそろ一流パフォーマーと肩を並べられるんじゃないのなんていう軽い自惚れの気持ちが芽生え始めていた自分が一気にどこかに行ってしまいましたね。高揚感から一転現実に。天下一武道会が終わった後クリリンが殺されたとき以来の衝撃です。

終演とともに劇場を後にし、1人呆然と夜道を歩いてました。

思えば、僕がマイムを練習し始めたとき一番目標にしたのは光洋さんです。静岡で何度か会い顔も覚えてもらい、自分もそれなりにトレーニングを積んで少しは光洋さんの背中に近づけているのではないかと思っていましたが、でも今日の舞台を見てやはり今の僕が絶対に届けない次元に光洋さんは立っていることが改めて分かりました。技術のみではない、深みが圧倒的に違う。自分のやっていることがペラペラに見えてしまうほど。

片手間でパフォーマーしている僕には達し得ない領域なのかな。僕はもう少しちゃんと芸に向き合わないといけないのかもしれない。

いろいろなことを考えた夜でした。

今日の一言
言葉にならないことを伝える言葉

PLAYの総括 (その1)

公演が終わり、せき止めていたダムを一気に開放したかのごとく仕事の波が襲いかかってきました。見て見ぬ振りをし続けていたツケなので甘んじて受けるしかありません、、うう。1週間たってようやく水面に顔を出して息継ぎするくらいの余裕はでてきましたので、ここらできちんと公演のまとめをしておきたいと思います。

アンケートやWeb上での感想をざっと見た限りではそれなりによい評価をいただいているようでほっと胸をなでおろしております。ぶっちゃけちゃうと舞台裏はかなりバタバタだったんですけどね。直前になっても構成が決まらず、「絶賛」から「金返せ」までのどれが起こってもおかしくないくらいの状況でした。プロデューサーのしんのすけさんが一番ハラハラしていたかもしれません。

最初にこの話を頂いたとき一番心配したのは今の自分に「ジャグラー」を満足させる演技ができるかという点でした。いまや日本のジャグリングは世界のトップレベルにあり、技術の点では若手ジャグラーには及ぶべくもない。しかしジャグリングをやる楽しさ、見る楽しさというのは必ずしもテクニカルなものだけではないというのもこの芸の懐の深さなわけで、その部分でまだ僕が見せられるものはなんだろうと考えました。

以前あるパフォーマーさんと「ゴールドバーグマシン」のアイデアをパフォーマンスとして成立させられないかという話をしたことがあります。ゴールドバーグマシン。より通じやすい言葉で言えば「ピタゴラ装置」です。ドミノ倒しのようにある動きが次の動きを誘導し連鎖的に「動き」がつながっていく。またそれによって身近なものに対していろいろな意味が与えられていく。考えてみるとこのときの興奮ってのはジャグリングを見て感じる興奮と同質のものです。

これは実は僕の頭の中にずっとあったことなのですが、このような装置は確率に身をゆだねなければならない側面がどうしてもあり、100%の精度を要求するパフォーマンスとして成り立たせることが極めて難しいのです。なかばあきらめ気味に放置しておいたこのコンセプトにふと以前からやってみたいと思ってみた「映像」との融合というアイデアが結びつきました。「映像」の場合は動きが完全に制御できるのに加え、実際には起こせないような「視点」の切り替えが自由自在に起こせます。騙し絵のような物の見方の転換。それを連鎖的に次々につなぎ、もちろんそこに実像もリンクさせる。これなら僕のイメージする「面白さ」に近いものができるかもしれない。

思いついてからしばらくはFLASHとの戦いでしたね。準備期間のほとんどはパソコンの前に座っていたのではないかしら。最後の最後まで悩んだのはどうやって終わらせるかです。ピタゴラ装置のような最後に思わずアッと声を上げてしまうような気の利いたオチが欲しい。パズルの最後のピースがカチッとはまるときのような心地よさ、それを生み出すことができないだろうか。ずっと悩み続けて思いついたのが例の「風船」を使うアイデアでした。「よし、いける」というエントリーに書いたのはこの辺りのこと。これを思いついたときこのネタは完成したと思いましたね。

