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日常 Archive

二択

僕は人がまず覚えていないようなしょうもないことはものすごく覚えていますが、逆に普段の生活していればまず覚えているだろうみたいなことは全然覚えていなくて、よくビックリされたりします。大丸がデパートの名前であることを知らなかったし、大根に皮があるの知らなかったし、人の名前もしょっちゅう忘れるし。

仕事で何度も東京に新幹線で行っているのですが、東京駅で降りるとき行列を作るのが嫌なので少し早めに席を立って昇降口にいきます。そのたびに「あれ、東京駅のホームって右左どっち側だっけ」と迷ってしまいます。

もうこうなったら二択、一か八か、どちらかを選んで出口の前に立ちます。自信は全くありません。でもそうすると次に並ぼうとする人はまず間違いなく僕の後ろに立つわけですよ。いいのかなー、僕も分かってないんだぞ。一蓮托生だよ。今この車輌の乗客の運命は僕1人の選択に委ねられている。アルマゲドンみたいな気持ちだね。

新幹線がホームに入り、自分の選択が正しかったときはいいのですが、間違っていたことが分かったときの対処法は難しいです。ここですぐに振り返って真後ろの人と目が合うとこれは気まずい。心の中で「なんだよ」って舌打ちされてるよ、絶対。そういうときは新幹線が止まっても僕はあえて動かず、物憂げな表情でずっと窓の外の遠い景色を眺めます。
「俺はもうしばらくこうしていたいんだ。」
的な雰囲気を出すのね。反対の出口に立っていた僕の方が逆にかっこいいみたいな。きっと後ろの人は「あくせくしていた自分はなんてちっぽけな人間なんだ」と敗北感に打ちひしがれているに違いないね。真後ろの人が新幹線から降りた気配を背中で確認してから僕はそそくさと新幹線を降ります。

ということをもうかれこれ10回くらいはしているような。

今日の一言
車輌っていう漢字は絶対2度手間な気がする

エレベーターが嫌い

職場でも駅でも僕はめったなことではエレベーターを使わないことにしています。たとえ授業をする教室が10階であったとしても僕は階段を使います。5階くらいまでであれば階段を使ったほうが確実に早いですし、何よりいいトレーニングになる。体を鍛えるためにお金を払ってまでジムに通っている人間が、普段の生活の中では楽をしようっていうのはなんか違う気がするしね。

でもそんなことより何よりも僕がエレベーターに乗らない一番の理由は、あの狭い空間にみんなで立っているときの微妙な空気だな。扉が閉まってから、目的の階に着くまで全員が虚空を見上げて沈黙しているあの時間、あれがもう耐えられない。

何かに似てるなって思ったけど、分かった。これは男性用トイレで用を足しているときに隣に人が立たれたときのあの気まずさだ。見ず知らずの人でも嫌なんだけど、よく知っている人ってときはもう最悪ですね。「あっ、どうも」とか話しかけるのもなんかやだし、結局2人ともお互いを意識しながらも黙ったまま目の前の壁を見つめているっていう、あの限りなく長く感じる居心地の悪い空気。もう一刻も早くその場から逃げ出したくなります。うん、これだ、エレベーターってこれと同じ。

ってことを以前生徒に話したら「先生って変わってますね」の一言で片付けられてしまいました。うーん、そうかなー、同意してくれる人は絶対いると思うんだけどな。

今日の一言
エレベータの右斜め上の空間には妖精が住んでいるんだ

なんですか

今週の日曜日に東京に行ったときの話。昼休みに数人で外にランチを食べに行きました。いつも行ってる定食屋があるのですが、その日は久々に冒険をしよう!っとことで初めていくインドカレーのお店に。「人世横丁」というやや怪しげな路地にある小さなエスニック風の店舗。中のテレビではなぜかインドネシアのニュース番組なんかが大きな音量で流れてて、壁一面に常連客と思われる人のスナップ写真が所狭しと貼ってあります。なんか面白いな、ここ。

ランチのセットメニューでカレーにはご飯かナンのどちらかがついてきます。そこにいたメンバーの半分がご飯、半分がナンを注文。しばらく待つと顔の大きさくらいはありそうなナンが登場しました。でかい、でもって美味しそう! ちょうど僕が全員に皿を回すポジションにいたのですが、誰が何を頼んだのかは全く把握していなかったので、それを確認しようと

「すいません、○○さんはなんですか?

って聞きました。あれ、何気にみんなの顔がニヤニヤしている。あ、違う、違うよ。今僕は普通に問いかけをしただけだからね。ちょっと狙ってスベッたみたいな雰囲気になってるではないか。あわてて取り繕おうと、

「いや、違いますって。みんななんなんすか

NO~!!。どうにかしてくれこのシチュエーション。本人は全然その気がないのにいつの間にかおちいる恐怖の駄洒落スパイラル。

まあ、でもねえ、そのときみんな馬鹿にしたけど、そのあと散々言ってたからね。「○○さん、何なの?」「はい、ナンですよ」みたいなベタなミニコント。そんでみんな言った後に気付くの。面白すぎ。悲しみの連鎖を断ち切ることは不可能です。

カレーはおいしかったですよ。むちゃくちゃ辛かったけど。

今日の一言
「辛い」は「からい」とも読み、「つらい」とも読む。

締め切り

ここ最近仕事の締め切りに追いかけられる日々が続いています。「5月いっぱい」って言葉は卑怯だよね。なんかものすごく「いっぱい」あるような気がしてしまうもん、残り時間が。その甘い言葉の罠にまたしてもうっかり騙されて、今月末も「5月いっぱい」に期日を設定された数々の仕事たちが僕を追い立ててくるのです。え、もう6月ですよっていう突っ込みはなしね。

「締め切りに追われる」という言葉は大概締め切りがあと2,3日に迫ってきたころに使います。でも良く考えればこれはおかしな話で、締め切りっていうのはそれが設定されたその瞬間から常に同じ速度で僕を追いかけていたはずなんです。例えば締め切りが1ヶ月前に設定されたのだとしたら僕は1ヶ月間ずーと追われていたってこと。そうと頭で分かっていても実際に足音が背後からパタパタと聞こえてくるまでは追われてることを認識しないもんなんだなあ。それが聞こえ始めてやっと「あっ、逃げなきゃ」って。小学生の夏休みから僕は1cmたりとも進歩してません。

締め切りまでの時間が長いほうがゆっくり考える時間があっていい仕事ができる、なんて思っちゃうけど、そんなのは所詮錯覚で、まだいいや、もう少しいいやって先送りを繰り返して、結局その間は何にも考えちゃいないんだよね。挙句の果てに締め切りの3時間前とかに思い出してあわてて手をつけ始めたりする。締め切りというのは1ヵ月後だろうと1週間後だろうと仕事のクオリティーにはほとんど影響しません。最近気付いてしまった真実。裏を返せば大抵の仕事は本気で取り組めば1日でも十分何とかできるってことか。

ローマは一日にして成らず、って言うけどあれはきっと締め切りが設定されていなかったからで、最初から締め切りが一日後だったらローマも一日で何とか成ったと思うよ。たぶん。

今日の一言
「すいません、ところで本当の締め切りっていつですか?」

電車スイッチ

疲れて電車の中で思いっきり寝ていたら、扉がプシューって空く音がして「十三(じゅうそう)、十三です」って聞こえる。ん、十三、、って降りる駅じゃん。まだ頭の中がもわもわした状態のままあわてて立ち上がったら、ひざの上に置いていたiPodがすべり落ちて耳からダラーンと垂れさがりました。それを拾おうとしたんだけど、そうすると必然的に頭も下がるのでiPodも遠ざかる。あれ、手が届かないぞ。まあ冷静に考えれば一旦iPodを床につけて、それを拾うか、耳からコードを手繰り寄せれば済む話なんだけど、寝ぼけた頭と早く電車から降りなきゃと言う気持ちで若干テンパってしまいました。結局耳からiPodをぶら下げたまま電車から降りましたとも。ええ。この光景って周りから見てた人は相当面白かったんだろうな。恥ずかしすぎる。

話は変わりますが、阪急電車の梅田駅は終着駅なので特急が駅に着くと乗客の入れ替えが行われます。まず降車側の扉が開いて乗客が全員降りたあと、座席の方向がガタンと変わって、乗車側の扉が開くという流れ。あのときに電車が到着したことに気付かないで窓に頭をつけて思いっきり寝てる人いますよね。乗車を待っている客にもろに寝顔をさらしてしまっているわけだからあれもかなり恥ずかしい。おっちゃんの場合には全く興味ありませんが、たまに結構若い女性がものすごく無防備な表情で口あけて寝ていると僕はついつい観察しちゃいますね。おいおい、完全アウトだぞ、その顔。

周りの空気の違いに気付くのかちょっとずつ現実の世界に意識が戻ってきて、「あれここどこだ」っていうぼんやりした表情がコンマ一秒くらいあった後、突然状況に気付いて、シャキッとした表情に変わります。蛍光灯のスイッチを入れたとき、それが何回か点滅を繰り返し一瞬のタメの後パッと点く、まさにそんな感じ。その後ものすごい素早い動作でバッグをつかんで立ち上がり、急ぎ足で電車の外に出て行くのです。うーん、なんかいいな。「女性のこういう仕草にグッと来る」ランキングを僕の中で作るとするとこれはかなり上位です。こんなギャップを見せられると「あ、この人ちょっと好きかも」って思っちゃいますね。

こういう下らない妄想をしているとき、僕は日本の平和さをつくづくと実感します。

今日の一言
"エロカワ"よりも"ツンデレ"

飲茶バイキング

毎週水曜日の昼は講師仲間とランチに出かけます。毎回違うお店を開拓しているのですが、先週はデパートの上の階を探検していて「飲茶バイキング」の看板を発見しました。いいですね、ここにしましょうってことになった模様。

ん、、飲茶バイキング?

ウーロン茶とかプーアル茶とか中国各地の茶葉がいろいろと取り揃えてあって飲み放題みたいなこと? いやいや、いくらなんでもそんなにお茶ばっかり飲めないでしょ。

それとなく聞いてみたらみんなの目が一瞬点になった。聞いてはならないことを聞いてしまったみたいな雰囲気。次の瞬間には大人の対応で軽やかにスルーされ、みんな何事もなかったような感じで店の中に入っていきます。えっ、違うの? 違うのってば。

中に入るとスリットの入ったチャイナドレスを着た化粧の濃いお姉さま方がいて蒸篭などを運んでます。へー、飲茶って言うのは中華料理のことなんだ。ひょっとしてこれって常識なの? だってお茶を飲むと書いて「飲茶」でしょ。食べ物のニュアンスゼロですよね。いったい何がどうなって茶を飲むことが「食い物」になったんだろう、すごく知りたい。

久々のバイキングなんですが、20代のころはがつがつ食べてたけど、さすがに30代になると量は食べられなくなりましたね。だから目の前に並べられた食材をよーく吟味して何をどのくらい取るかっていう作戦を練ります。パッて横を見たらみんながみんな目がマジなんですけど。講師室では絶対みせないような真剣な顔つき。改めて確信した。人間が一番真剣になるのは食べ物を選ぶときなんだ。間違いない。

あれくらいの真剣さでみんながテキストの校正したら訂正連絡は絶対まわってこないんだろうなあ。

今日の一言
人はパンのみにて生きるものにあらず。ただしバイキングは別。

アンチテーゼ

昨日は東京に連泊のお仕事。朝の時間に余裕があったのでビジネスホテルで「とくダネ!」を見てたら、今世の中を席巻しているという「ビリーズブートキャンプ」の特集をやってました。厳しいけどちょっと陽気な黒人軍曹が美女軍団を鍛えるという設定のダイエットDVD。これが今爆発的なブームを巻き起こしているらしいです。

