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タイピングバイリンガル

1年くらい前にかなり思い切った試みを始めてみました。それは僕がこの文章を書いている今この瞬間にも大いに関係があります。実は日本語タイピングをパソコンを使い始めて以来今までずっと使っていた「ローマ字打ち」から「かな打ち」に変えてみたのです。「ローマ字打ち」のときはブラインドタッチは人並み以上に速い自信があったのですが、それを「かな打ち」に変えるというのは、達筆の人が鉛筆を利き手と反対の手に持ち替えて書くことを決心したようなもの。それはもうものすごいギャップです。

こんなことを始めようと思い立った動機はかな打ちだとタイピングの量が単純計算で半分になり、タイピング速度が格段に向上するからという実利的な理由、、ももちろんあるのですが、単に人がやっていないような目新しいことを始めてみたかっただけというのがホントのところかも。英語と日本語を喋れるバイリンガルは別に珍しくないけど、ローマ字打ちとかな打ちを同時に使いこなせる「タイピングバイリンガル」なんてそんなにいないでしょ(役に立たないし)。こんなばかばかしい動機で、下手をすれば作業効率を著しく低下させかねないことをやろうと思ってしまう、そんな自分がちょっと好き。

いや、しかしこの試みは結果的には予想以上に面白いものでした。ブラインドタッチが完全に身についてしまうと、文字を打つとき手をどう動かすかなんてほとんど考えてないでしょ。ある文字を打とうと思った意思が次の瞬間には画面上に文字を表示させている気分。その間にある手の動きは完全に無意識の動作になるんです。しかしタイピングの初期においては、ある文字を打とうとした後、キーの配置を頭に描き、どの指を動かそうかと考えるステップは必ずあります。ということはこの「意識的な動作」が「無意識の動作」に変わる端境期がタイピング習得のある段階にきっとあるはずなんです。これってすごく興味深い。

その境界が見え始めたのは練習を始めて半年くらいたったころだと思うのですが、「指を意識的に動かそうとしている自分」をふと忘れてしまう瞬間が訪れはじめます。自分の意識より一歩先に体が動いているような感覚。面白いのは無意識の自分がキーを叩いているときの方がタイピングの速度も正確さも格段に上なのです。僕は最初のころ何故か「さ」と「そ」のタイプをいつも間違えていて、この文字が来ると「どっちだ」と思わず身構えてしまっていたのですが、少しでも頭で考えようとすると必ず間違ったほうを選んでしまうのです。むしろ何も考えず打ったほうが正確。これは本当に不思議です。この頃から頭を空っぽにして、言わば「無意識に身をゆだねる」練習を始めました。タイピングをしながらわざと別のことを考えたり、音楽やラジオを聴いたり。このステップを越えた辺りからタイピングの速度は飛躍的に向上し始めました。

これって英語のヒアリングとも似てますね。始めのうちは単語の日本語訳や文構造を必死に聞こえてくる音に対応させながら言葉を聞き取るのですが、繰り返し繰り返し英語を聞いているとある段階でそのステップがそっくり抜けて英語が直接頭に届く感じを覚えます。まさに無意識のタイピングと同じ状態です。これは実は語学習得の大きなステップなわけで、ある程度英単語や英語の構文が頭に入った時点で、それらを一旦忘れ、無意識に英語の中に身をおくってことが大切になるのです。思うに日本の高校までの語学教育っていうのは英語を頭で「考える」トレーニングは一生懸命するんだけど、「考えない」トレーニングって全くしないのですね。例えば英語の力はある程度あるのに長文を読むのに時間がかかってしまうという生徒には、とりあえず今まで読んだことのある英文を頭で日本語訳をすることなくひたすら目から頭に流し込むというトレーニングが非常に有効です。

「考えるな、感じろ」というブルスリーの言葉はタイピングや語学学習にこそ有効な至言です。

今日の一言
「無意識」は意識化できる技術である

目と耳

電車の中ではよくiPodの音楽やラジオなんかを聴いているのだけど、最近ヘッドホンをインナーイヤー式のものに変えてみました。耳栓みたいな形をしたやつ。前から気になってはいたのだけど東京ハンズでたまたま見つけたので早速購入。使ってみてちょっとした衝撃を受けました。今までは電車のアナウンスや走行音がかぶさると曲が聞こえにくくなってたのに、そういう雑音が全く気にならない。むしろいままでより小さな音量ですごくクリアに聞こえるのです。これを使いはじめると今までのイヤホンはいったいなんだったのだという気になります。

ところが一方で余りに周囲の音が聞こえないために不便を感じることもしばしば起こります。電車が駅についても気付かずに乗り過ごしそうになったり、駅員に話しかけられても素無視をしてしまったりすることがあるのね。電車の中であればまだいいのですが、これが道を歩いているときになるとちょっと怖いですね。赤信号に気付かずに道を渡ろうとする、突然目の前に現れた自転車にどきっとさせられる、などなど。さすがに身の危険を感じるので、繁華街で歩くときは音を小さくするかイヤホンをはずすようにしました。耳からの情報が遮断されることって人をこれほどまでに不安にさせるものなんですね。ちょっと意外な発見でした。

目から入ってくる情報と耳から入ってくる情報を比べたとき、どう考えても目からの情報量が圧倒的に多いような気がしてしまうでしょ。「百聞は一見に如かず」なんて言葉もあるようにね。でも実際はそれは嘘なんじゃないだろうか。こんな風に道を何気なく歩いているときでさえ、車のエンジン音、人の話し声、自転車のブレーキ音などなど色々な音が知らず知らず耳に入ってきていて、人間はそういう耳からの情報を無意識のうちに判断材料にしながら次の一歩をどこに踏み出すかを決めているかもしれないのです。生活の上で聴覚って視覚に劣らず必要不可欠なものなんですね。

にもかかわらず聴覚が視覚に比べて重要度が低くみなされる理由はなんだろうかと考えてみてふと思ったのは、聴覚はそれを失ったときの状態を僕らが体験することがあまりないからではないだろうかなと。目がなくなったらどうなるか、それを実感するのは単に目を瞑って何歩か歩いて見ればいい。でも外界の音から完全に遮断された状態を実感することは人間の構造上できないでしょ。耳は寝てるときですらつねに外界に対して開かれていて、意図的に閉じることはできないですからね。今回の例のようにヘッドホンで音楽を聴いたり、あるいは原始的に耳に手を当てて「あー」って言えば外界の音は遮られるけれども、それとて音を音で打ち消しているだけの話で、無音の状態を作っているわけではありません。視覚は奪われる恐怖を身をもって感じてるけど、聴覚はその恐怖をそれほどに感じないわけです。だからその大切さが見えなくなってしまう。

