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関数とは何か

たまには数学講師らしく。

例えば自分の昨日一日の行動を思い描いてみます。自分が何時何分にどこにいたのか。地球上の位置は緯度と経度で特定することができますが、簡単のために緯度だけを考えることにしましょう。例えば昨日のある特定の時刻に対して、その瞬間に自分がいた場所の緯度が何度何分何秒だったかはただ一つに定められるはずです。これに対して異を唱える人はいないでしょう。数学では何かの値xに対してある値yがただ一通りに定まるときyはxの関数であると言います。ここでは緯度が時刻の関数となっているわけです。

とここまではいいでしょうか。

では問いましょう。昨日の12時34分56秒あなたがいた場所を正確に答えられますか。答えられる人はまずいないだろうね。なんとなくあの辺りってくらいまでは言えるかも知れないけど緯度を秒単位で特定するほどの精度なんて望むべくもない。あれ、でもさっき関数って「何かの値に対してある値が定まること」って言わなかった。特定できないのだとしたらこれは関数とは言えないのではないのでしょうか。

これに対しては、それは人間の記憶力の問題であって、もしあなたの体の中にNASAがチップを埋め込みあらゆる時刻の位置情報をコンピューターで管理しているとすれば可能なはずだと反論することはできるでしょう。なるほど、ならば「ある瞬間に地球上で息を吸いこんだ人間の数」はどうでしょう。「ある瞬間に宇宙に存在する水分子の数」は。これはNASAが総力を挙げて取り組んだって絶対調べられないと思うぞ。ならばこれは関数ではないのでしょうか。

屁理屈をこねているようですが、ここに非常に大切な点があると僕は思うのですね。数学では上に挙げたような到底その値を調べることが不可能なものもすべて「関数」だという立場をとります。重要なのは「関数」というのはあるものとあるものが「対応すること」そのものに付随する概念であって、その値が実際に求められるかどうかとは完全に切り離されているということ。そしてここを切り離せるかどうかは「関数」を理解する上で非常に大きなステップなのです。

中学生で初めて関数を学ぶとき、まずはy=2xのような比例式から入り、1次関数, 2次関数と進みます。生徒にとってxを決めればyの値が決まる、と言ったときにxに対してyが「対応すること」と、yの値が「求められること」は完全に同義でとらえられているはずです。その2つを区別する必要に初めて迫られるのが高校で登場する「三角関数」ではないかな。xに対してsin xを定める対応規則は明快であるにも関わらず、ほとんどのxに対してsin xの値は何かと問われても答えられないのです。宇宙に存在する水分子の数が答えられないのと限りなく同じ理由で。

「三角関数」を学ぶとき多くの生徒が、あれ、今までの関数とはなんか違うぞっていう違和感を感じる。この違和感っていうのはなかなか厄介なもので、それはつまずきの原因になる小石でもあり、関数概念の本質的な理解に通じる扉でもあるのです。ここをどう見せるかは教える側にとってなかなか悩ましいところなのかなと思います。多くの教科書ではこの小石を丁寧に拾ってつまずかないようにしてあげてるのです。まあその気持ちも分かるんだけど、僕は基本的に放置です。そんなもの勝手に転んで、立ち上がるとき自分で何かに気付いてくれよと。

ユークリッドは"三角形"を実体から概念へと昇華させました。それと同じように関数も姿なき概念なんだな。そもそも数学というのが実体の奥に薄ぼんやりと透けて見える「概念」に目を向ける学問だっていうことを自分の力で見出せたとき、数学という言葉の持つ意味がほんの少し深まる気がするはずなんだよね。

今日の一言
関数を見て「値」に注目するのが工学者、「対応」に注目するのが数学者

数学的思考 (その1)