番組の中では日本のダイエット商品の歴史を振り返りながら何故今これがヒットしているのかを分析していて、なかなか興味深かったです。要するに今までのダイエット商品の売り文句はいかに「楽をしてやせられる」かだったのね。ところが「ビリーズブートキャンプ」は軍隊式の厳しいトレーニングで「とにかくきつい」ってのをまず前面にうたい、その上でいかに「楽しく努力できる」かを売りにしたわけ。いわば今までのダイエットに対するアンチテーゼみたいなもので、この明確な差別化にこれなら効果がありそうだって消費者が飛びついということです。この成功によってしばらくはダイエット商品のメインストリームはこの「努力型」になっていくんだろうね。

さらに先を予想してみましょう。この努力型ダイエットが世に蔓延するころには、当然ながら挫折する人がたくさんでてきてるはずなので、またそのころに何もしないでやせられる電磁波ダイエットみたいなのがでてくれば、そういうのがワッと受け始めるんじゃないかな。再び「非努力型」ダイエットが主流に取って変わり始める。

なんかこれって「ゆとり教育」と「詰め込み教育」の話にちょっと似てる気がする。「ゆとり教育」というのは本来それまであった受験偏重の「詰め込み教育」に対するアンチテーゼとして生まれたわけで、10年くらい前には多くの人がその考えに同調し教育の方針が大きく転換したの。ところが今そのゆとり教育の欠点が露呈し始め、「詰め込み教育」の大切さがそのアンチテーゼてして主張され始めるようになると時代の流れは再び反対の方向に大きく動き出しています。さあ、今から10年後はまたどうなってるかな。

世の中の流れに逆らうアンチテーゼってのは極めて説得力があり、それこそが真実であるように聞こえてしまうんだよね。でも面白いことにそれが主流になったとたんその説得力は急になくなっちゃて、そのアンチテーゼのアンチテーゼ、つまり当初の主張が魅力を帯びてくる。たぶんどちらが正解でもなくどちらが間違いでもなく、真実はその中間辺りにあるんだと思うんだけど。考えるに人間が求めているのは「変化」であって真実ではないのかもしれない。

世界はきっと巨大な上皿天秤の上に乗っかっていて、一方に傾き始めるとこれはまずいぞ、反対側に走れってどこからともなく号令が出るしくみになってるんだ。それを聞いてみんなが一斉に動くと必ず行き過ぎちゃって今度は反対側に傾いちゃう。これを繰り返しながらゆっくりと天秤の針は左右に揺れる。そうすることである意味絶妙のバランスを保っているのかもね。服や流行歌の趣向は十年周期で繰り返すっていうし、歴史はもっと大きな周期で繰り返している。それはすべてこの天秤理論で説明できるんではないだろうか。

今日の一言
甘いものの後には辛いものを、辛いものの後には甘いものが食べたくなるものだ

経験

僕はさすがにセレブだけあってコナミスポーツクラブの特別会員になっているので全国各地のコナミのスポーツジムに行くことができます。最近の一番のお気に入りは阪急西宮北口の駅前にあるジム。近畿地区でも最大規模のスポーツジムで、10レーンもある50メートルプールがあります。その中央のレーンは100m以上続けて泳ぐ人専用になっていて来る人はめったにいないので、いつものびのびと一人で泳いでます。

プールでは基本的に1500mを続けて泳ぐことにしています。これは50mプールでは15往復。ちなみに通常の25mプールでは同じ距離が30往復になります。いつも不思議に思うのですが、慣れている25mのプールで泳ぐときよりも、50mのプールで泳いでいるときのほうが1500mという距離が楽に泳げてしまうような気がしてしまうのです。もちろん同じ距離なので肉体的な疲れは全く同じはずなのですが、なんとなく精神的な疲れが違う気がします。どうしてなんだろう。

一つにターンの回数が少ないことはあるのかもしれません。タッチターンのときは息継ぎが楽にできるのだからターンが多いほうが体が楽なのではと思うかもしれませんが、それは逆なんですね。思うにその「楽な状態」から再び「きつい状態」に移行するときが精神的には一番しんどいのです。ちょうど一週間のうちで日曜日の夜が一番憂鬱になるのと同じで。そこでどうしても「ここでやめたいな」「もういいだろ」って自分が顔をのぞかせる。そこを押し切らないと駄目なのね。逆に一旦泳ぎ始めてしまうと意外と肉体的な疲労は意識しないものです。そういう点でターンの回数が少ないほうが精神的には疲れを感じないというのは一理ある気がします。

しかし僕が思うもう一つの原因は、僕はひょっとしたらこっちの方が大きいのではないかと思っているのですが、単純に"慣れていない"ことなのではないかと。ある決まった回数を繰り返し繰り返し泳いでいると、ターンした回数とそのときの疲れの度合いみたいなものを経験が覚え始めてくるのです。回数を数えながら無意識のうちに「今何割くらい泳いだ」、「あとどれぐらい泳がないと」みたいな割り算や引き算をしてその経験と照らし合わせようとするの。当然人間ってのは後半になるほど疲れていくもので、それを知っていることが残された距離を途方もなく長く感じさせるものなんですよ。そういう照合するべき経験がないほうが人は無心になれるような気がする。今の自分のポジションが実感できないから、ただ目の前にある水を自分に引き寄せることだけに専念できる。そうすると気付いたときにはあと1往復でゴールだってところまで来ていたりするのです。

それで一つ思うのは、僕は現在の予備校で勤めはじめてもう何年目かのシーズンを迎えているわけだけども、年を重ねるたびに1学期という期間がどんどん長く感じ始めているような気がするんだよね。勤め始めのころは1学期どころか1年が立つのがあっという間だったように思えたのに。それってこの水泳の話と同じことなのかもしれない。経験をつめばつむほど人は余計なことを考えすぎるものなんだろうな。ただ無心に、がむしゃらに目の前の水をかく、その初心を忘れてはいけないですね。

今日の一言
気付くとテキストの残りのページ数を数えてたり

合理的な規則

昔何かの本で見た面白い問題を紹介します。

油売り商人が1リットルの油が入っている桶と100mlが量れるひしゃくを持って油を売り歩いています。客が空の桶を持ってやってきて900mlの油をこの中に入れて欲しいと注文しました。さて油売り商人はひしゃくを何回使う必要があるでしょうか。

答えは今日の文章の後半に。

僕がジムにトレーニングに行ったときは、まずお風呂に入って体を洗い、それからプールで泳ぐことにしています。順番が逆だろうと言われそうですが、もちろんプールの後にももう一度お風呂に行くのね。最初のお風呂はプールに入るのに体をきれいにするため(と体の筋肉を暖めるため)、2回目のお風呂は体についた塩素を洗い流すため、と一応の意味はあります。

ところで以前プールに行ってそのまま水に入ろうとしていたらスタッフの人が走ってきて「すいません、プールに入る前にはシャワーを浴びてもらうことになってるんです」って注意をされました。プールに来る前にお風呂でシャワーを浴びている僕にとっては、プールに入る直前にもう一度シャワーを浴びる必要はないわけで、マナー違反をしているみたいな言われように正直ムカッときちゃいました。でも後になって冷静に考えてみるこのときスタッフが僕に注意したことは当然のことなのかもね。

まずスタッフに僕が直前にシャワーを浴びているかどうかなど知る由もない、という点。僕のようにプールの前にお風呂に入る人はむしろ少数派でしょう。マナー違反をしている可能性のある利用者を見ればスタッフには当然注意する責任があります。では仮にスタッフが僕の日ごろの習慣をよく知っていたとしたらどうか。そうであってもやはりスタッフは僕を注意するべきでしょう。なぜなら「スタッフが僕の日ごろの習慣をよく知っている」ということを他の利用者は知りえないからです。第三者から見れば、僕がシャワーを浴びずにプールに入るのを黙認しているようにみえるでしょうし、それでいいのだという印象を与えかねません。結論を言えば僕が直前に何をしていよういまいががそんなことは一切関係なく、プールに行ったらまずシャワーを浴びるべきでありそれがマナーなのではないかと。

で、さきほどの問題の答え。ひしゃくで100mlをすくい、桶に残った900mlを客の桶に移せばよいので答えは1回、、、と考えた人は多いかも知れませんが、実はこれは間違い。確かに油売りにとってこれは最も合理的な方法ですが、客は絶対に納得しないでしょう。なぜなら最初に樽に1リットルの油が入っていることは油売りは知っていても、客は知り得ない情報だからです。客の立場にたって考えれば、面倒くさくても9回ひしゃくを使って900mlを量らないといけません。これが答えです。先程のシャワーの例とどこか似ている気がしませんか。

「合理性」という言葉をとかく人は自分を中心にして使いがちなんだろうけど、自分にとって極めて合理的なことが相手にとっては全くの非合理に映ることがあるし、またその逆も然り。ほんの少し立場を変えて見れば分かることが分からないばかりに、僕らが理不尽だと腹を立てていることは案外多いのかもしれません。

今日の一言
現実は算数で片が付くものじゃない

長い一日

今週の日曜日の夜、新幹線で人身事故が発生し3万人の乗客がその影響を受けたというニュースがあったと思いますが、何を隠そう私、その3万分の1です。僕がいなかったら影響を受けたのは2万9999人になるところでした。危ない、危ない。

僕が乗っていたのは事故を起こした新幹線の後続車両だったのですが、新横浜駅で停車したまま2時間半以上そのままでした。10分おきくらいに車内アナウンスが「前を走る新幹線がお客様に接触した模様です。」「ただいま警察が衝撃のあった車両の確認をしています。」などと現状を説明してくれます。淡白な表現ですが、どうしても生々しい想像を喚起されるものですね。真夜中の遺体の回収作業。どんなにお金を積まれても絶対やりたくないような仕事に携わってる人の気持ちを考えると、とても文句を言う気分にはなれません。

たった一人の身勝手な死がこれほどまでたくさんの人の時間と労力を奪ってしまうのだと思うとちょっと恐ろしくなりますね。もし自殺者がそうなることを望んでこの場所を選んだのだとしたら特に怖い。奇しくもつい先日に新幹線の新型車両が導入され、東京大阪間が5分短縮されたと大きく報じられたばかり。利用者の立場からすればたかだか5分ぽっちを短縮するのに使われた多大な労力のほんの一部でも、1人の自殺者を食い止めるのに使うべきなのではないかと思ってしまいますね。

京都に着いたのは結局夜中の2時過ぎくらいで、当然ながら公共の交通機関はもう動いていません。仕方なくタクシーを使うことになります。タクシー乗り場には長蛇の人の列ができているのですが、そこで待機しているタクシーは1台もなし。そりゃ普段ならこの時間に京都駅からタクシーに乗る客なんているはずないからね。流しのタクシーが1分おきくらいにポツリポツリとやってきて客を拾っていく状況です。こんな調子でいったいいつになったらタクシーに乗れるのかといらいらしていたら、、

そのときです。

京都駅前の交差点がいつの間にかタクシーのライトで埋め尽くされ、信号が変わるや否や大量のタクシーが京都駅になだれ込んできました。まるで映画「フィールド・オブ・ドリームス」のラストシーンみたいだ。これはなかなか壮観。

京都駅に乗客が溜まっているぞっていう情報がなんらかのネットワークによってあっという間に京都中のタクシーに行き渡ったんだろうね。この状況、1匹のアリがえさを見つけて去っていくと、その10分後にはいつの間にかアリの行列ができているっていうあれにそっくりです。我々の情報化社会はようやくアリ社会に追いついんだと目頭が熱くなりました。

そんなこんなの長い一日。次の日が休みだったのが不幸中の幸いか。


今日の一言
結局一夜明ければいつもどおりの日常なんだけど

平日の昼間ひとり関空に向かうということ

今週の水曜日、午前中に天王寺校で授業を終えるすぐにその足で関空特急「はるか」に飛び乗り関西国際空港に向かいました。お、ってことはようやく1学期の授業がすべて終わり、夏期講習までの束の間の休みを利用して海外でバカンスを満喫しようとしているな、って思ったでしょう。残念。不正解です。