いろいろなことに通じているように思える示唆的な話ですね。

今日の一言
空気の大切さは水に潜ってみないと分からない

因果関係

Aという行為によってBという現象が引き起こされるとき、AとBには因果関係があるといいます。Aが「因」でBが「果」。例えば太鼓をたたくと音がする、蛇口をひねると水が出るなんていうのはすべて因果関係ですね。

上の例では「因」と「果」が物理的に直接結びつくのでその関係を認識するのは簡単なのですが、では「リモコンのスイッチを押すとテレビの電源が入る」のような物理的なつながりが目に見えないものの因果関係を僕たちはどうやって認識するのでしょう。映画「ニューヨークの恋人」で過去からやってきた貴族出身の男が、現代人の部屋に一人残され、リモコンのスイッチを押すと突然ステレオから大音量の音楽が流れ始めて驚くというシーンがあります。しかし彼は数日でそのような機器を違和感なく使いこなせるようになるのです。実際我々が新しい電化製品の使い方を覚えていく過程もこんなものかもしれません。因果関係の認識には物理的なつながり以外にいくつかの法則があるように思えます。

1.時間的、空間的に近い因果関係は認識されやすい。

つまりある動作をした「直後」に「近い距離」で起こった出来事に対して我々は因果関係を認識してしまうのだということ。例えば何かのボタンを押した直後に近くの電灯が点いたらその2つの出来事の間に関係を見出すのは自然です。

2.合理性があるほど因果関係は認識されやすい

「ハンドルを右に回すと車が右に曲がる」「たくさん食べると太る」というような関係が認識しやすいのはその合理性によるところが大きいように思います。これが例えば「レバーを押すと車が右に曲がる」だったり、「食べれば食べるほどやせる」という因果関係ならその認識はずっと難しくなるはずです。

ひとつ非常に面白いのは上の1と2の法則を見比べたとき、より直観的な1の方が2よりも人の認識に与える影響が強いように思えることです。直観が理性的な判断を超えてしまうのですね。こういうところには必ず面白いエンタテイメントの種があります。昔のドリフのコントであったように、タンスの引き出しをばたんと閉めると、上の引き出しがばたんと開く、それを閉めると向こうの扉が開く、という一連の現象が続けざまに起こると、そこにあるはずのない因果関係を見てしまうでしょ。他にも僕が自分の芸の中でよく使っているように効果音にあわせて体の動きをつけると、その動作が音を鳴らした原因であるかのように錯覚してしまいます。そこに不思議な面白さ、笑いが生まれるのです。

今年の夏、予備校のイベントで「エンタテイメントの論理」という講演会(公演会?)をやってなかなか好評でした。「感性」では一流に到底及ばない僕はなんとか「論理」を武器にパフォーマンスを組み立てようとしています。それは日常にあるこのような面白さの種を摘み取り、分析し、自分なりの方法で発芽させていく作業です。

今日の一言
ドリフのコントは改めてみると意外とレベルが高い

天地無用

昨日新幹線に乗ったとき

C: 通路側 Aisle   D: 窓側 Window

と書いてあるプレートにふと目がとまりました。文字を使った面白い仕掛けをあれこれ考えてたときだったので、この「window」という文字を見てある発見をしてしまいました。この単語の中に登場するアルファベットにはすべてある共通性があります。それは何かというと、

ひっくり返してもアルファベットとして認識できる

のです。windowをひっくり返して読むと

mopuim

と読めるでしょ。もし「mopuim」という英単語が実際にあったら面白いのですが、英和辞典で調べてみても残念ながらそういう単語はありませんでした。まあ、そううまくはいかないか。しかし転んでもただで起きるのはもったいない。当然ここで考えるのはひっくり返したときにもきちんと意味のある単語になるようなものは存在しないだろうかってことです。キーボードを眺めながらひっくり返してもアルファベットになるようなものをすべて列挙してみました。

bq dp mw nu o i l s

並べと分類してみるとひっくり返したとき他のアルファベットになるものと自分自身に戻るものがあって、数としては思ったよりも少ない。あとはこれらを並べてできる単語を探すのですが、結局あれこれ試してもうまくいかずこのアイデアはこの時点で頓挫してしまいました。

夜に家に帰ってきたのですが、ネットニュースを見てビックリしてしまいました。なんと僕がついさっきまで探し求めていた答えに関係する記事があったのです。

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ipodに新発見 感心の声挙がる “!”をつけると…
2007/8/25 11:53

「ipod!」という言葉を逆にして読んでも「ipod!」となることが発覚したことが話題となっている。
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iPod! !!!!!

実にタイムリーで美しい答え。僕が考えていたことと同じことを考えた人がいて、その解答にちょうどその日に出会うという絶妙のタイミングに心が震えるのと同時にかなり悔しい気持ちになりましたね。こんなシンプルな答えをどうして僕は見つけられなかったのだろう。しかも帰りはずっとiPodで曲聴いてたのになー。まあ、見つけてたら見つけてたでもっと悔しかったに違いないけど。

ひらめきの神様って求めている人のところには降りてこないのです。皮肉にも。

今日の一言
「いろはうた」を考えたのはほんとに神様なんじゃないだろうかって時々思う

ショートカット

もう夜も遅いし、明日は授業があるし、そろそろ寝ないとダメなのは分かってるんだけど、どうしてもやめる区切りが付かなくていつまでもだらだらパソコンで遊んでいるときってありますよね。思うにその原因はパソコン(Windows)のシャットダウンの操作方法にあると思うのです。これでもう終わりにしようとするとき、左下にある「スタート」ボタンを押さないといけないでしょ。終わりたいのに「スタート」を押さなければならないこの矛盾。あの数々の誘惑に満ち溢れたパネルがビューンって飛び出してきてめくるめく夢の世界に再び僕をいざなおうとするのですよ。それを見た瞬間、パソコンを終了しようとしていた事など忘れてしまって、また何かを始めようとしてしまう自分がいるのですね。恐怖の無限スパイラル。ぷよぷよの対戦をしていて頭はもうやめたいと思っているにも関わらず勝負がつくとついつい親指がAボタンを連打してしまうあの感覚と同じです。

そういうときにきっぱりとパソコンを断ち切る簡単で便利な方法があります。あっ、ちなみに今この文章を読みながら試すのは絶対やめてください。これはパソコンをシャットダウンするショートカットですから。

たった3回キーを叩くだけ (同時ではないですよ!)。キーボードの左下あたりにあるウィンドウズのロゴマークを押した後、Uのキーを2回連続で叩きます。

20070903.gif

未練を残さないために画面を見ないでキーボードだけを見ながら一息に押すのがポイント。リズムでいうと「タン、タタン」。これでオシマイ。パソコンが終了動作に入ったのを見届けたら、モニターの電源を切ってゴートゥーベッド! スリープする子はグロウアップです。