それから慣れない風船を練習し始めたわけで、まあ、よく間に合ったと思います。何を隠そう本番で一番不安だった部分でしたから、はい(笑)。もし風船が途中で割れたときの対応については2重3重の予防線を張っていたのですが、本番はどちらも一発で成功。思惑通り一番楽しく、盛り上がったネタになりました。これがなにより嬉しいかも。

結果的にできたものは通常のジャグリングからは程遠いものかもしれませんが、僕の中ではこの「映像」ネタが一番ジャグリング的なネタだと感じています。ジャグラーの皆さんはどう感じたのかしら。聞いてみたいところではありますね。

さて、何とかソロの作品を仕上げ、東京で目黒君と合流。実はこの公演の本当の試練はここからでした。それについてはまた次回に。

PLAYの総括 (その2)

僕と目黒君の出会いは実は2000年の静岡までさかのぼります。大道芸ワールドカップの当日の朝、駿府公演で練習していたときに現れた何人かのディアボロ少年の1人が目黒君でした。初めてみる信じられない技のオンパレードに黒船を見た浦賀民衆に匹敵するほどの衝撃を受け、それがきっかけでその後しばらくとりつかれたようにディアボロを練習したのを覚えています。ただそれ以降はほとんど接点はなく、噂を耳にすることはあっても直接話しをする機会は全くありませんでした。この公演でしんのすけさんによって引き合わされ、8年ぶりの会話をすることになったのは不思議なめぐり合わせです。

最初に会って練習した時から感じたことですが、目黒君は誰にも負けないほどのジャグリングの技術を持ちながら、それに甘えずジャグリングの枠を広げようとする姿勢が素晴らしいですね。アイデアを思いつくこと自体は実はそれほど難しいことではありません。本当に大変なのはそれを形にする過程です。途方もない試行錯誤と失敗、それにへこたれない強い精神力が必要になる。そういうエネルギーを目黒君からひしひしと感じました。ちなみに僕と目黒君の大きな共通項は東急ハンズ好きであること。うん、それだけで分かりあえた気がする。

2人の普段やっているジャンルは微妙に違うのでいかにして絡みを作るかは企画当初から大きなテーマでした。最大のネックは互いの居住地の遠さ。直接会って練習する時間は必然的に限られてきます。練習量がそのまま結果に現れてしまうテクニカルな演目は避けざるを得ない。僕は2人の絡みはなるべく少なくし、ソロの部分でコンセプト的な関連を持たせるような作りが現実的だと思っていたのですが、目黒君はやはり最後まで2人でのジャグリングにこだわりました。お互いができる範囲の単純な技をつなぎ、かつジャグリング的に面白いものを作る。難しい課題ですが、それにあえて挑むという心意気。やっぱ年を取ると保守的になってダメだな。よーし、その若さに乗ってやろうじゃないの。

勝負は僕が東京入りした後に持ち越され、そこから実に本番前日まで試行錯誤は続きました。何も進展せずに1日が過ぎていったときもあり、さすがにこれはまずいんじゃないかと焦りが募る。でも追い詰められたときの人間にはある種の開き直りが生まれますね。とにかくなんでもやってみるしかないという気になっちゃうのです。3本の棒を固定し、それを交互に握っていくという(ばかばかしい)芸は実際に2人で棒を取り合いながら遊んでいる中で生まれたものです。あ、これ意外と面白いんじゃないのっていうノリがそのまま作品になる。そんな感じで本番まであと2日という瀬戸際で大枠ができ、そこからは演じることで作品が成長していきました。僕がやってみることに目黒君が応え、逆に目黒君がやることに僕が応える、そんな具合に最初は細かった芯が少しずつ肉付けされ、気付けば単なるつなぎだったはずの演目がソロに負けないほどのボリュームのある作品となっていきました。こういう作品の作り方っていうのは初めて経験しましたね。僕1人では絶対にできなかったものだし、とても新鮮でした。

アンケートを見ても2人の演目がよかった、もっと見たかったという感想が数多く見られました。今思っても冷や汗ものですが、本当にうれしい誤算。2人の演目にこだわった目黒君の判断は正しかったと思います。2日目の公演には厳しい批評をする目の肥えた関係者がたくさん来ていてどういう感想を持つのか緊張していたのですが、その1人のアンケートに一言「これは面白い!」と書かれていたのを見たとき目黒君とガッツポーズしてしまいました。よし、勝った(笑)!