正解は次の通り。

朝、毎週京都から天王寺まで利用している関空特急を降りたあと、いつもポケットに入れている定期入れがないことに気が付きました。ICカードとか切符とか、あと家の鍵とかが入ってるやつ。カバンの中を探しても見当たらず。ひさびさのいやな予感、あれ、ひょっとして電車の中に落としてきた? 携帯でも財布でもポケットに中途半端に入れて座ってるとスルって滑り出てしまうことはよくあるでしょ。運悪くそれがシートの隙間に落ちちゃったりすると降りるときも気付かなかったりする。忘れ物常習犯としてはもうすぐにピンときましたよ、絶対このパターンだ。

授業まであと15分って時刻だったので軽くテンパりながらも、とりあえず駅員に事情を告げ、後で連絡をくれるように頼んで校舎に走りました。気もそぞろで1限目の授業を終え改めて駅に連絡したら「定期入れですね、ありましたよ」と嬉しい報告。とりあえず一安心です。

「ところでこれから関空の駅まで取りに来られますか」
「え、天王寺駅に送ってもらうことはできないんですか。」
「できるのですが、それだと2日後くらいになるんですよ」

徒歩か! (タカアンドトシ風に)

人里離れた山奥じゃないんだから。いったい関空と天王寺の間を一日何台の電車が往復してんだよ。って心で突っ込みを入れつつも、事実上僕に残された選択肢は一つ。

「はい、分かりました。ではすぐに行きます」

行きますとも。カードはまだいいとして、さすがに鍵がないと家に入れない。

そんなこんなで、定期を取りにいくというただそれだけの目的で日本の空の玄関口まで赴くことになった次第です。ちょっとした旅行気分を味わえてよかったじゃないかなんて慰めようとしている人のために言っておきますが、ちょっとした旅行気分を味わいに平日の昼間に関空に行くということは、クリスマス気分を味わいにイブの夜に夜景のきれいなデートスポットに1人で行くのと同じことですから。精神衛生的には自殺行為です。

電車は関空に着く直前に海にかかる長い橋を渡ります。普通ならこの景色をみるだけで気分が高ぶってくるものだけどねえ、同じものを見てこれほどわくわくしないものかと。やっぱりそういうわくわくはその後に続くものがあってこそのものなんだね。この後に続く忘れ物係の駅員とのやり取りにときめきを感じられるほどのポジティブさは僕にありませんでした。

まあこんなことでもなければ今年の夏はこの橋を渡ることはなかったわけだから、ある意味では貴重なひと夏の経験をしたとせめてポジティブに思うことにします。

ちなみに今日のタイトルは往復の電車の中で読み終えた「葉桜の季節に君を想うということ」から。

今日の一言
ちょっとした旅行気分は「世界の車窓から」で十分だ

評価と基準

この時期になると1学期の授業アンケートの結果が予備校から送られてきます。講師にとってまさしく成績表みたいなものですね。

授業内容の満足度、板書の見やすさ、声のよさ、説明のわかりやすさなどの項目について、生徒が「よい」「普通」「悪い」の3段階で評価し、自分の担当授業ごとにその率が集計されてでてきます。たかが数字、されど講師にとってこれほど重たい数字はありません。この数字が(もちろんこれだけではないですが)来年度のコマ数やコマ単価に響いてくるのですからもう直接生活かかってるわけですね。まあ、わが道をいく僕にとってはこんな数字なんてこれっぽっちも関心ないですが、、なーんて格好つけたいところですが、実のところむちゃくちゃ気になりますねえ。毎回見るのが怖くもあり、楽しみでもある小市民です。

この授業アンケートを講師の評価材料として使うことに関しては否定的な意見をしばしば耳にします。生徒の「満足度」が必ずしも授業の質や講師の実力を映し出すものではないっていうもの。生徒の満足度を高めるだけなら、内容は乏しくても生徒受けのする派手な授業をすればいいじゃないかってね。それはもっともな意見だと思うのですが、では授業の質や講師の実力を反映できる絶対的な評価方法ってあるのでしょうか。これが難しいのは「よい授業」「よい講師」ってのはそもそも主観的な問題であるから。それを客観的な評価にしようとすればフィギュアスケートのように細かく基準を作る必要があります。授業のとき後ろに審査員がずらっと並んで、全部チェックしてんの。板書書き間違えたから-2点、いまちょっと噛んだから-1点、ギャグがすべったから-10点とか。審査員で意見の違うところはモニターで巻き戻しやスロー再生して協議したりもします。でですね、仮にその結果100点満点の授業がでたとしましょう。果たしてそれが万人にとって納得できるものかって言うとそうでもないと思うんだな。これはフィギュアスケートの演技の評価を見てても感じますよね。そりゃプロからみりゃすごいのかもしれないけど、素人目にはちっとも面白くないよ、なんてこと。アカデミー賞や芥川賞をとったという映画や本を鑑賞して、がっかりすることが多いのにも通じます。

本当に自分が楽しみたい本や映画を選ぶなら、僕はどこかの偉い人が書いた評論より、実際に作品を鑑賞した不特定多数の人によるレビューを参考にします。インターネット上で一般人の評価を集計するページはよくありますからね。そりゃ中には頓珍漢な評価もあるかもしれないけど、総体としてみればそちらの方がずっと信頼できる実感に即した情報が得られるように思えるのです。主観の総体ってのはどんな客観よりはるかに客観的なのかもしれないね。

授業アンケートも同じではないかな。やはり講師の評価は、その講師の授業を受けている生徒がするべきであり、それが一番信頼できるやり方だというのが僕の結論。そこを否定しちゃだめだろうと。僕が一方で身をおいているショービジネスの世界だって結局同じなんです。どんなショーも、それをみた観客がつまらないと言えば、それが如何に高尚なものだと言い張ったって、それはつまらないショーなのです。客が楽しんでくれるかくれないか、生徒が満足するかしないか、ただその一点。それ以外は学歴も年齢も服装もルックスも一切関係なし。そういう明快さが僕は好きなんだな。こういう業界が僕にとって居心地よく感じる理由です。

今日の川柳
授業には 出ない子ほど書く アンケート

車庫入れなんて大嫌い

報告が遅れましたが、今週の日曜日淡路島の夏祭りに行ってきました。心配されていた雨も午前中のうちに通り過ぎて、午後からは時折晴れ間がのぞくなかなかのコンディション。折角の機会ということで今までの作品に新ネタを組み込んだ新しい構成を試してみました。反応は上々。やっつけでしたが流れとしては今までよりいいかもしんない。

淡路島まではレンタカーを借り久々の運転をしたのですが、さすが運動神経と動体視力が猫なみに優れた僕のことです。車線変更でクラクションを鳴らされることも、高速の料金所で改札に手が届かないことも、救急車に追い回されることもなく無事淡路島までの往復を走破。全くブランクを感じさせないこの走り。やっぱり運転うまいです、僕。自画自賛。

ただですね、僕には致命的な弱点があるのです。車庫入れ。ド下手です。いやもうホントさっぱり分かりません。目いっぱいハンドルを切って後退しながら車の角度を調整するでしょ。であとはまっすぐバックするだけになってからハンドルを元に戻すのだけど勢い余ってハンドルを回しすぎてしまうのね。そうすると車が反対側に曲がってって、、、その繰り返し。最終的に枠には収まりますが、車から降りてみてみると必ず前輪が斜めに傾いています。まあそれはそれでかわいらしいのでよしとします。必殺ネコ型駐車。

で、最大の難関は自宅ですよ。僕の家に来たことのある人なら分かってくれると思うのですが、僕の家の前の道はタクシーでさえ入るのをためらうほどの狭さです。そこからの駐車は難易度ウルトラCクラス。当然僕のネコ型駐車が通用するほど甘くありません。何回かの切り返しの後、またしてもハンドルを回しすぎてしまい、車が変な方向に動き出したと思うと横の石塀の角にガリガリ、、。扉のところにはっきり分かる傷がついてしまいました。まあ、男が細かいことを気にしちゃ駄目です。これぞ男の車庫入れ。

え、それで次の日に車を返しに行ったのですが、案の定即バレでした。傷自体は保険が降りたのですが、修理の期間中の営業補償とかいう名目で2万円を払わされる羽目に。こんなちょっとした凹みで2万円ってありえないでしょ。交差点で信号待ちをしてる時にジャッキーチェンが乗り込んできて突然カーチェイスをはじめられたら絶対こんなもんじゃ済まないよ。そんな不幸に比べればこんなのかすり傷です、かすり傷。反対側から金槌で叩いとけば直るって。当然ながらそんな心の訴えは実らず。つくづく思うんだけどジーンズなんかだと古いほうが値打ちがあるとかいってわざと傷つけたりするのに、どうして車にはその発想を適用しないのかね。僕には理解不能です。

そんなこんなでレンタカー代、高速代、ガソリン代、補償代あわせて結局その日のギャラの半分以上が飛んでいくことに。まあ新ネタの反応が見れたのと、自宅の車庫入れの練習ができたという収穫はあったからいいんだけどさ。

今日の一言
やっぱ当分車なんか買わない

東京事変

これは東京滞在中に「トランク」の公演とは全く関係のないところで起こったエキサイティングな事件の記録です。

一日フリーの日があったので東京観光でもしようと、朝からインターネットで観光コースを調べておりました。手さげカバンの中になんやかんやと詰めていざ出陣となったとき、、

あれ、財布がない。

いやいや、そんなわけはない。改めていろんなところをひっくり返してみたのですがやっぱりどこにも見あたらないのです。さすがにちょっと焦ってきた。冷静になろうと深呼吸。とりあえず昨日の行動を思い返してみました。そういえば夜中に一度だけ部屋の外の自動販売機に行ったぞ。そのとき確か財布を台の上にポンと置いた記憶がかすかに残っています。そこで置き忘れたという可能性が一番高い。一縷の望みにすがって自販機コーナーに走ったのですが、やはりそこにもないのです!!

そうなると最悪の可能性が頭をよぎります。盗まれた? 中身は現金はもちろんクレジットカード、キャッシュカード、免許証などなど、僕の生命線を握り締めてる財産と情報の出血大バーゲン。東京砂漠に闊歩する魑魅魍魎の格好の餌食です。大ピーンチ。大慌てで電話をかけまくってあらゆるカードを無効にし、その後交番に飛んでって盗難届けを出す羽目になりました。

でもそこからが大変なのね。見知らぬ土地で無一文の僕はドーベルマンに囲まれたウェルッシュコーギーのごとく無力でした。この資本主義社会では、お金がないと電車にのって移動することすらできないのです。なすすべなく一旦ホテルに戻って作戦を練ることに。もうこうなったら上野公園まで歩いていって、そこで大道芸をしているクラウンの投げ銭をくすねるしかないな。しょうがない、これも生きるためだ。ロトさん、ごめん。再びインターネットで地図をみて、道順を書きとめるため筆箱を取り出そうとカバンの中をごそごそしていたときです。

おや

カバンの奥にやけに見覚えのある黒色の物体が。これってひょっとして、、、いや紛れもなく、この2時間死ぬほどの思いで探し求めていた僕の財布ではないか。え、なんで?