すごく便利なので一度覚えてしまうと癖になるはず。知らなかった人は是非今見ているパソコンを消すときに使ってみてください。

今日の一言
ショートカットと聞いて「髪形」を連想しなくなったのはいつからだろう

野球とサッカーの違い

サッカーと野球というゲームの性質を比べたとき面白い相違点を1つ見つけました。通常のゲームにおいては当然「相手に勝つこと」が至上命題ですが、ここでこの大前提を覆してみます。双方のチームがなりふり構わず「相手に負けること」だけを目的として戦ったらどうなるのか。

サッカーの場合は負けるためには自陣のゴールにボールを1点でも多く叩き込めばいいわけですから、オフェンスは自陣のゴールに向けて突き進み始めます。敵は当然それを阻止しようする。つまりディフェンダーはいっせいに相手のゴール前を固め守り始めます。要は攻守がそっくり入れ替わった通常の(?)サッカーが始まることになるのです。もちろんオフサイドがないとか、キーパーがゴール前でボールを手に持ってラグビーみたいに突進することになるとか、想像してみるとかなり滑稽な図ではありますがとりあえずもゲームとしては成立します。

一方でこれが野球となると難しい。まず相手がボールを打とうとしない限りランナーを塁に進めることができないでしょ。こうなったら意図的なデッドボールですが、打者は自分に向かって飛んでくるボールを懸命によけつつ、三振を取られるためにバットを振るはず。これはすでに野球とは違うスポーツになっていますね。塁に出たとしてもベースを踏み忘れたり、守備妨害をしたりとランナーがアウトになる方法はいくらでもあるはず(よく知らないけど)。要するに野球というのは得点を取る意志を持っていない相手に得点を与えることが原理上不可能なゲームなのです。

この「負けるが勝ち」ルール。世の中にある色々なゲームで適用できるか否かを調べてみるとなかなか面白いかもしれない。例えば将棋や囲碁ならどうなんだろう。

ちなみにこんなことをふと考えたきっかけは今やっているプロ野球のクライマックスシリーズ。3連敗でリーグ優勝の雰囲気はすっかり吹っ飛び敗者のような悲壮感が漂う巨人と連勝で波に乗り日本シリーズに突き進んだ中日を比べれば果たしてこのルールで得をしたのはどっちなのかって誰もが考えるわけ。勝率とか経済効果とかいろいろな試算の結果、リーグ優勝を敢えて逃して2位になったほうが有利であるという判断を各球団がしたとしたら果たして頂上決戦はどんな戦いになるのか。それはそれで戦略を考えるのは面白いかもしれないけど。

今日の一言
「試合に負けて勝負に勝った」の意味が未だに分かりません

深夜の映画

深夜に何気なく見た映画が一生忘れられないものになることがあります。おなかを抱えて笑うとか感動して涙を流すとかいうのとは少し違うな。それがどんなストーリーだったのか皆目覚えていないのにあるワンシーンが頭の中に切り取られて、その印象がずっと頭から離れないような感じ。夜の時間帯、心がふっと無防備になる瞬間に受けた刺激って心の普段使わないような場所に焼きついてる気がする。

先日ビジネスホテルに泊まったとき、そこで見た映画がまさにそんな感じでした。ああいうとこの専用チャンネルってほとんどがアダルトなんですが、必ず1つは一般の映画チャンネルがあるのです。夜中に1人で「ハリーポッター」を見ようとするビジネスマンがどれほどいるかは分かりませんが、「有料テレビ視聴料」なんていう恥ずかしい費用がうっかり領収書に刻印されてしまい、後日経理の女の子から追及を受けたときの口実作りにはどうしても必要なチャンネルなのです。「いや、どうしても見たい映画があってね、はは」とか。実際僕が1000円も払ってプリペイドカードを買ったのも決して映画を見る目的ではなかったのですが、まあそれは置いておいて。

単なる気まぐれであわせた映画チャンネルでちょうど始まった映画のタイトルが

「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」

タイトル長すぎじゃね。何故にフルネーム? いろいろ突っ込みながらもなんとなく見始めることに。物語に大きな起伏があるわけでもなく、胸を打つ台詞があるわけでもない、まして出演者はほとんど男なのでお楽しみシーンなど期待できるはずもない。僕自身も別の作業をしながら横目でちらちらとストーリーを追っていただけなのですが、不思議とチャンネルを変えられなくなって最後まで見てしまいました。そのときはあまり何も感じなかったけど、何日も後になってフラッシュバックみたくいろいろなシーンが胸に迫ってくるのです。いまさらながら、あ、あれっていい映画だったなって。

内容についての感想はまたの機会に改めて書きたいと思うのですが、一つだけ。この映画、誰を正義とも悪とも描いていないのですよ。全員がいい人のようであり、どこか異常でもある。そういう二面性を社会は全否定しようとするでしょ。でも僕だってブログじゃ耳あたりのいい文章を並べながら、所詮は深夜にこっそり有料チャンネル見ようとしてるような人間なわけだ。そういうみっともない人間の姿をこの映画はきちんと描写した上でそれこそが人間なんだろって最後の最後で肯定してくれてる。それにすごく救われた気になるのね。そうか、見ていいのか、アダルト! (それは違う)。

映画にそれが見られるに最もふさわしい場所があるんだとすれば、この映画はまさに深夜のビジネスホテルで見るための映画です。

今日の一言
有料チャンネルこそ人間の二面性そのものじゃないか

続・深夜の映画

「深夜の映画」で触れた「メルキアデス・エストラーダの三度の埋葬」についてもう少し。

実はこの映画の内容は前回のエントリーで書いた話と少しつながるところがあります。この映画のテーマはまさに罪を贖うということ、そして罪を許すということはどういうことなのかです。言うなれば、さだまさしの「償い」のハリウッドリメイク版だな(ちょっと違うか)。

舞台はテキサス州、アメリカとメキシコの国境付近。タイトルに登場するメルキアデスという男はメキシコからアメリカにきた不法入国者なんだけど、彼の心の暖かさに惹かれたアメリカ人のピートは彼と深い友情で結ばれる仲となります。あるとき国境警備隊のマイクという男がこのメルキアデスを誤って射殺してしまいます。それを知ったピートはマイクを拉致。死んだら故郷に埋葬して欲しいという生前の彼との約束を果たすためにメルキアデスの遺体とマイクを連れて、メキシコへ向けて国境を越えて旅をするという物語です。

このマイクというのがまた偉そうで、でも臆病者で、仕事しながらエロ本読んでいるようなどうしようもない男なんです。そして自分の過ちを絶対に認めようとはしない。職務上、不法入国者は殺されても仕方がないという気持ちももちろんあるのでしょう。一方のピートは非常に義理堅い男、というのは分かるのですがその行動も若干常軌を逸していますね。いくら友情のためとは言えそこまでするかと。