数学っていうのは積み重ねる学問だって言われますね。中学校で習う初等幾何が一番分りやすい例で、まずいくつかの公理と定義があり、それを元に定理が作られ、さらにいくつかの定理を組み合わせて、新しい定理が作られる。そんな風に知識が上に上に積み重ねられていくのが「数学」であるっていうのが一般的な認識。確かにAならばB, BならばCと積み重ねていくのは「論証」の基本ではあります。でもだからといってそれが数学的思考だというのは勘違いなんですね。世の中の数学者は論理の積み木をどれだけ高く積み上げるかを日々考えているわけではない。

むしろ全く逆だと思うんだよね。数学的思考ってのは自分が今立っている土台を疑うことなのです。例えば小学生や中学生が当たり前のようにやっている計算の規則を前にして数学者は考える。分配法則や結合法則ってどうして成り立つんだろう、いやその前に足し算や掛け算って何だろう、いやその前に数っていったいなんだろう、土台に、その土台の土台に、つぎつぎと疑問を抱いていくと、その過程で僕らが知らず知らずに拠り所としてきた足がかりが実はかなり不安定で頼りないものなんじゃないかってことに気付かされるのです。正直これはかなり怖い。今まで子供のころから膨大な時間をかけて高々と積み上げてきたブロックがすべて音を立てて崩れ落ちてしまうんじゃないかという気さえしてしまいます。でもこのプロセスこそがまさに数学なんだな。ユークリッドもこういう思考の果てにどうしても認めざるを得ない事実にぶつかり、それを公理とし、そこからいままでの思考を逆にたどるようにしながら幾何学という一大体系を再構築していったのです。ここからも分るように「論証」の方向と「思考」の方向は実は180度違うものなんです。

例えば小論文なんかで「あなたの欠点について書きなさい」っていう題がよくあるでしょう。これについて考えようとしたとき、「忘れ物が多いこと」、「人の話を聞かないこと」などと自分の欠点をまず挙げてみようとするのが普通の思考。それに対して「そもそも欠点って何だろうか」と問うのが数学的思考なんだね。まず土台をみる。欠点というのは言い換えれば「自分の悪いところ」、じゃあ悪いってどういうことなんだ、その基準は何なんだろう、って具合に下に下に目線をおくると不思議にちょっとずつ考えが深まってくる気がするんです。そこから見えたことを今度は思考を巻き戻しながら組み立てなおすと「論理的な文章」ができあがるわけ。数学的思考だからって何も難しい数式を使うわけではないのね。日常的な思考の中にだって入りこんでくるもので、むしろ「考える」ことの基本ってまさにそういうことなんじゃないかとすら思うのです。

ただこれは一歩間違うと単なる理屈っぽい人になってしまうからご注意を。

「あなた浮気してるでしょう」
「それに答える前にまず浮気の定義を述べてくれ。」

「飲み物はコーヒーまたは紅茶になります。」
「すいません、その「または」は排他的論理和の意味ととらえてよろしいのでしょうか。」

数学者の愛すべき悲しき性。

今日の一言
数学的思考もTPO

数学的思考 (その2)

最近「パンセ 数学的思考」(吉永 良正 著)という本を読んで柄にもなく哲学についてちょっと考えております。パンセとはパスカルが残した膨大な草稿を整理した書物。ちなみにこのパスカルと同時代を生きたのがデカルト。どちらも17世紀の偉大な哲学者であり、そしてもちろん高校の教科書にも登場するほどの超有名な数学者でもある。「パスカルの三角形」「デカルト平面」なんて言葉は高校生なら知ってるはずだし、中学の理科に登場する水圧に関する「パスカルの定理」のパスカルも実は同一人物です。

前回「数学的思考」とは何かについて書いたけど、パスカルもデカルトもこの数学的思考を唯一最大の武器にして自分の外側と内側に果てしなくに広がっている「宇宙」と向き合おうとした人です。昔の人にとって数学と哲学はほぼ同義だったんだね。パスカルは有名な「人間は考える葦である」という言葉によって人間は考えることによってのみ宇宙と太刀打ちできると宣言し、デカルトは自分の立つ土台を疑い続けることで、それを疑っている自分の存在だけは絶対に疑うことができないという「我思う故に我あり」の結論に到達した。とまあ知ったようなことを書いてますが、僕の薄っぺらい付け焼刃の知識ではその深い内容までは到底届きませんが。二人とも似たようなことやっているように思うんだけど、仲はすっごく悪かったみたいでパスカルはたびたびパンセの中で「あのくだらないデカルトの考えは…」みたいなことを書いてるの。あ、やっぱ人間なんだって思えてちょっとうれしくなったり。