ここで話を巻き戻します。

その日の朝、僕はインターネットで調べ物をしながら、観光コースをメモ帳に書きとめておりました。それを折りたたんで財布の中にしまい、その財布を真っ先にカバンに入れていたのです。その後カバンに色々と物を詰めている間にそのことをすっかり忘れてしまっていたのですね。あとは上記の通り。まさかすでにカバンの中に入ってるなんて思ってないから、血眼で捜しているときもカバンの中だけはのぞかなかったのです。うーん、自分でも信じられない大ボケ振りだ。急転直下の解決にほっとすると同時に軽い自己嫌悪に。馬鹿すぎる。なんだったんだ、この大立ち回りは。さんざん冒険したあげく家の中で幸せの青い鳥を見つけたチルチルミチルの気持ちがちょっと理解できた気がしました。

人間の思い込みは実に怖い。

今日の格言
めがねをなくした時はまずおでこを探せ

遠花火

昨日は職場の人たちと一緒に東京湾の花火を見てきました。ちょうど会議で東京に行く日程と重なってたので、これはチャンスといろいろ手はずを整えてもらったのです。

高校、大学時代は琵琶湖の花火大会にみんなで繰り出していたものですが、最近はこういう大規模な花火大会にはすっかりご無沙汰でした。花火見物といえば、まだアスファルトに残る暑さと何故にかギラギラした人の熱気に揉まれ、打ちあがるたびに体が押し返されるほどの爆音に歓声をあげる、なんていうのが僕の中のイメージだったのですが、昨日連れて行かれたのはなんと品川プリンスホテルの最上階。東京の夜景と花火が同時に楽しめるという抜群のロケーションです。クーラーの効いた室内で一杯1300円のビールに一皿2000円のチーズの盛り合わせをつまみながらのまさしく「花火鑑賞」。なるほど、大人になるというのはこういうことなんだな。

少し遅れてやってくる花火の音を聞きながら「遠花火」っていう言葉のイメージが頭の中にふっと浮かびました。今花火が焦がしている夜空の真下では何十万人の人たちがひしめき合いながら歓声を上げていて、そこにはきっと僕の思い出の中の人いきれがあり、色めきたってた10代の自分がいるのですよ。それを遠く離れて眺めている現在の自分がいる、そんな錯覚。「恋は遠い日の花火ではない」ってサントリーのコマーシャルがありましたね。遠くガラス越しに見る花火にはほのかな哀愁と色気が漂っている気がします。

テキストの校正もテストの採点もすべて忘れさせてくれるような素晴らしいひとときでした。ただ1人おいくら万円になったのかもかなり怖いのですけど。

今日の一言
締め切りも遠い日の花火ではない

地蔵盆

京都には地蔵盆という行事があります。大阪や東京の人に聞いたら知らなかったので多分京都近辺固有の行事なんでしょうね。名称からも分かるように子供のためのお祭りで地域の人たちが中心になって公園や道路に縁台を出して、そこでお菓子を配ったり、催しをしたりします。京都のジャグリングサークルにとっては1年のうちで最も出演の依頼が殺到する日。メンバー全員が1日中出ずっぱりで日ごろの腕を披露しようと大活躍する機会でもありますね。

まあ、さすがに僕はもう依頼に出向くことはなくなったのでこの行事とは無縁だと思っていたのですが、なんと数年に1回やってくる「組長」の仕事が今年回ってきまして、地蔵盆の当番をさせられることになってしまいました。念のために説明しておくとうちの町内は1組から8組の区域に分割されていて地蔵盆は組ごとに行います。その組を仕切るのが「組長」ね。普段地域の人との交流が全くなく、人付き合いというものが極端に苦手な僕には正直大変な重荷です。粗相のないように、かといって余りにうまく仕切りすぎて信頼されることもないように。合言葉は「無難」です。(まあ普段の授業のスタンスも似たようなものですが。) ちなみに僕がパフォーマーをしていることは誰にも知られてはいません。「デビルマンが誰なのか」と並ぶトップシークレット。そんなことが知れたら毎年何かやれといわれること間違いなしだからね。

そんなこんなで朝から町内のおっちゃんたちと一緒にテント立てたり、縁台組んだり、地味に働きましたよ。夕涼み交流会には近所の人たちがぞろぞろと集まってきました。うちの近所にはこんなにいろんな人がいたんだとちょっと驚きもしたり。子供は大騒ぎでビンゴゲームや花火に興じ、主婦たちはカレーを作りながら近所の噂話に大輪の花を咲かせ、おっちゃんたちは我関せずと隅っこに腰を下ろしてビールを飲むのです。僕がずっと遠ざけようと過ごしてきた所帯じみた空気がそこには充満して、肌にべとつく感じもあり、ちょっと懐かしい感じもあり。まあ、たまにはいいか。

人間関係の希薄さが社会問題にもなっている昨今、地蔵盆のような地域を感じる機会は貴重なのかもしれないです。きっと僕みたいな「人嫌い」のためにこそ用意された行事なのでしょう。時に排他的とすら言われることもある京都の地元意識の強さは、このような草の根のイベントから培われているんだなと再認識させられました。

今日の一言
「池田さんとこの旦那さん」と呼ばれることにいまだにかなり抵抗がある

みんなのうた

「おしりかじり虫」という歌がNHKの「みんなのうた」で大人気になっているというニュースを読んで早速YouTubeで探して聞いてみました。確かに何度も聞いてるとちょっと癖になりますね。ふーん、面白い。

ついでながらYouTubeで「みんなのうた」で検索すると自分が子供の頃によく聞いていた歌もたくさん出てきます。僕が小中学生の頃はクラスメイトは光ゲンジやチェッカーズにはまってたものですが、僕はそういうポップスには全く興味がなくて、聴いてた歌といったらNHKの番組の合間に流れていた「みんなのうた」だったのですね。すっかり忘れてしまったと思ってたけど、メロディーが流れてくると全部歌えてしまうのです。20年ぶりくらいの映像と歌がたまらなく懐かしてついつい夢中になって何度も見てしまいました。

「メトロポリタン美術館」
大好きな曲でしたね。曲の展開やメロディーラインの美しさはピカイチ。人形を使ったアニメが可愛らしくもありちょっと不気味でもある。夜のメトロポリタン美術館で少女が大理石の天使やミイラと戯れるっていう内容。ミイラの棺に目覚まし時計をかけてあげるところとかすごくいいな。最後は少女は大好きな絵の中に閉じ込められてしまいます。この終わりかたってどうなのよ。メルヘンなのかホラーなのか。子供心にちょっと怖かったです。

「まるで世界」
最初にテレビで見たとき笑い転げた記憶が未だあるから相当インパクト強かったんだと思います。朝目が覚めたら世界が変わっていた、っていう歌い出しなんだけど、あれ、それって結局、、?っていうことに気付く不条理な歌詞。みんなのうたの歌詞って意外とこういう不条理なものって多いですね。他にも「まっくら森の歌」とか子供向けの歌とは思えないほど深い。哲学的なメタファーすら感じてしまいますね。

「恋するニワトリ」
「ココ コココ ココ コココ 恋は恋は恋」っていうフレーズがとっても印象的。ニワトリが屋根の上の風見鶏に恋をするっていうほのぼのとしてちょっと切ない歌です。子供の頃はなんとも思わなかったけど、今になって聞くとすごく胸にしみる詞ですね。最後にニワトリは彼への思いを込めて一人で卵を産むのです。うーん、思いを込めただけじゃひよこは生まれないんだけどね。その辺りは深く考えては駄目です。

でもやっぱり極めつけは「おっぱいがいっぱい」だな。可愛い男の子の声で歌うこの放送禁止ぎりぎりの歌詞、無数のおっぱいが宙を舞うもわもわな映像、間違いなく僕の人格形成に影響を与えたな、これは。

今日の一言
今僕が歌ったら間違いなくセクハラになります

どんぴしゃ

すごい雨と雷。

暑くなりすぎた夏の帳尻を強引に合わせようとするかのような豪雨です。あるいは夏休みの最終日に全国の小学生が感じる憂鬱を全部集めて降らせたらこんな感じになるのではないかと。

思いっきり近くで雷が落ちました。パソコンの中の画像までびくっと震えたような。

落雷のたびにふと思うのは、ひょっとしたら雷が落ちるその直前まさに「どんぴしゃ」のタイミングで「コラー!」とわが子に手を振り上げた母親がどっかにいたのじゃないだろうか、なんてこと。うん、これだけたくさんの世帯があるんだからそういうとこがあっても不思議じゃない。このときの相乗効果ってすごいだろうね。どんな言う事を聞かない子供だって一瞬でおとなしくなるはずです。

あるいはちょうどその瞬間「私、あなたの他に好きな人がいるの」とごめんなさいを宣告されてしまった人がいたり、手紙で自分の生い立ちの秘密を知ってしまった人がいたり、ライバルから挑戦状をたたきつけられた人がいるのかも。雷が鳴るたびにそんな素敵な「どんぴしゃ」がきっとどこかで起こってるに違いない、などとくだらない妄想にふけっております。ああ夏も終わるんだなー。

さあ、明日から2学期がスタート。受験生もいよいよ修羅場ですよ。

今日の一言
授業中に雷がなると何故あんなにテンションが上がるのだろう

シフクノトキ

現役生の授業は来週からのスタートなので、今週は午前中に仕事を終え家に帰れます。半日で仕事をあがれる日って丸一日の休みの日よりもよっぽど嬉しい気がしませんか。これってたぶん小学生の土曜日の記憶につながっているんだろうけど、やるべきことをやり終えた達成感とあと半日が手付かずで残されていることの喜びが綯い交ぜになった気持ち。ひょっとしたら完全週休二日になった最近の小学生はこのワクワクを知らないのかもしれない。もったいないねえ。

そして昼下がりに家に向かう電車の中の気持ち良さっていったらないですね。特に今日みたいな天気のいい日はなおさら。車両はすいていて乗客の中には赤ちゃん連れのお母さんやお年寄りの姿が目立ちます。やかましい学生の集団も疲れた顔したサラリーマンもいない。のんびりとした、どことなく牧歌的な空気が流れています。直前にプールで泳いできたから体も程よく疲れていて、ついそのままうとうとと昼寝モードに。これがまた最高なんだな。すっごい肌触りのいいほっかほかのセーターを着るときみたいな幸せに包まれます。気分は猫バス。新幹線のグリーン車より、飛行機のビジネスクラスよりよっぽど贅沢な時間が昼下がりの電車にはありますね。

余談ですが僕の最も嫌いな乗り物ランキング1位はどしゃ降りの雨の時の混雑した市バスです。こちらは生乾きの下着をもう一度着なきゃいけないときみたいな最悪の気分になります。考えただけでももう地獄。

今日の一言
毎日が土曜日だったらいいのに

結び目

結び目に勝ち組と負け組があるとすれば、勝ち組は若い女の子が着ているビキニの胸の谷間の結び目。引っ張ったらほどけそうな感じのやつね。そんで負け組はおやじがはいている水着のズボンの前の結び目だな。しかも蝶々結びがいつの間にか固結びになってしまった状態のやつ。この2つの間にはヒルズ族としがない予備校講師くらいの格差があると思って間違いないです。

今日ジムの洗面台でいすに座って髪を乾かしていたら、後ろから知らないおっちゃんがやってきて話しかけてきました。
「水着の紐がだんごになってしもたんやけど、兄ちゃん、悪いけどほどいてもらえんか。」
周りにスタッフの姿もなかったので、仕方なく一番若い僕を見つけて頼んだのでしょう。あんまり気は進むものではないのですが、断るってのも気まずいのでので仕方なく引き受けることに。で、これがまた負け組の典型のような結び目なのですよ。何か強い悪意すら感じられるような見事なだんごっぷり。水気を帯びてるからいっそうタチが悪い。

しばらく悪戦苦闘する羽目になったのですが、その間、おっちゃんは僕が作業をしやすいようにと考えたのでしょうが、僕の顔の前に仁王立ちですよ。そのおやじの股間の前でなにやらもぞもぞと手を動かしている僕。えっ、これって相当まずい絵だよね。いわゆるアダルトビデオでの女性のポジションですよね。案の定、後ろを通る人が不審なまなざしを浮かべて足早に通り過ぎていくんですけど。この状況から1秒でも早く開放されたい一心で紐をほどこうとするのですが、あせればあせるほど固く紐が結ばれていく無間地獄。誰か助けてー!