しかし長い旅の中で二人の関係は少しずつ変わっていく。さまざまな印象的なエピソードがあるんだけど、結局最後の最後、メルキアデスを埋葬した墓の前でマイクが泣きながら心から謝罪をし、ピートがすべてを許すんだ。なんの条件もつけず、なんら代償を要求することもなく。スパっと。それがすごく気持ちいい。その瞬間にどちらの人間も大好きになっちゃうのよ。素晴らしいラストシーンです。追及、追及で人の非を論ってばかりの社会に圧倒的に不足してるのはこういう無償の許しなんじゃないかって思うのね。

主演はあのトミーリージョーンズ。後でネットで調べるまで全く気づかなかったんだけど。深みのある演技もさることながら、これが彼の初監督作品というのだから恐れ入ります。ただの缶コーヒー好きの宇宙人だと思っていたけどそうじゃなかったんだね。感服いたしました。

今日の一言
この惑星の住人には「許し」が足りない

初入院

先週末の深夜、突然の違和感に目が覚めました。ん、なんだろう、この慣れない感覚。頭が痛いようでもあり、でもそれとも少し違う。急にこみ上げてくるものがあってそれが吐き気だということにようやく気づきました。考えてみれば、お酒を飲んだり、乗り物酔いしたとき以外で吐き気を感じることなんて子供の頃以来なかったからなあ。唐突にやってくる吐き気の前兆は漠然とした恐怖感にも似ている。

何か悪いものを食べたのかなあ、って思ったんだけどお腹が痛いわけではないのね。その後、30分おきくらいで吐き気がやってきて、朝の4時くらいにこれはどうやら普通ではないなってことで、タクシーを呼んで深夜の病院に。点滴うってもらって、時間も時間なのでそのまま入院になりました。人生初点滴、初入院。

翌朝、採血したりレントゲン取ったりして、いよいよお医者さんの診断。ひょっとしたら変な病気なのかなとドキドキしていたのですが、お医者さんの口から出た言葉は

「体には何の問題もありません。血もきれいなものですし」

え、じゃあ原因は何?

「多分ストレスから来たものではないですかね」

ストレス? ちょっとビックリ。人の言うことをムーディー勝山より鮮やかに右から左に受け流し自由気ままに生きてる僕はストレスなんて言葉からは最も縁遠い存在だと思っていたからね。タンスの裏の埃みたいに知らず知らずにたまってるものなのかな。原因はやっぱあれですか。締め切りとか、締め切りとか。あっ、自業自得だ。

いずれにせよ、その日の昼にはもう普通の状態に回復して退院となったので心配ご無用です。

話はすこし変わりますが、病院の狭いベッドに横になりながら退屈を持て余しているときに、ちょっと面白いものを見つけました。ベッドの脇にぶら下がっているWiiリモコンみたいなのに大きなボタンがついてる装置。これなんだろうって思って見たボタンに描いていたのが下のイラストです。

20071220_01.gif

なんだこのファンキーな赤ん坊は! って一瞬思ったのですよ。全く用途が分からない。でもしばらく見てて自分がとんでもない勘違いをしていることに気づきました。





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なるほどね、何かあったときに看護婦を呼び出すためのボタンだったのね。

うれしくなって早速手帳を取り出してイラストをメモしながら、ちょっと苦笑。うーん、こんな状況ですらなんか面白いものはないかって周りを観察してしまうってのはパフォーマーの悲しい性だよなあ。

今日の一言
人生経験値がちょっと上がった

パズル思考

京大奇術研究会、そしてジャグリングドーナツと共通の後輩であり、現在副業としてパズル作家をしているLixy君と年始に飲んだときに自作のパズルをもらいました。この作品は「かくれんぼパズル」という名前で市販されています。普通の箱詰めパズルのようですが、ピースを使って下のシートに描かれている動物を隠さないといけないという点がユニークです。

画像はこちら。
http://torito.jp/shopping/_hide-the-animals.shtml

ふと思い出してやってみたのですが、最後の問題(10番)を解いたときなるほどとうなってしまいました。これは素晴らしい。

正直最初にこのパズルのアイデアを聞いたとき、さほどパズルとしての面白さを感じなかったのですよ。自由度が多すぎて、論理的な思考の入る余地が少ない。できたとしても数ある組合せの一つが偶然一致したに過ぎないし、ジグソーパズルと変わらないじゃんと。

でも10番目の問題を解いてみて、彼がこの問題のためだけにこのパズルを作ったと言っていた気持ちがよく分かりました。そう、これなのよ、これ。もし僕がこのアイデアでパズルを設計するとしたら、絶対こういう答えにします。パズルを愛するものが共有しているある種独特な思考回路、認識みたいなものがあって、よいパズルというのは解けた瞬間にパズルをするものと作るものがその部分で深く共感できるんですよ。これがパズルを解く楽しみであり、作る楽しみでもある。

残念なのはこのパズル、1番から9番があるおかげでほとんどの人がこのカタルシスまで到達することなく、解くことをあきらめるんじゃないかってことですね。伏線が長すぎて飽きてしまう推理小説のように。どう考えても10番の問題だけにするのがこのパズルの最も美しい形なのです。しかし商品化しようとなるとそうはいかないんだろうな。もったいない。多分これは作者が一番思っていることだろうけどね。

是非みなさんも買って、作者の思惑を感じてみてください。

今日の一言
「よいもの」と「売れるもの」は違う

マニアックすぎて伝わらない例え

という漢字をみるとエボナイト棒を近づけた箔検電器を思い出す。

へーぃ。

今日の一言
理科系限定ネタ

相対

「春から新聞の文字が大きくなります」

というポスターが駅に貼られていました。どのくらい大きくなるのかという比較対象として従来の文字のサイズ、新しい文字のサイズが右左に並べられています。といってももちろん実物大の文字を並べたのでは遠くからは小さすぎて見えないので、どちらも実際の文字のサイズから同じ倍率で拡大されているのです。面白かったのはその下に言い訳のように

「このポスターの文字のサイズは実際の文字の大きさとは異なります」

と書かれていたこと。うん、大丈夫、それは言われなくても分かる(笑)。こんな握りこぶし近くもある大きさの文字が実際の新聞に書かれていると思う人はいないだろう。昔のポケベル並の情報伝達量かと。

ふと気づいたのは人が何かを評価するとき、その判断基準を絶対的なものより、相対的なものに頼っていること、あるいは頼らざるをえないことは意外に多いのではないかなということ。このポスターに実物大の文字が一つ書かれていたほうが情報としては正確かもしれませんが、遠くから見ることを意図して作られるポスターの場合はそれは逆に全く意味を持たなくなってしまいます。実際の大きさとは違っても、つまり情報としての正確さを犠牲にしても比較できる2つの文字を書くほうが目的に適っているのです。