もちろん反省点は山のようにあるのですが、それはまた次につなげていけると思います。今回の一番の収穫は新しく作ったネタでもきちんと受け入れられる自信がついたこと。古いネタに固執せずこれからも新ネタをコツコツと作っていけたらいいなと思います。今回このような機会をいただけた関係者の皆さん、無理な要望に応えてくれたスタッフの皆さん、見に来ていただいた皆さん、そして目黒君。本当にありがとうございました。

さあ、次の目標に向けて頑張るぞ!

今日の一言
壊すことは創作の第1歩である

ドーナツライブ2008

京都大道芸倶楽部ジャグリングドーナツが毎年主催している舞台公演「Juggling Donuts live 2008」を見てきました。僕を含めた初期メンバーが2000年に立ち上げ、後輩たちに引き継がれて今年9年目を迎える全国的に有名なジャグリングの公演です。今年は自分の公演やら仕事やらで忙しく練習もリハも全く関わっていなかったので初めて見るお客さんの立場で純粋に楽しんできました。終演後はドーナツOBのちょっとした同窓会のようになってよいですね。

素晴らしい。これはもちろん嘘偽らざる本心ですが、ただこれだけの感想ならおそらくお客さんのアンケートに余すところなく書きつくされていると思うので、せっかくならやや厳しめの意見をいくつか。

パフォーマンス技術について、きちんと練習しているのが感じられるし、安心して見ることができるのはさすがです。ただややまとまりすぎている感じが否めないな。圧倒的な技術か、なるほどそう来たかと思わせるオリジナルなアイデア、そのどちらかが欲しい。この意味ではデビルスティックと二人組のシガーの演技がよかったです。デビルは技術、構成ともに世界で通用するレベルだと思うし、シガーボックスの使い方はなるほどと思わせるアイデアがありました。

舞台の設定やストーリーに工夫が見られるのはいいのですが、ストーリーがやや冗長で説明に感じられてしまう。多分こう持っていきたいんだろうなあというのが先に見えてしまい、それをただ丁寧になぞっているという印象。かえってストーリーがジャグリングショーのリズムを壊してしまっているのでは、と感じられる部分もありました。

すべてのディティールを形にすることが表現ではないと思います。3月に見た山本光洋さんの舞台、真冬に焚き火で暖をとっていた男がくべる薪がなくなり身の回りにあるものをつぎつぎに火に入れ、最後はとうとう自分の服まで脱いで火にくべてしまう、というシーンがありました。もちろん服を脱ぐシーンなどすべてマイムで表現します。ネクタイをはずし、シャツを脱ぎ、さあいよいよズボンを脱ぐというとき、光洋さんは両手を腰にあて腰をくねらすようにしてズボンを太もものあたりまで下げた後、すぐにズボンを火に放り投げる仕草をしたのです。これはディティールとしては当然おかしい。足を浮かせて足からズボンを抜く仕草がないとズボンは脱げるはずはないですからね。しかしこのシーンの可笑しさを表現するには畳み掛けるようなリズムこそ大切なわけで、そのために光洋さんはその部分のディティールをばっさり切り捨てたわけです。なるほどと唸ってしまいました。この絶妙なバランス感覚が光洋さんの表現者として卓越した部分なんですよね。

以前書いたように演出とは足し算ではなく引き算だと思います。その部分で最も伝えたいことはなんなのか、それを伝えるためには果たしてこの部分は必要か、もっとシンプルにできないか、そうやって削ぎ落としていく過程がなければならない。多分今の設定を今の半分の時間で伝えることは可能だと思いますよ。今回のライブの中でオーナーが登場し、棚の上を人差し指ですっとなでる、コックがあわててその部分を布巾で掃除するというシーンがあったでしょ。ああいうのはすごくいい。それだけでオーナーとコックの立場や性格がぱっと表現されてしまうから。この辺りをもっと研究して欲しいな。

いつも思うのですが、このライブが一般の観客をリピータとして取り込みながら動員数を増やし、採算ラインを維持しているのはものすごいことです。今後も成長するドーナツライブを期待しています。