「ありがとう、助かったわ」とお礼をして去っていくおっちゃんの顔を僕は何故かまともに見ることができませんでした。

筋トレするよりもよっぽど汗かいたよ。すっごい嫌な汗を、、、。

今日の一言
がらがらの電車の中で隣に座ったおっちゃんが肩にもたれかかってきたとき以来の危機でした

ビップ待遇

三ノ宮校での最終コマの授業をきちんと定時に終了し、そのまますぐにカバンを取って駅に向かえばギリギリのタイミングで京都行きの特急に乗ることができます。京都駅までの約1時間、ゆったり大きめの座席にのんびり座って帰れるので、この特急に乗れるかどうかはかなり大きいのです。普段から授業を延長することがほとんどない僕ですが、とりわけこの曜日のこの授業だけは時間配分に気を配って定時に終わるようにしています。

ただ今日は説明することが多かったこともあって迂闊にも若干時間をオーバーしてしまいました。こうなると特急にのることは絶望的。あきらめて講師室でのんびりくつろいで、ゆっくりと駅に向かうことにしました。ところが駅について思わず我が目を疑いましたよ。なんとそこにはあるはずのない特急が停まっているではないですか。しかもまるで僕をせかすかのように発車のベルが鳴っているのです。事情がつかめないままとりあえず飛び乗るとそれを見計らっていたかのように僕の後ろで扉がプシューと閉まりました。

電車が動きはじめてすぐに車内アナウンスが。

「お急ぎのところ大変ご迷惑をおかけしています。ただいまこの電車、三ノ宮駅を約7分遅れで運転いたしております。」

このアナウンスを聞いて僕はすべてを悟ってしまいました。この電車はきっと僕を待ってくれていたのだと。アナウンスが遅延の原因を一向に説明しようとしないのも、僕に気を遣ってくれていると考えて間違いないでしょう。その裏にどんな圧力が働いたのか、僕には分かりません。でも確実にいえることは僕が貴重な乗客の時間を奪ったということ。無駄になった時間は "たった7分" ではありません。体育教師理論によれば僕1人が7分遅れたことで[乗客の人数]×7分の時間がどぶに捨てられてしまった計算になるのです。そうと分かってたらもっと早く塾を出たのに。乗客のみんな本当にごめん。

僕の両肩にはたくさんの人生が乗っている。だからもう二度と授業を延長することはやめよう。そう心に誓ったのでした。

前半は実話ですが後半は妄想です。念のため。

今日の一言
できる男は定時ダッシュ

電子辞書

初めて電子辞書を買いました。広辞苑、英和辞典、和英辞典、英英辞典、漢和辞典、類語辞典などがすべて手帳サイズのボディーの中に収まって手軽に持ち歩けてしまい、いつでも瞬時に調べたい単語にたどり着けるという事実にいまさらながら驚きを感じてしまいました。これはもう技術革新というより「革命」の粋なんじゃないかな。

新しい技術が従来の技術に取って代わったとき、古い技術が何らかのニッチな需要を見つけ、その中で生き残ることはあります。例えば僕が大学生の頃一時的に流行ったポケットベルは、携帯電話という圧倒的に便利なツールに飲み込まれ完全に姿を消したように思えますが、そのデータ送信の軽さや電波の弱さがメリットになり病院の待合室やファミリーレストランの客の呼び出しには今でも使われています。手軽な電卓の出現で実用上の価値はほとんどなくなった算盤もいわゆる「脳トレ」の道具として別の角度から注目されていたりする。

しかし辞書に関して言えばどうか。先にあげた持ち運びの手軽さ、検索の速さといった点において電子辞書の利便性は紙の辞書をはるかに上回っています。それに加えてコストパフォーマンスもよく、ネット経由で最新の情報を更新するといったメンテナンスも可能、となればひょっとしたら紙の辞書が太刀打ちできるものは何ひとつないのではないかと思えてくるのですよ。せいぜい枕にできる、漬物石の代わりになる、戸棚に並べておくとなんとなく権威が上がるくらい?「知恵蔵」の発行部数が全盛期の9割減で休刊に追い込まれるというニュースもありましたが、これはもうとめられない流れなのかもしれませんね。近くに大型スーパーができ、なすすべなくさびれていく商店街を見ているような切ない気分にさせられます。

昔は科学計算に「計算尺」という道具を使っていたのだよと年配の数学教師が感慨深げに話すのを僕らの世代は異国の話を聞くような気分で聞いているのですが、考えればそれだってほんの3,40年前の話なのです。きっとあと20年もしたら「昔は言葉の意味はすべて本に書いてあって、それを手作業で探してたんだよ」と僕たちは同じような感慨を持って子供たちに話して聞かせるのかもしれませんね。

今日の一言
電子辞書に「不可能」という文字はあるか

文学の賞味期限

最近、明治から昭和初期の文豪の小説を読みあさっています。

有島武郎「或る女」
高村光太郎「智恵子抄」
夏目漱石「こゝろ」
樋口一葉「たけくらべ」

などなど

タイトルと作家名を聞けば「ああ、それね」と誰もがうなずく、にも関わらずその文章に実際に触れたことがある人はほとんどいない、そういった類の作品群です。書かれた当時は新聞や雑誌に掲載されていたわけだから、庶民が手に取りそのよしあしを論じ合うようなものだったはずなんだよね。それがいつの間にかある種の威厳を背負わされ、図書館の奥の誰にも入れないようなスペースで風格のある埃を積もらせているのです。僕らが目にするのは教科書や試験問題として切り抜かれ、目障りな横線をいやというほど引かれたものくらい。こういうのって最も不幸な作品との出会いだと思いますね。作品を鑑賞するのはすごく主観的な行為であり、だからこそ心が躍るものなのに、教科書はひたすらに客観的であまりに醒めすぎてる。例えるなら女性の裸を医学書で見ているような感じだな。それに興奮するのは至難の業ですから。

近頃こういった文学作品をあのNintendo DSで読めるソフトが発売されています。さほど期待せずに買ったのですがこれがなかなかいいのですよ。格調高い重厚な文章におよそ似つかわしくない現代的なスクリーン、携帯のメールを読むような手軽さ、このミスマッチが作品が期せずして身にまとうことになった権威をうまく中和してくれるから不思議なものです。連載中の漫画を読みながら、ここは間のぴしてるねとか、締め切りに追われて無理やり終わらせたなとか作者と同じ視点に立ってあれこれ考えることってあるでしょ。それと同じ感覚で古典文学を味わうことってすごく大切なことなんじゃないかな。なんだ、気難しい奴だとばかり思っていたけど、案外面白い奴だったんじゃんって100年近く昔の人に妙に親近感を覚えたり。

それにしても驚くのはこのソフトのコストパフォーマンスの良さ。1本のソフトの中に100冊以上の作品が収録されていているから、単純に1冊わずか30円足らずで本が買えている計算です。どうしてこういうことができるかというと、著作物の権利は著者が死んでから50年で保護期間が切れることになっているらしく、古典作品って今はタダ同然なのです。くだらない小説を指すものだった三文小説という言葉がここに来て全く正反対の意味に聞こえてきそうですね。

この50年という保護期間は世界的な基準からすると短いもので、これをさらに延長しようという動きもあるようです。もちろん著作者の権利が尊重されるべきものではあることは言うまでもないのですが、一方でそのようなしがらみから開放され新しい命を吹き込まれた名作たちが、なにか非常に晴れやかな表情をしているような気もするのです。空気を吸うようにモーツアルトの音楽を聴き、美しい夕日を眺めるように夏目漱石の本が読める。長い年月を経て芸術は人の手を離れ、ようやく本来そうあるべき姿に戻されるのかもしれないな。

今日の一言
素晴らしい芸術に保護期間はあれど賞味期限はない

情報の価値とは

スポーツ新聞や雑誌の芸能記事を読んでいるとその情報ソースが明らかに芸能人のテレビやラジオの番組中の発言であったり、芸能人本人のブログであったりすることが増えているように思うのですよ。例えば

「○○という番組の中で■■さんはこんな発言をした。」
「○○について、■■さんは自身のブログの中でこのように述べている。」

みたいなもの。それに何かの情報をプラスするでもなく、せいぜいあとは記者の憶測か感想を述べて記事を締めくくる。以前から多少はあったのかもしれないけど、最近特に目に付くようになってきました。

一般の人が直接手に入れることができる情報を元にそれを後追いしただけの記事を書くってのはプロとしては明らかに怠慢だし、主客転倒の感じもする。それなら僕だって書けるし、なんならもう少しうまく料理するよとか思っちゃうわけ。でも一方でどうしようもない面も多分にあるんだろうな。昔は記者会見を開いていたような重要な報告でも最近の芸能人はテレビ、ラジオやブログを通して直接一般の人に向かって公表してしまうケースが増えてますもんね。それがネット経由であっという間に広がり、それを見て初めて事を知る記者も多いんじゃないだろうか。

情報には価値があるといいますが、その価値というのはそれを知っている人と知らない人がいて初めて生じてくるものです。僕の高校時代の話ですが、ちょうど今のシーズンになると必ず学校にラジオを持ってくる奴がいました。彼は授業中に先生の目を盗みながら進行中の日本シリーズの試合解説をイヤホンで聞くのです。授業が終わるとみんな一斉にそいつのところに集まって試合の状況を確認します。クラスの中で唯一人最新の情報を持っている彼は間違いなくヒーローになれました。もし彼がその情報を100円で売るといったら、あるいはお金を払う人もいたかもしれません。情報が価値を生みだす分かりやすい構図がこれ。この価値は誰もが自分の携帯電話で簡単に試合の経過を知ることができる現代では絶対に生じ得ないものです。

昔は情報源も限られていたし、それが広がる経路も単純だったから、ちょうど川の水をダムで堰き止めるような感じでメディアが情報をうまくコントロールして二次的、三次的な価値を搾り出すような仕組みがあったんだと思う。そのダムが今いたるところで決壊していて、もはやメディアすら情報をコントロールできずそれに振り回されている時代なんですね。逆説的ですが情報化社会が進めば進むほど、情報の価値はどんどん無くなっていくものなのかもしれません。

今日の一言
メディアの役割はいまや情報の発信ではなく情報の集約である

明けましておめでとうございます。

今日は初仕事の日。初詣客を横目に初地下鉄の中で初居眠りをし、寝ぼけた頭のまま初校舎の初洗面所で、初「眼鏡の上から顔を洗う」というボケをしてしまいました。どんな些細な事でも「初」という接頭語が付くだけで人生において重要な意味を持つことのように思えてくるから素敵です。もう何だって有難い。「初迷惑メール」。「初金属窃盗」。「初振り込め詐欺」。「初音ミク」。

というわけで初ブログです。今年もできる限り定期的に、でも肩肘張らずコツコツと続けていきたいと思います。皆さま、どうぞよろしくお願いします。

今日の川柳
誰よりも スパムが祝う New Year

走り初め

ふと走りたくなりました。

ふと、というのは嘘でした。しっかりときっかけはあります。年末に村上春樹の「走ることについて語るときに僕の語ること」というエッセイを読んだからです。プリンのコマーシャルをみてプリンが食べたくなるがごとく。我ながら感服するほどの単純さです。

考えるにつけ僕の生活の趣向は少なからず村上春樹の小説から影響を受けています。「風の歌を聴け」では「ひと夏でプール一杯分のビールを飲んだ」という比喩を真に受け、お酒はビールしか飲まなくなりました。エレベーター嫌いでいつも階段を利用する癖も「東京奇譚集」の登場人物が元になっています(最近この小説を読み直したときに気がつきました)。春樹さんの描く主人公の中にあるある種の共通した性向、おそらくそれは春樹さん自身にも当てはまることなんだろうけど、自分だけの行動規範を妥協なく忠実に、ある意味馬鹿正直にこなしていくような姿勢に僕は共感を覚えてしまうようです。

そしてこれは僕自身の悲しき性ですが、いざ何かを始めると決めたらのならすべて形を整えないと気がすまない。本を読んでジョギングに対する知識を頭に詰め、スポーツ用品店で足のサイズを測ってもらって専用のシューズを買い、ジョギングのためだけにiPod nanoを購入。最近のiPodではクツにセンサーをつけておくことで何分で何km走ったというジョギングのデータを取れるのです。それをWeb上で管理したりもできる。恐ろしく便利な時代です。さらに店の人の勧めでジョギング用のウェアやリュックまで買わされ、さあ、ここまでやったらもうやるしかないでしょう。