いつも思うことなのですが「テレビの画質のよさを主張するテレビコマーシャル」にも同じところがありますよね。どんなに画質のよい映像を映してみたところで、消費者はそれを自分の家庭のテレビ画面を通してみるのですから、原理的にそのテレビの画質以上にきれいに映せるはずがないのです。このコマーシャルの持つ大きなジレンマ。でも不思議に「きれいな画面だな」と錯覚させられてしまうのはそのようなコマーシャルでは必ず画質の良くないほうの映像も同時に映して、それと比較させる演出をしているからです。これも人間の判断が相対に頼っていること、そしてそれをうまく利用していることの一つの例です。

この手法はパフォーマンス構成にもつながってきます。客にインパクトを残したい難易度の高い技があったとして、それを全体のルーティーンの中で効果的に見せようと思うなら、その「相対」となるものをまず用意する。これは一つのセオリーであると僕は考えています。ディアポロを20m投げ上げることができるならそれをいきなり見せるのではなく、その前にまず5m投げ上げて見せておく。3回転ピルエットが見せたいのなら、その前にまず1回転ピルエットを見せておく。そのほうが間違いなく客の反応は良くなります。客にとっての判断基準を作る、それだけで同じ技の印象が全く違って見えるのです。不思議なものですね。

今日の一言
合コンには自分より不細工な男をそろえるのがセオリーです

不便の合理性

毎週利用する駅の前には小さなロータリーがあり、そのロータリーの中は公園のようになっています。校舎に向かうのにはロータリーを廻るよりも中央の公園を突っ切っていく方が近道なのでいつもそうしているのですが、その公園の出入り口が非常に"通りにくい"構造になっているのです。

アーチ状の金具が幾重にも配置されているためまっすぐ進むことができず、歩行者が出入りするときは教習所のS字クランクみたいな進み方をしないといけません。まるで人間イライラ棒。車や自転車が中に入れないようにするためというのは分かるのですが、何もここまで厳重にする必要はなかろうにと通るたびにいつも不便を感じていました。

今日は小雨もぱらつく天候で、また少し慌てていたこともあり、かなり駆け足で駅に向かっていました。いつもどおりその出入り口を通り抜けようと歩みを緩めたその瞬間、前の道を車がさっと通り抜けていく。そのときなるほどと気づいたわけです。この金具は車の進入を防ぐためだけのものではない、実はこのように歩行者の歩みを止めること自体に大きな目的があるのではないかと。

考えてみればこの公園の一歩外側は車が頻繁に往来するロータリー。公園で遊んでいた子供が車道に飛び出す可能性は十分に考えられます。しかしどんなに急いでいてもここを通り抜けるときにはどうしてもスピードを落とし、一旦立ち止まらないといけない。一見すると不便な構造は実は事故防止に大いに貢献していたわけなのです。

事故を防ぐため保温ポットのお湯はワンタッチでは出せないように工夫されているそうです。またテロ対策のためにテレビ局の廊下はあえて迷路のように場所が分かりにくく作られているという話も聞いたことがあります。利便性を追求することだけが合理化ではない。我々の身の回りにある一見不便なことが実は理に適っていることは意外に多いのかもしれませんね。

今日の一言
東京駅の分かりにくい案内標識は脳トレの意味があるに違いない

何故改札口は出口の方が多いのか

「今年の新刊本」にありそうな感じのタイトル。

駅の自動改札は入口専用と出口専用のものに分かれていることがありますが、ほとんどの駅において出口が入口よりも数が多く設定されているような気がしませんか。例えば僕の最寄りの駅では出口が入口の数の2倍あります。もちろん例外はあるのでしょうが、僕の観察した限りではこの法則はかなり高い確率で成り立っているように思えます。考えてみるとこの不均衡は改札の数だけではないのです。たとえば階段が下りと上りに仕切られている場合には大抵出口に向かう方向のほうが幅が大きくとられています。

1日の駅の利用者数を考えたとき駅から出る人の数のほうが入る人に比べて圧倒的に多いということは決してないはずです。多くの人は電車でどこかに行けば全く同じ手段を使って帰ってきますからね。トータルで見たとき駅の1日の入場者数と出場者数はほぼ同じにならなければおかしい(そうでなければその駅の周辺はどんどん人口の過密化が進んでいくはず!!)。であれば何故出場者を優遇するような不均衡な設定がなされているのでしょう。素朴な疑問を感じてしまいました。

でも少し考えるとそれにはもっともだと思える理由があります。それはトータルの人数ではなく、その分布の偏りにあるのですよ。入場者の分布は電車の発着時刻によらずほぼ均一といっていいですが、出場者の分布は電車が駅に到着した直後に極端に集中する傾向にあります。改札を入ってからホームで電車を待つ人はいても、電車から降りた後にホームで時間を潰す人はいませんからね。一定の割合でやって来る入場者と断続的に押し寄せる出場者をうまく処理するためには確かに出場者の導線をより大きく確保しておくのが理に適っているわけです。

上の話は資料において「平均」だけでなく「分散」、つまりデータのばらつき具合をみることの大切さを教えてくれます。総量(平均)が同じでも偏りが大きければコストパフォーマンスが悪くなるという一つの例となっていますね。

ちなみにこの不均衡と似たような例として、データ通信技術である「ADSL」があります。かつては一世を風靡した技術ですが今では専用の光回線が普及したため影をひそめてしまいました。ところでこのADSLとはAsymmetric Digital Subscriber Lineの略。Asymmetric(非対称)の言葉が示すように上りと下りの通信速度が異なるのが大きな特徴となっています。何故非対称なのか、どちらが優遇されているのか、それは、、、ぜひ考えてみてください。

今日の一言
百貨店では婦人服売場が優遇されすぎだと思う

可逆か不可逆か

可逆というのは元通りにできる、何度でもやり直しができるということ。
不可逆というのは一旦何かをしてしまったら二度と元に戻せないということ。

可逆か不可逆か。そういう視点で世の中のものを2分して見るとなかなか面白いです。

例えば玩具で言えばルービックキューブは何度でも遊べるので可逆なものだし、クラッカーや花火は一度遊んだら終わりなので不可逆なものです。次々にいろいろなものを取り出すステージマジックは不可逆的な芸ですが、ジャグリングはいつでも最初の状態に戻れるという点で可逆な芸です。映画を見たり、本を読むという行為自体は何度でもできますが、一度鑑賞してしまえば鑑賞する前の状態に戻ることはできないという意味では不可逆な行為だとも言えます。ジュースの缶は一度開けたら閉められないので不可逆ですが、ペットボトルは何度でも開け閉めできるので可逆です。