今日の一言
ドーナツライブを超えるのはドーナツライブであって欲しい

折り紙にはまる

実は1ヶ月ほど前から折り紙にはまっております。前から興味はあったのですが、本格的にやり始めるきっかけとなったのがふとしたことから訪れた京都文化博物館。河合塾京都校のすぐ隣にあるレンガ造りの洒落た建築物です。この博物館には展示会場とは別にお土産物屋さんやお蕎麦屋さんなどが立ち並ぶ町家通りがあり、その部分は無料で入ることができます。

その町家を奥に進んでいくと唐突に壁に本棚が現れます。まるで砂漠で自動販売機に出会ったような不思議な違和感。そこには京都の観光ガイドや、美術書などに加えて何故か折り紙の本が並べてあるのです。普通の本屋さんにはまず置いていないような折り紙の専門誌などもずらり。向かいのお店を見て納得したのはそこは「楽紙舘」という紙屋さんだったから。その店には折り紙用のきれいな和紙がたくさん並べられていました。こういうのがさらりとあるから京都という街は侮れない。こんなのを見つけたらもうやるしかないでしょう。

というわけでその日のうちに本と紙を購入し、折り始めることになりました。いやいや、これは面白い。小学生の頃ユニット折り紙などに夢中になっていたのでいろいろな折り方は知っているつもりでしたが、しばらく見ないうちにここまで進化していたかと。子供の手遊びとバカにするなかれ。造形であり、幾何であり、パズルでもある。もし僕が高校時代に図書館でたまたま手にした本がマジックの本ではなく、今現在の折り紙の本であったならば僕は間違いなくこっちの道を進んでいた気がするな。

授業の空き時間などに本に載っている作品を片っ端から折っています。はたから見たら何かにとり付かれた様に見えるだろうな。おかげで近頃はかなり上達して折り紙界の有名作品もいろいろ折れるようになりました。今日は前から折りたかった悪魔を折りあげてとりあえず初級者からは脱却かな。

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(左) 悪魔 前川淳氏作 包装紙45cm角
(右) バラ 川崎敏和氏作 和紙 15cm角
   バスケット 遠藤和邦氏作 小川和紙 30cm角

自分で見てもため息がでるほど素晴らしい作品。折った作品を見て誰もが「すごい」と褒めてくれるんだけど、本当に「すごい」のは当然これを考えた人です。僕がやったのは単に折り図に従って手を動かしただけですから。しかしながらこの「再現性」が他の芸術にない折り紙の最大の魅力とも言えますね。

オリジナルを作る域にはまだまだ時間がかかりそうですが、そこに近づけるように最近は簡単な作品を繰り返し折りながら一つ一つの折りの意味を研究しています。

今日の一言
仕事との折り合いをつけるのが大変です

すごいよシャマランさん

久しぶりに映画館に映画を見に行きたいなとなんとなく思うこの頃。といっても今の状況ではとてもじゃないですがそんな余裕はありませんが。そんな折ふと電車の中吊り広告が目に止まりました。M・ナイト・シャマラン監督の新作映画「ハプニング」。忍び寄る目に見えない恐怖を描くサスペンス映画という触れ込み。「シックスセンス」で世界中をあっと驚かせたシャマラン監督らしいややオカルトの匂いを漂わせる題材です。

いまさらですが、シャマランって僕はひょっとしたらすごい人なんじゃないかって思いはじめております。まず名前が「シャマラン」。多分半分以上の日本人は「シャラマン」だと思っているでしょう。この時点で既に只者ではない。いやいや、そういうことではなく、この監督の作品。未だに10年近く前の「シックスセンス」がこの人の代表作に挙げられてしまうことから分かるようにその後に出す作品出す作品すべてがことごとくコケているのですよ。「アンブレイカブル」はまだ見られる作品でしたが、「サイン」以降は酷いです。多分映画館に足を運んだ人はこれは新手の振り込め詐欺なんじゃないかと疑っただろうな。全世界がっかりしたもの選手権があれば彼の映画は船場吉兆の女将も山本モナもガリレオの最終回での久米宏の演技をもはるかに上回って上位入賞です。