とりあえず目標はあまり高くせずに1月中に100km走ることを目指したいと思います。1日5km(約30分)をほぼ毎日走れば余裕で到達できる距離です。そうして慣れてきたら少しずつ距離を増やしていく計画。素晴らしいことに京都には鴨川沿いをはじめジョギングに最適な道がたくさんあります。朝少し早めに起きて、朝靄の川岸をジョギング。そのあとジムで軽く筋トレ、すっかりさび付いてそうなパントマイムの体作りをしてから、仕事に向かう。しばらくそんな生活をしてみます。

最近煮詰まって、だらけてしまいがちの毎日、思うところもあってちょっと引き締めていきたいと思ってます。恥ずかしげもなくちょっと殊勝なことを始めるのにはいい時期ですね。またブログでちょくちょくと経過報告をすることにします。

今日の一言
靴のサイズに横幅まであることを初めて知りました

続ける法則

10年以上前の話ですが、自動車教習所の卒業検定が終わった後の講習で教官がこんなことを言っていました。

「これから皆さんが路上に出る時に思い出して欲しいことがあります。初心者ドライバーが事故を起こしやすい時期、それは何度か訪れます。まずは運転を始めて1週間後、次が1ヵ月後、次が3ヵ月後、次が1年後です。このような折に是非もう一度気を引き締めなおしてください。それを乗り越えたときが皆さんにとって初心者卒業です。」

この教官説に拠れば、人がついつい気を緩めてしまう時期は定期的ではなく、前の期間の約4倍、約4倍という間隔でやってくるということ。いわゆる指数関数的な増加ですね。そこにどれほどの科学的根拠があるのかは分かりませんが、なんとなく説得力を感じてしまいました。

何かを続けることにもそういうところがあるように思えます。はじめてから1週間続くかがまず最初の山(いわゆる3日坊主の山でしょうか)、そこを乗り越えると2週間、3週間は惰性で続けられ、4週間目、つまり1ヶ月目辺りが次の山になる。そしてそれを乗り越えると次の2ヶ月はその勢いで続けられ…といった具合。1つの真理のような気がするな。勉強でも、仕事でも、あるいは人間関係にも当てはまるかも。

年始に誓いを立てて始めたランニングはとりあえずは最初の一山を越えました。1週間で約40kmという予想以上にいいペースで走り続けてます。中学校では陸上部だったし、最近も筋トレや水泳といったトレーニングは続けていたので肉体的な辛さはほとんどないですね。明日からもう少し距離を伸ばしてみようかな。

ではまた、1ヵ月後、このブログで成果が報告できるように頑張ります。

今日の一言
ランニングコースを考えるのもまた楽し

ストリーミング

次々にやってくる仕事を順次処理していく。やってくる仕事は常に一定ではなく、時には多く、時には少なかったりする。それを常に一定の割合で効率よく処理していくために仕事を保留しておくスペース、それは物理的なものでもあるし精神的なものでもあるけども、そういうものが必要になります。コンピュータで言えばバッファメモリのようなものです。映像のストリーミング再生なんかで通信が不安定なときでもやってくるデータを安定して再生する仕組み。それと同じようなものが人間にもあると思うと分かりやすい。

という長い前ふりの元で何が言いたいかと言うと、今僕のバッファメモリは限りなく満タンに近づいているのです。やるべきことの量が明らかにできることの量より多くなってきた。ピンチ。言うならば映像がカクカクしたり、音声がぷつぷつと途切れる状態ですよ。きっとこれはいろいろな人をイライラさせているに違いありません。本当にスイマセン。ブログの更新がやや不規則になっているのもそういうことだと理解してください。

クリエイティブなことをたくさんできているので充実はしていますけどね。とにかく圧倒的に時間が足りない。学生は時間を犠牲にしてもお金を得ようと思い、社会人はお金を犠牲にしても時間を得ようとする。なるほど時は金なり。

今日の一言
ストリーミングとストリーキングは一字違いだ

契約更改

僕の仕事は基本的に単年契約ということで、年に一度、ちょうど今の時期に契約の更改をします。コマ単価や来年度の契約内容などを提示され、それを了承した上でお互いに判をつくという大切な行事。そして何を隠そうこの僕、この契約更改が大の苦手です。部屋の扉を開けてずらりと並んでいる背広の方々を見たその瞬間に帰りたくなります。

部屋に足を踏み入れた瞬間、背広たちが一斉に立ち上がる。ざざっ。中学校の卒業式じゃないんだからさ。怖いって。にこやかに迎えてくれていますが僕にはもう威圧にしか感じられません。気分は牧紳一とマンツーマンにあてられた小暮君です。しりもちをつかないのがやっとです。

その後いろいろな人が入れ替わり立ち替わりいろいろな説明をしてくれます。耳には入っていますがその半分も頭に入っていません。レンタカー借りるときとか、携帯電話の契約するときとか、そういう時にされる説明を聞いてても同じような感じになりますね。しゃべる側はとにかくしゃべらなきゃいけないのでしゃべりますよって感じのしゃべり方をし、聞く側はとにかく聞かなきゃいけないので聞きますよっていう聞き方をする。形式の交換。そしてほとんど何も覚えちゃいない。

「最後に何かあれば、どうぞおっしゃってください。」

「と、特にないです。」

沢尻エリカの決め台詞を鮮やかに決めそこない、言われるがままに判を押し、今年も逃げるように帰ってきました。あー、生きた心地がしなかった。

この場で日ごろ思っていることを全部言うぞって張り切る先生もいるんだけど、僕にはとても無理だな。というより僕は職場の運営方針とかそういう政治的なものに何一つ関心が持てないのです。そして関心がないことをさも関心があることのように言ったり聞いたりするのも嫌。

アルキメデスは城が攻め込まれていたのにも気づかずに、敵の兵に殺されるまで床に円を描いていたと伝えられています。彼も政治なんてなんの興味もなかったんだろうな。馬鹿だけど、その生き方はちょっとうらやましい。もしあるならこのアルキメデスのポジションを僕にください。

今日の一言
「その円を踏むな」とか言ってみたい

余熱

数時間は要する大きな仕事が1つ、10分もあれば片付く小さな仕事がいくつかあったとします。これらの仕事をうまく片付けるコツが最近ようやく分かってきました。

まずは敢えて一番大きな仕事から取り掛かります。1,2時間集中して一気にやり遂げてしまう。そういう大きな仕事を終えた後ってその達成感からかまだちょっとくらいなら何かできるような気がしてくるでしょ。その気持ちのまま、こまごまとした雑事を片付けていくと驚くほどさくさくと仕事が仕上がります。この仕事の順番はすごく大切。逆だと僕の場合小さな仕事を終えた時点で力尽きてしまいますね。

仕事をやるエネルギーってのはなかなか温まらないけど、一度温まってしまうとしばらくは冷めない。アイロンみたいなものですね。電源を抜いた後もしばらく続く余熱を有効に活用してついでに小さな仕事をちゃっちゃと済ませてしまう。これもまた1つのエコロジー。

今日の一言
仕事も地球にやさしく

到達

そういえば年始に立てた「走る誓い」はどうなったのかって思っている人は多いかもしれませんね。結論を言うと今もちゃんと走っています。毎朝きちんと5kmずつ。ただ白状すると1ヶ月半ほどの空白期間がありました。

実は走り始めて10日くらいたったときに足首に軽い違和感を覚えました。アキレス腱を伸ばすような動きに痛みを覚える。経験上、新しい運動を始めたときに体がその突然の変化にびっくりして過剰な警告を発することはよくあることで、そういうときは運動量を減らすかあるいは別の運動に切り替えて痛みが自然に消えるのを待つしかありません。ところがその痛みは走るのをやめた後もなかなかおさまらず、むしろ日に日にその度合いを増していきます。そのうち普通に歩くこともままならないような状態になりました。

いつもは5分で歩ける距離が10分にも15分にもなる。普通に歩けるということがいかにありがたいことか、このときほど痛感したことはありませんね。整形外科ではとりあえず安静にしているしかないと言われ我慢の日々。結局その後2週間ほどで状態は改善したのですが、そのあとは公演が終わるまでは大事をとって走るのを控えていた次第です。

走るのを再開して10日を過ぎた現在。また痛みが再発しないか心配していたのですが、とりあえず今のところは異変はなく一安心といったところ。良く分かっているはずの自分の体ですが、ほんの些細なことで予想外の反応をする。難しいものですね。本日ようやく当初の目標だった100kmに到達しました。ふう、長い道のりでした。実際の距離以上にね。

来年度はすこし朝のスケジュールが楽になりそうなので授業が始まってもランニングは続けられそうです。自分の体と相談しながら無理せず少しずつ走る距離を延ばしていこうかな。

今日の一言
「ひとり」になれる時間

自己暗示

久しぶりのからっぽの4連休。1日がまるまる自由に使えることに幸せを感じることができるのは日ごろ時間に追われている人の特権です。こういう時に仕事をしないから、後で時間に追われるんでしょという突っ込みは置いておいて。

今日も朝から家の近くのジムへ。ゆっくり時間をかけてストレッチをし、その後マシンを使い、いつもの手順で筋トレをこなします。一つ一つの筋肉への負荷を確認しながら丁寧に体を動かしていく。まあ、そう書くと魅力的に聞こえるかもしれないけど筋トレが楽しく感じられるのはせいぜい始めて1週間が限度ですよ。新鮮味は徐々になくなり苦痛だけが残る。あえて自分に限度ギリギリの負担を課すわけだから当然のことで、やりながらちょっとでも「嫌だ」とか「キツイ」と思ってしまうと、体はすぐに楽な方に逃げ出そうとしてしまいます。だから心の持ちようは難しい。

こういう時にはうまいイメージを作って自分に暗示をかけます。例えば自分の体をさび付いた自転車だと思いこみます。それを一旦ばらばらに解体しすべての部品をブラシを使って隅々まで磨いていく。それを最後にもう一度組み立てなおす、そんなイメージを持ってみます。あるいは自分の体をギターだと想像し、その弦をすべて新しいものに張り替え、1本ずつチューニングしていくようなイメージでもいい。その作業自体は決して楽しいものではないけど、やり終えればそれに見合う快感がある。そして何より重要なのはいったんやり始めてしまったら最後までやり終えてしまわないとなんか気持ち悪いでしょ。これが暗示のポイントなのです。

「やりたくないこと」を逆に「やらないとなんか気持ち悪い」と思えるようにしてしまう。よく言う「歯磨きをするように」です。そういう自己暗示はトレーニングだけでなく受験勉強や日々の雑事にも有効でしょうね。

今日の一言
寒いダジャレなのに聞かないとなんか気持ち悪い、と思わせることに成功した片平さんは偉大だと思う

テレビのリズム

レッドカーペットがレギュラー化されたようですね。何人ものお笑い芸人が1分弱の短いネタを次から次にやっていく番組。オチとともにカーペットが動き、芸人がベルトコンベアーのように退場させられるその様からお笑いも大量消費、使い捨ての時代なのかなんていう揶揄も聞こえてきます。まるでファーストフード、スピードを求められる現代の象徴という気もしますが本当にそうなのか。

音楽の話に置き換えてみましょう。1曲が10分を超えることが珍しくないクラシック音楽と比べれば確かに現代の曲ははるかに短くなっています。ところがほんの3,40年前を考えるとどうか。いわゆるオールディーズの洋楽をみるとどれも1曲が2分から3分、アルバムにしても40分足らずしかないことに驚かされます。音楽がラジオやジュークボックスの普及で身近に楽しめる娯楽になったのがちょうど1950~60年代。そこでは曲の回転を速くするために(もちろんレコーディングの技術的な問題もあったのでしょうが)自然に短い曲が好まれたのです。しかしそれが曲の粗雑乱造を招いたかといえばそんなことは全くない。チャックベリー、エルビスプレスリー、ビートルズといったロックの黄金時代がまさにこの時期であることを考えれば言うまでもないことでしょう。