ちょっと面白いなと思うのは、ペットボトルのふたは確かに可逆ですが、よく見るとふたを開けたときふたの下部がちぎれて入れ物のほうに残るようになっていますよね。これはペットボトル内に異物を混入されることがないように一度開けたことを示す印をつけるための工夫らしいです。いわば可逆なものの中に不可逆な印をつけていることになります。こういう工夫は結構いろいろな所にあります。今話題となっているダビング10も本来何度でも繰り返し可能なダビングに制約をつけるために不可逆な印を媒体に刻み込む技術です。人間の細胞は何度壊れても再生する可逆なものですが、DNAの中には細胞分裂のたびに長さが短くなる領域があり、その領域がなくなるとそれ以上分裂を起こさなくなります。これが生から死に向かう生物の不可逆性を生み出しているのです。可逆の中の不可逆性。

一方でたとえばコーヒーに入れた砂糖がコーヒー全体に広がっていく拡散という現象は不可逆現象ですが、この単純な原理が地球規模で働いた結果、何度でも繰り返し循環する大気や水、熱のサイクルを生んでいるとも考えられます。不可逆の中の可逆性。

可逆が不可逆を内包しているのか、不可逆が可逆を内包しているのか。

戻すことができない時計の針を見つめ、絶え間なく繰り返す締切に追われながら、ふとそんなことを考えました。

今日の一言
「可逆反応」というと「化学反応」と言おうとして噛んだように聞こえる

文字の力

先日泊まったホテルの洗面所のコップに「消毒済み」と書かれた薄いシートが張ってありました。よくある光景です。それを剥がしてコップに水を注ぎ、口をすすぎながらふと思ったのは、今僕がこのコップを安心して使っているのは、そのコップを隅々まで眺めたわけでも、顕微鏡で細菌がいないことを確かめたわけでもなく「消毒済み」という文字を見たからに過ぎないのだよなと。ためしにその「消毒済み」のシートを単なる紙コップに巻きつけてみました。なんかそれだけでその紙コップがこの上なく清潔で高級なものに思えてきました。単なる文字が僕らに与える印象の大きさはすごいものがあります。

昔あるバラエティー番組でこんなゲームをしていました。ある漢字を見せられその漢字を読むのではなく、その漢字の色を素早く答えるというもの。簡単なゲームのように思えるでしょ。では下の8個の漢字の「色」をなるべく早く左から順に答えてください。

面白いことに反射的に色ではなくつい文字の方を読んでしまうんですね。「」を「あか」と答えてしまうといった具合。普通に考えて色を識別するより文字を識別するほうがよほど難しいはずなのですが、それでも文字の情報のほうが強く頭に入ってきてしまう。これは先の「消毒済み」の文字のもたらす影響力に近いものですね。

どんなに美味しそうなオムレツでも上にケチャップで「まずい」とか書かれていたら絶対まずいと思う。香ちゃんのハンマーに書かれている文字が「5t」ではなく「5g」だったら、同じコマを見てもその迫力は全く変わってくると思う。スピード社の社名がスロー社だったらLZR RACERの力は半減していると思う。あくまで予想。

文字に力が宿ると信じ、御札をいろいろなところに貼り付けたり、体中にお経を書いたりした昔の人の気持ちがなんとなく分かる気がします。

今日の一言
あえてこの名前でエアコンメーカーのトップに君臨したダイキンはある意味すごい

律儀なバクダン

JR尼崎駅(兵庫県尼崎市)で五日に客が避難する騒ぎの元になった「バクダン入りケーキ」と書かれたホーム上の不審な箱が、結婚式の二次会で配られた景品だったことが八日、尼崎東署の調べで分かった。

「バクダン」の文字は新郎新婦が箱に書き込んでいた。駅の警備員が五日夜に発見。JR東海道線は一時、運転を見合わせたため、九千七百人に影響した。

何も書かれていなければただの箱。それに一言「バクダン」と書かれていただけどこれほどの騒ぎになってしまうなんてね。いくつか前のエントリーに書きましたがこれもまさしく「文字の力」なんですよ。当事者にとっては笑い事じゃないんだろうけど、想像するとかなり面白いです。だって「バクダン」って書かれた箱ですよ。いったい誰に説明してるんだと。吉本新喜劇ですかと。本当に被害を出すことを意図したのだったら、普通の箱に見せかけた方がどう考えても効果的なはず。現実の世界では毒入りのビンにはドクロマークは描いていないし、爆弾入りの箱には絶対「バクダン」とは書いていません。

でも映画や演劇の世界では状況を見ている側にとって分かりやすくするためだけにあるよく考えれば不自然な設定が意外とたくさんあるんですよ。緊迫した爆弾処理、デジタルタイマーが爆発までの時間を刻み、最後の数秒で赤を切るか青を切るかみたいになるって定番のシーンもそう。皆当たり前のように見ていますが、よく考えればおかしいことだらけです。そもそもあのデジタルタイマーのディスプレイは何の目的でついているのでしょう。だって時限爆弾は本来誰にも見つからずに爆発させることが目的でしょ。であれば爆弾を作動させた後にあのタイマーを見る人なんて誰もいないはずなんですよ。わざわざ見つけてくださいと言わんばかりにピッ、ピッと電子音を立てる必要も全くない。コードにブービートラップを仕掛けたりとあれほど凝った意地悪をする爆弾魔も不思議なことにタイマー表示に関しては極めて誠実なんですね。そして爆弾処理班もあの表示に関してはなんの疑いも持たない。もし僕が爆弾魔だったら真っ先にあのタイマーに細工をするけどな。「タイマーは1秒残して解除される」というのがドラマの鉄則ですから、僕なら5秒前に爆発するようにします。どちらの色を切ろうかと主人公が恋人の言葉とかを回想しているときに大爆発です。もう台無し。

爆弾に仕掛けられたタイマーはグリニッジ天文台の時計より正確。これは「見ず知らずの老人とその連れがしゃべり始めたときは全員が戦いの手を止める」と並ぶお約束の一つです。テストに出るのでしっかり覚えておきましょう。

今日の一言
時間にアバウトな時限爆弾

お祭りと隠喩

もう終わりましたが今週は祇園祭でした。いつも見ている四条烏丸が何万人という人で賑わっているニュースの映像を見たとき、ふと昔なんかの番組で見た夏祭りの映像を思い出しました。

完全にうろ覚えですが、ものすごい数の裸の男たちが何か一つのご神木みたいなのを死に物狂いで奪い合い、何故か周りからその男たちにばんばん水をぶっかけるの。肌の熱気で水は瞬く間に湯気になり、それがが周囲に立ち込め、誰もがちょっとしたトランス状態になってる。勇壮な夏祭りの映像として紹介されていたのですが、僕にはどう考えても「驚異の人体小宇宙、生命誕生」みたいなことをマスゲームとして表現しているようにしか思えませんでした。この祭りを発案した村の豪族は、数多の美女をはべらしながら高台からこの様子を観察し、喜々としながらこう言ったに違いないね。