それでもです。それ程多くの人を確実に失意のどん底につき落とし続けている監督が不思議に埋もれてしまわないのですよ。これってすごいことじゃないですか。定期的に彼の新作は公開され、そしてそのたびに、また後悔するのを分かっていても、何故か見てみたくなってしまう自分がいるのです。今まで映画館で見た数々の映画の中には涙を流すほど感動したものはいくつもあったはずですがそれが何だったのか、どんな内容だったかはどんなに頭をひねってもほとんど思い出せない。なのにこの監督の映画のシーンは不思議に記憶に焼きついているのですね。「サイン」なんて生まれて初めて金を返せと思った映画であったにも関わらず。カメラアングルとか犬の鳴き声とか、妙に細かいことが鮮明に思い浮かぶ。理由は全く分からない。でも理屈ではない何かが彼の映画にはある。もうそう思わずにはいられません。

史上最低と言われたエドウッドという伝説の映画監督がいました。彼の作ったB級ホラーは確かに下手なコントを見てるようなものばかりなんだけど、その独特の味が何故か強烈に頭に残って離れなくなる。彼の死後、彼の作品はコアなファンを生み再評価され、彼をリスペクトする一流の映画監督も多いです。シャマランにもこのエドウッドの匂いをちょっと感じる。間違いなく言えるのは彼の映画は映画館ではなく深夜2時くらいのテレビの映画枠がふさわしい。皮肉でもなんでもなく。

素晴らしいと絶賛され、しかしいつの間にか忘れ去られてしまうもの、つまらないと酷評され、しかし不思議と心に残り続けるもの。本物がどっちかは分からないけど、幸せなのは絶対に後者だ。

今日の一言
「北京原人」を再評価してください

Pretty Hot And Tempting

京都MOJOWESTというクラブハウスでのライブに参加してきました。

ヒューマンビートボックスやDJ、音楽の方々との共演だったのですが、どの方々の演奏も素晴らしく、その熱気に支えられて僕のパフォーマンスも最高に盛り上がりました。このくらいの空間が僕の演技にはホントちょうどいい。会場の息遣いが直接肌に伝わってきます。

客層も音楽系の方々が多いので、ほとんどの人はパントマイムやジャグリングなんて見たことがない。でもこういうちょっとアウェイな雰囲気ほど僕は燃えますね。最初はこいつは何者なんだという緊張した会場の空気があるのですが、それを自分の一挙一動によってちょっとずつ変えていく。「あれ、この人面白いかも」ってどんどん見ている客の目の色が変わってくるのが分かるのですよ。ゾクゾクするような体験です。

やっぱステージは最高。主催のPhatBeatsの方々、共演者の方々、見に来ていただいた皆様、ありがとうございました。次は静岡にむけて、がんばります。

今日の一言
その前に溜まった仕事が、、

静岡大道芸ワールドカップ

1年に1度の大道芸の祭典、静岡大道芸ワールドカップが終わりました。2年ぶりの静岡、そして2年ぶりの大道芸だったのですが、ここに来る度に前回ここに来たのがついこの間であったような錯覚を覚えます。初めてこの場所に立ったのはもう10年近く前。そのときに感じた興奮がどこかに真空パックされていて、駅を出た瞬間にその時と同じ感情が全く鮮度を失わずに蘇ってくる、そんな気がします。

すごく嬉しかったのはたくさんのお客さん、スタッフの皆さんに「待っていましたよ」という声をかけていただいたこと。そしてそういう皆さんの期待に今回は新しい芸できちんと応えることができたことですね。正直、今回の作品を大道芸にかけるのはかなり無謀な試みかなと心配していました。でも自分が予想していたよりはるかによい反応を頂いて、十分ストリートでも成立する手ごたえを感じました。3日の中でいろいろと試行錯誤を繰り返しながら芸が進化していくのも楽しかったです。

多くの第一線のパフォーマーに出会えるのもこのフェスティバルの魅力です。初めて見る芸人さん、久しぶりに会う芸人さん、今年も抱えきれないほどの刺激をもらえました。

静岡はやっぱり僕にはなくてはならないものだと再確認。どんな形であれ、来年も必ず参加したいと思います。

見に来ていただいた皆さん、他のパフォーマーの皆さん、そしてこのフェスティバルを支えてくれている多くのスタッフの皆さん、本当にありがとうございました。これからも自分の感性で、自分がよいと思えるものを地道に丁寧に作っていきたいと思います。まだまだ僕は進化します。今後ともどうぞお付合いの程をよろしくお願いします。

今日の一言
志が芸を作り、芸が志を作る

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