生の演奏を大ホールの席に座りじっくりと鑑賞する音楽、ライブハウスでお酒を片手に聞く音楽、レコードやCDで自宅で楽しむ音楽、その環境やニーズにあわせて音楽の長さはそれにふさわしいサイズに自然に変化していく。これはまるである環境下におかれた生物の大きさがほぼ同じになっていく生物学の原理とも通じるようで面白いですね。

芸にもその環境にふさわしい長さがあり、いまこのような番組が受けているのはこれが時代のテンポというよりこれがテレビのテンポだからなんだろうなと思います。2時間には2時間にふさわしい芸があり, 1分には1分にふさわしい芸がある。そして芸の質の高さはその時間によって決まるものではないでしょう。僕はどちらかというと古典落語やラーメンズのような作りこんだ笑いが好きなのですが、この番組のような瞬発力のある笑いもこれはこれで心地よいものだと感じています。楽しみな番組が一つ増えました。

今日の一言
芸が時間を決めるのではなく、時間が芸を決める

セクシー中毒

連休の最中に高校の友達の結婚式がありました。大概僕が結婚式に行くと披露宴やら2次会やらの余興をやることになるのですが、どうも今回は2次会で別の大道芸人が来てショーをすることになっているとのこと。

僕「え、誰が来るの」
新郎「えっとね、セクシーDAVINCIって知ってるかな」

あ、思いっきり知ってる。正確には会ったことはないんだけど名前はよく耳にする。まさか友人の結婚式の2次会で初めてお目にかかることになるとは思ってもみませんでした。ちなみに僕の友人は芸人関係とかでは全くないのですが、新婦の方がUSJでダンサーをやっていた人らしく、その友人つながりということらしいです。まあなんというか、狭い世界ですねえ。

会ったことはなくても会場で一目見てああこの人だというのは瞬時に分かりました。なんか立ち居振る舞いにオーラがでてるもん。間違いなくセクシー。向こうも僕のことを知っていたらしく、お互い初対面ながら軽く「お噂はかねがね」的挨拶を交わし二次会に突入。

ショーは最高でしたね。屋外でやったのですが途中からかなり雨が降ってきて演者も観客もすぷ濡れ状態。でもそれがいっそう面白かった。素なのか作っているのかは分からないけどああいう愛されキャラはちょっとうらやましいですね。帰りに通った千里中央のショッピングモール「セルシー」が僕にはもはや「セクシー」にしか見えませんでした。重度のセクシー中毒(笑)。

楽しい二次会でした。お二方、どうぞお幸せに。

今日の一言
「新婦」と「神父」の発音が同じなのはさすがに紛らわしすぎる、といつも思う

丸めました

物心ついたときから母親と父親は別居状態という複雑な家庭に生まれ育った僕は正直父親には何の愛着もないのですが、その遺伝子は確実に引き継いだらしく、最近目に見えてサイド方向からのハゲが進行してきました。

正直髪の毛なんてなくてもいいやって思っているし、芸人は割とデフォルト「はげ」という人が多いので、僕もそのうち丸坊主にしようずっとタイミングを見計らっていたのですが、これがなかなか難しいのですよ。なんたって仕事柄、先生、職場の人、学生合わせれば週に100人以上と顔を合わせるわけで、そのたびにみんなに理由を説明することを考えるとすごく憂鬱。でも今日は久々の休日でこれを逃すとチャンスはないだろうってことで思い切って(と言っても2,3時間悩んだ挙句)散髪屋に行きました。

「髪型はどうなさいますか」
「丸坊主にしてもらっていいですか」

床屋、ちょっと意外な表情。

「え、学生さん?」
「いえ、社会人です。」

何で、このタイミングで学生かどうか確かめたのかは謎。

「本当にいいのね。」
「はい、お願いします。」

そのあとも2回くらい念を押されて、いよいよパリカンを頭に。

みるみるうちに髪の毛が刈られていく様子は以前テレビで見た羊毛刈り世界選手権の映像を彷彿とさせます。総じて2分足らず、あっけないほどあっさりと僕は自分の髪の毛に別れを告げました。もう元の髪型に戻ることはあるまい。そう思って鏡を見つめる僕の眼にはうっすらと光るものがあったとか、なかったとか。

さすがにこれだけ思いきり髪を剃ると鏡を見るたびに異生物がいるような気持ちになります。僕は後頭部がややでっぱているので横顔がどことなく正岡子規っぽい(笑)。でも見慣れてくると結構お気に入りです。こんなにすっきりするならもっと早くやっとけばよかったね。

ま、でもこの1週間はさんざん笑われるんだろうな。覚悟して乗り切ります。

今日の一言
頭の外でなく中で勝負してますから(負け惜しみ)

ノールック

バスケットやサッカーなどでノールックパスってあるでしょ。全く視線を動かしていないのにまるで見えているかのように味方にパスを出す。ドンピシャで決まるとむちゃくちゃかっこいいですよね。どうしてノールックパスはあんなにかっこいいかというと、多分それだけで自分の周りの状況をすべてコントロールできているような印象を与えることができるからなんだと思うのです。だからパスに限らず日常のいろいろな場面でノールックを実践していけばかっこいい度アップ間違いなしです。

というわけで最近僕がはまっているのはノールック切符取り。自動改札を通るとき目線は真っ直ぐ前を向いて歩き、手はさりげなく出てくる切符をとります。出来る限り滑らかな一連の動作で手の中に収めるのがポイント。

これを実践するのに最適の場所は新幹線の乗換え口。この場所ではよほど切符の取り忘れが多発するらしく必ず係りの人が何人か付いて「切符の取り忘れにご注意ください」と連呼しています。ここでノールック切符取りを実践してみてください。間違いなく係りのお姉さんが近寄ってきますね。

「お客様、切符をお忘れではありませんか。」

そこでおもむろに人差し指と中指に挟んでいる切符を掲げてこう言います。

「ご心配なく、取ってますから」

このときのかっこいい度はノールックパスのかっこいい度の約3倍、バーで注文していない飲み物が現れ「あちらのお客様からです」と言われた女性が感じるカッコいい度の約5倍と言われています。やばい、惚れられるかも。

ただし失敗すると相当かっこ悪い上に、混雑時だとみんなから白い目で見られるので注意してください。

今日の一言
ノールック原稿校正

ランキング依存

先日のNHKのクローズアップ現代で非常に興味深い特集をやっていました。近年、本を買う人の本を選び方が「売り上げランキング」に大きく左右されてしまうという内容。もちろんそもそも売れ行きがいいから売り上げランキングが上がるのですが、それがランキング上位の本の売り上げをさらに伸ばす結果になり、逆に売り上げランキングの低い本は泡沫のように瞬く間に書店から淘汰されてしまう。つまり地味だけど良質な作品はどんどん売れにくくなっているという現状があるということです。

自分の目で良いものを探す、そういう客がどんどん減っていることを本屋さんは嘆いているのですが、僕としては正直そのお客さんの方の気持ちに近いな。僕が足繁く通う阪急駅中の本屋さんにも入ってすぐのところにブックランキングのコーナーがあり、上位の本が平積みされているのですが、毎回真っ先にそこで本を探してしまうもんね。気がつけばどっぷり「ランキング依存」です。時間が無尽蔵にあるのならまだしも限られた時間でよい本に出会おうと思えば、やはり他人の評価に頼るのが一番確実な気がする。それは消費者心理として致し方がないことなんじゃないかな。

しかしそう言われて改めて考えてみると、僕らは本当にさまざまなものの判断基準にランキングを利用していますね。聞く音楽や見る映画なんかはもちろんのこと、家電製品から、進学先や就職先、キャバ嬢にいたるまで人生のあらゆる選択にランキングがついてこないことの方が珍しい。一億総「ランキング依存」の世の中。それだけ情報があふれているってことなんだけど。あまりにもランキングが乱立するので、きっとそのうちランキングのランキングまで登場するに違いないね。「信用できるランキングはこれだ」ランキングみたいな。

また時間ができたときにでも本屋の奥に進んでじっくり背表紙とにらめっこしてみるのも悪くはないかなってふと思いました。

今日の一言
ランキングには決して載らないコアな作品のランキングが欲しい

リセット

数時間かけてパソコンでやってきた作業が、予期せぬ事態によってすべて消えてなくなってしまうということは現代社会の3大悲劇の1つに数えられるようになりました。僕も何度かやらかしたことがありますが、このときの虚脱感ときたらもう、あしたのジョーのラストシーンみたいな格好で数分間固まってしまうことになります。このとき写真を撮ったらネガとポジが逆転した画像が映るな、きっと。

ところがその後気を取り直してもう一度同じ作業をやり直したとき、最終的にできたものは先のものより格段によくなっているってことが僕の経験上非常に多いのですね。特に創作的な作業ではこれは顕著です。

自分の組み上げてきたものが台無しになったとき、その作業をしていた自分のすべてが否定されたような気がしちゃうけど実はそうじゃないのですね。その作業をしている中で形には残らないけれども自分が身につけているもの、いわば経験値のようなものが確かにある。決して振り出しに戻ったわけではないのです。しかも手探りで進む最初の作業ではやり直すほどではないくらいの細かな誤りを繰り返しているもので、そういうものが2回目にはきちんと修正される。結果やり直したほうがよいものができるのは必然なのです。リセットという言葉に僕はすごくポジティブな響きを感じてしまいますね。

人はとかく自分の歩んできた道のりを過大にとらえてしまうものだと思う。だから経験や実績を積めば積むほどそれがすべておじゃんになってしまうことを恐れるようになるんだろうな。手放したくないものの重みでどんどん身動きがとれなくなっていく。そういうのって何か悲しい。僕の強みの一つはたぶん何かに固執することがないことです。今の仕事や境遇、人間関係に僕はすごく満足していますが、もしそういうものにしがみつこうとする自分を感じたときは、いつでもなんの躊躇もなくそれらをリセットできる人間でありたいなと思っています。

今日の一言
同じ映画でも2回目のほうがずっと面白い

死闘

日本陸上競技選手権、渋井、赤羽、福士が死闘を繰り広げた女子一万メートルの決勝。素晴らしい戦いでしたね。最初から最後までテレビの前に釘付けでした。

序盤から標準記録を大幅に上回るハイペース。洗面器に顔をつけて自分も苦しいぎりぎりの状況で誰が先に顔をあげるかという我慢比べをしている。そんな戦いでした。結局ラスト1周まで勝負は分かりませんでしたからね。一万メートル、つまり10kmという長い距離を走って最後の100mまで競り合ってるんですよ。信じられません。

特に前回のマラソンで一気にファンになった福士加代子。あの走っているときの表情をみると本当に涙が出てきます。最近も駅で走っていた女性のエピソードを書きましたが、基本的に僕は走っている女の人を見るのが好きなのかしら。まあ、走っているに限らず何かに全力で取り組んでいる女性をみるのが好きなんですよ。女性が女性であるという属性を捨てるという瞬間、それにドキッとする。いや、決してヌーブラヤッホーとかいうことではなく。

完全に話はそれますがトラックで一万メートルをやっている時、フィールドでは走り幅跳びの競技をやっていました。そちらも結構熱い戦いでテレビ中継はそれを交互に放送していたのですが、ふとせっかくならこれを融合させちゃったら面白いんじゃないかと考えました。名づけて一万メートル助走走り幅跳び。トラックの最後は走り幅跳びのレーンに入ってきて最終的にはジャンプ勝負になります。もちろんファールしても3回までトライできます。これぞ史上最も過酷な真のトラックアンドフィールド。

そのほかにもバーの高さが2メートルの障害走とか、砲丸を投げ渡すリレーとかトラック種目とフィールド種目の融合点はいろいろありそうですね。ちゃぶ台返しやマウスパッド投げの世界大会が開かれる世の中です。だれか本気でやってくれないでしょうか。