「見ろ、人がオタマジャクシのようだ」

秋のお祭りは豊作を祝う神事であったりと厳かな感じがあるのだけど、夏祭りってもっと粗野で俗な感じがなんとなくありませんか。ほのかに漂う性欲みたいな。だから夏のお祭りってすべて何かの隠喩表現なんじゃないかってつい勘繰ってしまうのですよ。祇園祭に対しても「あの鉾ってのはひょっとしてそういう意味なんじゃ、、」などとついついあらぬ想像力を働かしたり。京都の伝統文化、ごめんなさい。

夏の花火大会で打ち上げ花火を見て「なんか、精子みたいだね」といって周りにドン引きされたのも今となっては懐かしい思い出です。

今日の一言
ずいずいずっころばしの仕草ってかなり卑猥だと思う

ココロのリズム

最近の録画機器の再生機能には2倍速モードというのが付いていますよね。物理的には再生速度が増せば音のピッチも高くなるので、昔はこれをやるとどんな渋い声もミニドラみたいになってしまったものですが、近頃の技術はそこをうまく処理して音程を変えないで速度だけを上げることができたりするのです。この機能は例えばニュースを録画しておいて後から聞くときなどには大変重宝します。2倍も速く原稿を読まれたら頭がついていけないのじゃないかと心配してしまいますが、これが慣れると意外と出来るものなのです。言葉の速度が2倍になれば頭の回転速度も2倍になるような感じで、しばらく聞いていると全く違和感を感じなくなります。逆にこれに慣れてから普通のニュースを聞くと読む速度が非常に遅く感じてしまう。高速道路から下りると普通道路の車の流れが非常に遅く感じてしまうのと同じですね。

ところが面白いことにこのモードで落語や漫才などのお笑い番組などを見るとやはり違和感はあるのですね。もちろん先と同じように言っていることは完全に聞き取れるのですが、それで笑えるかというと何故か笑えない。稲光に少し遅れて雷鳴が轟くような、頭に気持ちが追いついていっていないという感じです。思うに頭の処理能力の柔軟性に対して、感情の動く速度って人によっても状況によってもそれほど変わらないものなのでしょうね。欽ちゃんがコントを作るときコンマ一秒の間にまでこだわったという話を聞いたことがありますが、確かに笑いを生み出す間にはこれ以上長くても短くてもダメという正解があるように思えます。これは相対的なものではなく絶対的なもの、全体を同じ割合で速くしたとしても意味をなくしてしまう類のものです。お笑いに限らず舞台も映画も、あるいは曲や本の文章であってもそうなんだろうけど、作り手は常に人間の心の絶対的なリズム、与えた「情報」がしみこんで感情を刺激するまでの間、を見極めながら次の「情報」を並べていくものなんだなと改めて気がつきました。

単行本を30秒足らずで読み上げ、その内容をすらすらとしゃべってしまう速読の達人。あれも能力としてはものすごいなと思いますが、本当に筆者の意図した読み手の感情をすべて味わえているのかに僕はいつも疑問を感じてしまいます。ちょっともったいないなと。どんなに忙しくても、早送りしてはいけないものもきっとあるはずです。

今日の一言
鑑賞は単なる情報処理ではない

蛇口道

どんなに時代は進歩しようとも、ビジネスホテルの洗面所の蛇口は昔ながらの赤色のハンドルと青色のハンドルに分かれていてそれぞれからお湯と水がでるタイプのものと相場は決まっています。このタイプのハンドル、最近は余り見かけなくなりましたので、使ったことがない若人は結構いるのではないでしょうか。しかしそれでは社会人になってビジネスホテルに泊まったとき痛い目を見ることは間違いなしです。人生の先輩としてこのタイプの蛇口に出会ったときの正しい対処法を今日は書き記しておこうと思います。

まず心得ておかないといけないのはビジネスホテルのお湯は尋常じゃなく熱いです。何故こんなに熱くする必要があるのかフロントに問いただしたいくらい熱いです。ですからやけどをしたくなければ必ず最初は水から。それから水温に注意しながらちょっとずつお湯の方を開けて適温にします。閉めるときはこの逆、まずお湯から閉め、次に水を閉めます。基本中の基本です。

開けるときは水から、閉めるときはお湯から

適温になったとしても水の量が適当とは限りません。水の量が少なすぎると水がシャワーを這うようにしか出てこず、シャワーがシャワーを浴びているような状態になります。逆に多すぎるとシャワーというより滝に打たれてるようで命懸けな感じになります。そのままあきらめて根性と創意工夫で浴びきるのも1つですが、もし適量にしたければ、初心者であれば素直に両方の蛇口を閉め、もう一度最初からやり直しましょう。最初の水の量を変えて何度かやればちょうどいい水量が見つかるはずです。

水量が合わない場合は最初からやり直す

しかし、もしお湯と水のハンドルを両方ひねりながら適温かつ適量になるように調整しようと思うのならそこには深遠なる蛇口道が待っています。お湯と水のハンドルを同じ角度だけひねって調整すれば水温が変わらないと思う人が多いですがこれは勘違いです。水の量をx, お湯の量をyとすると水温はこの比y/xで決まると考えられます。もしこれらの量をともにdだけひねって水の量をx+d, お湯の量をy+dとするとこの比(y+d)/(x+d)は変わってしまいます(下図を参照)。水温が高くなってしまい、それを薄めるために水を加えると、予想以上の水量になって途方にくれるという悪循環。うーむ、奥が深し。素人が安易に立ち入るとやけどします。文字通り。

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数学的に考えるとこの困難というのは水量(x+y), 水温(x/y)を調整するのに水の量(x)とお湯の量(y)というパラメータを取っていることに起因しているのです。最近の新しいタイプの蛇口はレバーの左右で水温を上下で水量を調整しているものがほとんどでしょ。これはxyの直交座標に対してr(水量), θ(水温)の極座標を取っていることに相当すると解釈することもできますね。なるほど同じ2つのパラメータでもやりやすさは天と地ほど違う。直交座標と極座標の説明をするとき僕はいつもこの2つのタイプの蛇口の違いを連想してしまいます。問題に対して適切な座標系をとることの大切さがこんなところから分かります。

20080822_02.gif

今日の一言
蛇口道は蛇の道

メタな視点

正直言って、最近ブログ書こうとすることが特に思い浮かばなくて困っています。ブログを始めたとき何があっても1週間以上間をあけないというゆるい目標を立てたのですが、最近気づくとそれに近い日数放置されていることがあって焦ることも多くなってきました。何かを書かなければいけない、でも本当に煮詰まってにっちもさっちもいかない、そういう状況を打開する方法が実は一つだけあります。