今日の一言
競歩の合理的な意味を僕に説明してください。

免許更新

先日の誕生日が免許更新期日だったということで、忙しいスケジュールをかいくぐって伏見にある運転免許センターに行ってきました。住民票を京都に移してから初めての免許更新、そこも当然初めていく場所だったのですが、まるで何度も来たことがある場所のような不思議な懐かしさを感じました。

車の免許センターであるにも関わらず交通から最も疎外されたような場所に位置し、最寄り駅からのバスは1時間に1本か2本程度。清潔感というよりむしろ生活感という言葉がぴったり来るような建物で、自動車運転試験場の表札がなければここが重要な役目を担った施設だなんて誰にも分かりません。建物の周りには商業的な施設は何もなく、ただバス待ちの時間をもて余した人のための喫茶店がぽつんと立っています。街中の喫茶店が「ゆとり」を切り売りしているとすれば、この喫茶店はむしろその「ゆとり」の中にどっぷりと漬け込まれている気がする。この周辺だけ時間がゆっくりと進んでいるじゃないかと錯覚させられます。

更新に来た人は4,50人はいたかな。一日にこれほどたくさんの人が免許を更新しているということにちょっと驚きました。平日なので暇な学生が多いのか、あるいはここであくせくしてもしょうがないとあきらめているのか、長い待ち時間にもかかわらず誰もが妙にのんびりしています。職員はいつもの手順を粛々とこなし、講師はおそらく何千回も繰り返してきたであろうフレーズを起伏のない口調で喋り、受講生もまるでありがたいお経のようにつつましく、半ばうわの空でそれを聞いています。

ふとこの奇妙な既視感は、この場の空気が昔の学校を思い出させるからなのかもしれないなって思いました。僕の通っていた田舎の小学校にはこういう面倒くささと綯い交ぜになった牧歌的な雰囲気が確かにあった。なんか心がほっとしますね。最近忙しかったから特に。

免許センターを離れ、最寄駅でバスを降りる。車がアスファルトをこするいつもの街の音に時計の針が急に動き始めたような気がしました。

今日の一言
心もちょっと更新

マジックアワー

先日二条にあるシネコンに久々に映画を見にいってきました。もちろん1人で。映画を見るのに一番ふさわしい人数は1人、その次が3人以上、2人というのが一番まずい選択肢ではないかと僕は思っています。だってそのあとの会話を思うと気が滅入るでしょ。つまらなかった場合はどうやったら映画の話題を避けることができるかに気を使うし、面白かったときはその面白かった理由をいちいち説明するのが面倒になる。そもそも僕が映画を誰かと見に行ってその後の感想が一致したことはほとんどないですし。

最初ポニョを見ようと思っていたのですが、余りの子供の多さに嫌気が差して、結局三谷さんのマジックアワーを見ることにしました。興行的なピークは越えている作品ですが、それでも映画館の席はそこそこ埋まっていましたし、上映中にも随所で笑いが起こるのはすごいなと感じます。

全部見て感じるのは「もったいない」。いや決して面白くないわけではないのです。すれ違いの設定を生かした言葉遊びとか、細かい伏線をうまく使い切る脚本はさすがなんだけど、中盤からラストにかけてテンポがグッと上がって欲しいところで失速した感じがします。周辺に魅力的な登場人物を配しながらそのキャラクターも十分に生かしきれていない気がするんだよね。「ラヂオの時間」が傑作なのはやはりあの後半の加速感にあるわけで、そういう意味でやはりあの映画を超えるものではなかったです、僕の中では。前半がよかっただけにもったいない。ただ1つ三谷脚本で好きなのはラストを決して完全なハッピーエンドにもパッドエンドにもしないところです。いろいろあったけど結局何一つ良くもなってはいないし、悪くなってもいない、言うならば「現状維持」で終わる。でもそこにほんの少しの希望を残す。そのあたりのさじ加減は素晴らしいなと思います。

ちなみに最近見た映画で最もお薦めは「キサラギ」。僕の好きなワンシチュエーションものということで期待していたのですが、期待以上でした。ここ近年の邦画では脚本の良さはピカイチの作品だと思います。見ていない人は是非。

今日の一言
映画のスポットは何故あんなに面白そうに見えるのだろう

悲しくなるすごろく

ですと言うところでどすと言ってしまった 1回休み!

待ち受けに見たことのないアイコンがある 1回休み!

正解を聞いたのに全然すっきりしない 1回休み!

相模を「すもう」と読んでしまう 1回休み!

トイレにいくタイミングを見失っている 1回休み!

ついタメ口 1回休み!

DVDのケースの開け方がさっぱり分からない 1回休み!

何気なくいった言葉が偶然駄洒落になった 1回休み!

「プールはいつでもあります!」とか言われる 1回休み!

乗っている電車が見覚えのない駅にとまっている 1回休み!

自分の彼女がディーのことをダーと言う 1回休み!

女子柔道の組み手争いがおっぱいの触りあいに見える 1回休み!

今日の一言
日記のネタが見当たりない 振り出しに戻る!

前向きな言葉

ポジティブシンキングというのが何かを知るには甲子園やオリンピックの試合の実況がこれ以上ないお手本になります。誰が見たってもう9分9厘勝ちはありえない、安西先生ですらあきらめるような状況でさえそれを口にすることは許されないんでしょうね。「まだ勝負は分かりませんよ」ってお前はこの状況でまだ前向きになれるかとある意味感心してしまいます。

まあ言ってる本人も内心ちょっと空々しいと思っているんだろうけどもね。大体実況というのは状況を2割くらいいい方に解釈して言うものだと思えば、見ている人はそれを2割5分くらい差し引いて見ればちょうどよくなります。「まずまず」と言ったときは「ちょっと悪い」、「よく頑張っています」といったときは「敗戦濃厚」、「かなり厳しい状況」と言ったときは「無理」の意味。関係ないですがマクドナルドで「5分ほどかかります」と言われた場合は10分近くかかると見た方がいいですし、自分の芸を見た客が「私好きですよ」って言ったときは、ほぼダメだしをされていると考えて間違いありません。

ここ最近のスポーツ中継で学んだのはこの言葉。

自分の試合をさせてもらえなかった

うん、これは使えるね。負けてるくせにちょっとカッコいいぞ。勝った相手の方が何か申し訳ない気になりますから。

締め切りに遅れそうになったら

「あまりに忙しくて、自分の仕事をさせてもらえなかった」

授業で書き間違いが連発したときは

「雰囲気にのまれて、自分の授業をさせてもらえなかった。」

逃げててもボジティブです。

今日の一言
カラオケで「味のある声」は「音痴」の意味です

100パーセント社会

AmazonでDVD一枚を注文すると, ビックリするほど大きなダンボールに包まれてやってきますよね。DVDのディスクが割れ物というのは理解できますが、どう考えても限度を超えてる気がします。

そもそもDVDディスクが傷つかないようにするために頑丈なプラスチックケースがあるんですよ。さらにそのケースが傷つかないように薄い透明なラップがしてあるわけ。この時点でもう十分でしょ。そのまま封筒にいれて発送しても問題ないレベル、実際店頭でDVDを買った場合はそれをビニル袋かカバンの中に入れて家に持ち帰るわけだからね。しかしその状態のものをさらにプチプチでぐるぐるに包み、ボール紙の中央にテープで固定し、仕上げに大きなダンボールに入れる。この五重六重の警護体制。たかだかDVD一枚に国宝級の瀬戸物扱いですよ。そこまでするメリットは誰にあるのかしら。それをいちいち開封するのも手間なら、出るゴミを捨てるのも一苦労。資源の無駄だし、送る側のコストも馬鹿にならないでしょうに。

こういうのって僕は100パーセント社会の弊害だと思うのです。あらゆるクレームに対応するため万一の事態まで想定し、それでも傷1つつかないようにする、その結果がこれでしょ。でもほとんどの人が考える「十分」はそれよりずっと手前にあるのです。完璧を要求する一握りの声が大多数の人の利便性を損ねている。そういうことは世の中にたくさんあるような気がするのですね。消費期限とかだってまさにそう。100%安全と言い切れる時点に線を引こうとする余り本来はなんの問題もなく食べられるものまでがどんどん廃棄されてるわけですからね。本当の公益性を考えるなら、自己判断、自己責任の余地を20%くらいは残す、それを許容できる社会が必要なんでしょうね。

やや話はそれますが、模試やテキストの数学の問題文を作っているときにも同じようなことを感じることがあります。数学の問題文というのは基本的に読み間違いや解釈の違いが起こらないようなものでなければならないというのは当然ですが、例えば

「1から10までの数字が書かれた10枚のカードがあり、、、」

という文章を書いたとしますよね。意味は分かるでしょ。UNOみたいに各カードに数字が1個ずつ書かれたものを誰もが思い浮かべるはずです。ところがこの書き方では誤解を生じると主張する人もいます。1から10までの数が1枚に書かれているビンゴゲームのシートのようなカードが10枚あるという読み方も出来なくはないと。このような誤解を生じさせないようにするため

「10枚のカードがあり, k枚目のカードにはkの数字が書かれている(k=1,2,…10)」

のような回りくどい書き方をすることになります。でも誰がどう考えたって最初の方が読みやすいのです。厳密性を追求する余り、可読性が損なわれるってのはなんか本末転倒。仮にそのようなひねくれた読みかたが出来たとしても、そう解釈したら問題として成立しないことは前後の文脈から分かるんですよね。大学の教科書なんてもっといい加減な記述はいくらでもありますが、これが問題として成立するためにはこういう風に解釈するしかないなというのはおのずと察せられるようになる。そういうのも含めて数学力だと僕は思うのですけどね。

80パーセントの社会。それくらいが実は一番ちょうどいい。

今日の一言
♪そうさ80パーセント勇気、のこりは自己責任

すっきりさせて!

サザエさん一家が実写で出てくるCMがあるってことで、ついでだから他のキャスティングも考えようみたいな会話をしておりました。サザエはこの人、マスオさんはこの人だね、うん、あるある、って感じで。でまあ関西人としてはこの話の落としどころを探るわけ。ある程度頭の中で流れを組み立てて、

「フネはもう菅井きんくらいになっているでしょ。」

「あ、分かる分かる(小笑)」

「で波平はね、、」

とここで落とそうと狙ったわけです。フネ前振りの波平オチ。ところが瞬時に名前が出てこない。顔とか喋り方とか鮮明に頭に浮かんでるんですよ。それが出てこないこのもどかしさ。

「ほら、あれ、あの人、、」

「誰?」

「ほら、よくドラマとか出てる、、」

もう最悪です。瞬時に出なかった時点でアウトなのですが。

そのとき僕の頭の中には何故か「水谷豊」が入ってきてしまっていたのです。いや違う違う、水木、、、古谷、、、水口、、谷本、、、ダメだ、

水と谷から離れられない。

恐るべし、水谷豊の吸引力。

気が付けばもう話題は別のところに移ってました。

そのままどうしても思い出せず、ずっと心に引っかかっていたので後でインターネットで調べました。

泉谷しげる

それーーー!!!。

微妙にかすってたのね。一番たち悪いパターン。

これが最近やたら多いのです。今日も「綾瀬はるか」がずっと思い出せず一日苦悶してました。ちなみに邪魔をしたのは何故か「伊調かおり」です。

こういうのって出そうで出ないくしゃみのむずむず感と全く同じですね。もしここでパッと出てきたら絶対にすっきりするはず、ってのものすごく分かってるから余計イライラします。この状況、逆手に取ればすごいビジネスチャンスかも。思いだせそうで思い出せない絶妙のラインを付く質問をあえてするのです。むずむずしている人に100円で最初の1文字を教えてあげよっかっていったら払うんじゃないかな。僕は払います。

今日の一言
「ほら、あのジブリアニメでさ、猫の伯爵とか出てくるやつのタイトルなんだっけ、、」

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