「何も書くことがない」ということを書く

ということ、僕が今現にやっていることです。いや正確には僕は今「「何も書くことがない」ということを書く」ことについて書いているのですが。あれ、となると僕はたった今「「「何も書くことがない」ということを書く」ということについて書いている」ということを書いていることに、、、きりがありませんね。こういう下手をすれば永遠にぐるぐる回ってしまう思考の入れ子構造を僕は「メタな視点」と呼ぶことにしています。ちょうど鏡に映った鏡を見ているような感じ。堂々巡りの無意味な言葉遊びに思えるかもしれませんが、この「メタな視点」は何かに行き詰ったときのブレークスルーを与えてくれたり、人をハッとさせる面白さの源になることがありますね。「夢から醒めた夢」「落書き禁止という落書き」「そんなドラマみたいなことが、、とかいうドラマ」。こういう発想、僕は割と好きです。

寺田寅彦のエッセイで「なんら世の中の役に立たず悪いことばかりしてきた死刑囚でも、その亡骸は解剖のために捧体され医学の進歩に貢献している。もし本当に役に立たないものがいたとしたら、それは役に立たない人を研究する人の資料となるだろう。役に立たない人でいることは不可能である」という記述を読んだことがあります。これもまた見事な「メタ視点」です。

最後に以前考えた小話。

「ドモホルンリンクルの人って大変だよね」
「どうして?」
「だって落ちてくる滴を一粒一粒じっと見てるんでしょう。絶対途中でさぼりたくなるって」
「大丈夫、その人がさぼらないようにじっと見張っている人がもう一人いるから」

ただし、割と飛び道具なので、頻繁には使えません。ってことはこのネタもう次からは使えないなあ。というネタを次に書けばいい、という(以下省略)

今日の一言
劇中劇中劇

テロップのタイミング

シーズン終盤になってプロ野球が面白くなってきましたね。別にどこのチームのファンというわけでもないのですが、結果はなんとなく気になるのでニュースを見てしまいます。1分足らずの野球のダイジェストを見ているだけでも野球を見ている臨場感はある程度は味わえます。ナレーションの中で逆接の接続詞が表れるたびに勝敗の行方が右に左に振れるようになっていますね。

「まずは1回の表、タイムリーで1点を先制」

しかし相手も負けてはいません。3回の裏、ソロホームランで同点に追いつきます」

しかし6回の表の攻撃、2ランホームランを含む10本のヒットでなんとこの回一挙6得点。これで試合を決めたかのように見えました。」

ところが9回にドラマが待っていました。」

こんな感じ。試合の面白さはこの逆接の接続詞の回数に比例します。3回以上現れたら相当ドラマチックな展開と言っていいでしょう。

ところがナレーションが折角盛り上げようとしてくれているのに、たまにテロップが先に結果を書いてしまっていることがあります。先日の松坂の17勝目のときにも「さあ松坂の日本人メジャーリーグ記録は達成なるのでしょうか。」って散々盛りたてようとしているのに、すでにテロップは

「松坂、日本人記録達成!!」

早い、早い。もう少しドキドキ感を味わわせて。期待をあおるように原稿読んでる人もちょっと可哀想な感じになっています。

考えるにこのテロップ先走りパターンは朝のニュースに多いのです。これはおそらく意図的なものでしょうね。朝6時7時台のニュースを見ている人は大抵時間に追われているからドキドキ感より手っ取り早く結果を知りたい、そういうニーズが高いのだと思います。それに比べて夜はゆっくり画面に向かい合っている人が多いだろうから、試合経過をじっくりと見せて勝敗の行方を最後まで引っ張ってもいい。テロップのタイミング1つにもそういう事情を垣間見ることができます。

全然話は変わりますが、カラオケで前の人の歌が終わりかけの時に出てくる「次の曲は...」というテロップがほんと余計なお世話です。すごく懐かしい曲とか、受け狙いの曲を歌ってやろうというとき、イントロが鳴り出した瞬間とかタイトルでた瞬間に「あーー」みたいなリアクションが欲しいのよ。そのオチを何故そこで出しちゃうかな。カラオケマシンにはその辺の空気を読む機能を期待します。

今日の一言
次にあの大物歌手の曲が登場!!

アリクイの憂鬱

先日とある芸人さんとの会話で、アリクイをペットとして飼うとか飼わないとかいう話題になりました。アリクイって言ったらご存知あの顔の細長いダイソンの掃除機のような哺乳類。ペットショップでもたまに扱っているそうです。

「でも、アリクイ飼うんだったら餌とか大変そうですよね。」

「そんなことないですよ。アリクイ、何でも食べますから。」

え!?

えーーーーーーーーーー!!

いや、声には出しませんでしたが。軽く驚きました。清純派グラドルが「ビックピーチ」と言ったときくらい驚きました。なに、この騙された感。だって「アリクイ」ですよ。餌はアリでしょ。アリじゃなきゃナシでしょ。気になったので帰って調べてみました。そしたら確かにアリクイ、

雑食動物です。

怖い。これって怖いことですよ。

例えば親戚の家に行ったときたまたまお盆に柿ピーが盛ってあったとしますよね。ちょっと食べていたらなんとなく手が止まらなくなって結局お盆を空けてしまったと。もうそれだけで「お、この子は柿ピーが大好きなのか、こいつは将来大酒飲みになるぞ」とか大人たちが勝手に盛り上がっちゃって、そのあとそこに行くたびにもう柿ピーしか出てこなくなんの。いや、別に嫌いなわけではないけど、特に"ベスト"ってわけでもないからね。心では叫んでいてもそれを言い出せず途中から完全に柿ピー大好きを演じ続けなければならなくなるという。このパータン。

アリクイはここに陥っているような気がする。

アリクイにとってもアリって柿ピーくらいのもんなんじゃないの。アリクイの不運はちょっとした気まぐれでアリを食ってたところをたまたま通りかかった探検家に見られたことから始まったんだろうな。あの容姿でアリ食ってたらそりゃ相当インパクトあるから、この時点でアリクイの運命確定です。島田紳助ぐらいの軽いノリで「アリクイ」という名前をつけられ、もうどこの動物園行っても飼育係が「今日はご馳走だよ」とか言いながら極上のアリを持ってくんの。満面の笑みで。

不幸な出来事です。アリクイにとっても、アリにとっても。

桜塚やっ君を女装から解き放った力が、アリクイの呪縛を解き放つことを心から願ってやみません。

今日のショートコント
「あの、正直、アリってそれほど好きってわけでもないんだよね。」
「私はアリのままのあなたが好きなの」
「え、… それってどっち」

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