パスカルの最期は少し悲しい。この「数学的思考」というのを突き詰めていった先にあるのはある種の危うさなのかなってふと思った。だって常に自分の拠り所を疑い続けるわけだから。僕たちがこの世界で正気を保って生きているのは、何の根拠もない常識の杭に理性をつなぎとめているからなんだって思うのね。その杭の打ち付けられた大地が実はぬかるみだったことに気付いたとき、拠り所をなくした精神はいったいどこに向かうのだろう。偉大な業績を残した多くの数学者や哲学者がその晩年精神を病んだり、社会不適合者の烙印を押されていったのも分からなくはない気がするのです。自分自身への呼び出しを含むコンピュータープログラムが簡単に暴走を起こしてしまうように、何かを考えている自分について考えるなんてとき精神はそのバランスをあっさり崩してしまうものなのかね。

一つの物事を追求している人間には、体勢を崩しかけたとき自分をこの現実の世界に引っぱり戻す役割を果たするものが必要なのではないかって思う。それは人とのつながりであったり、あるいは音楽や文学といった芸術であったり。あれほど深く宇宙の真理について探求したアインシュタインが最後まで狂気に陥らずにすんだのは彼の持っていた音楽的な資質によるものなのかもしれない。ファインマンや寺田寅彦は物理学者であるとともに文学的な才能やユーモアのセンスをちゃんと持ってた。経済学者ジョンナッシュを描いた映画「ビューティフルマインド」のテーマもまさにここだった気がする(あんまり覚えてないけど)。

一つのことだけに秀でた人よりも、自分の専門分野以外のことにちゃんと魅力を持っている人の方が僕は信頼できる気がしてしまうんだよね。なんとなく人間的に。

今日の一言
正気と狂気は車の両輪

日常にみる化学法則

最近雨が降ったりやんだりでややこしいですね。

移動中突然雨が降り始めると、さすがに濡れるのは嫌なのでそのたびにコンビニでビニル傘を買います。そんなことしてると家にビニル傘がいっぱいになるんじゃないかって思うでしょ。でもよくしたものでそんな具合にして傘が増えるのとほぼ同じくらいの頻度で僕は傘を電車の中やジムやその他僕の記憶のないところに置き忘れてしまうのです。結果的に僕の家にある傘の本数は多少の増減はあるものの常に2本から3本に保たれています。これを化学の用語では「平衡」と呼びます。ちなみに梅雨の時期になると「ルシャトリエの化学平衡の原理」により、この傘の本数の平衡点はやや増える方向にずれ、4本から5本くらいで安定します。

同じようなことは僕の筆入れの中でも起こっております。たまに筆入れを見るとなぜか3本くらい修正液が入っていることがあります。これは職場で作業をするとき備品の修正液を借りたあとうっかり筆入れに入れてしまうことがあるからです。決してわざとではありません、すいません。で、さすがに悪いと思うので、それに気付くたびにそのときにいる校舎に修正液を戻します。僕は複数の校舎を移動しているので修正液はいろいろな校舎で消え、いろいろな校舎に現れることになります。僕がうっかり修正液を拝借してしまう確率は修正液がたくさんある校舎ほど高く、少ない校舎ほど低くなる傾向があり、修正液を返却する確率はその逆の傾向にありますので、トータルでは各校舎の修正液の数はほぼ均一になり、校舎間修正液格差は是正されます。これを化学の用語では「拡散」と呼びます。もしここに僕の作為が入って、修正液を返却するのをある校舎に限定したりすると、しばらくするとその校舎は修正液だらけになります。このとき僕のことを「マクスウェルの悪魔」と呼ぶことができます。

なるほど、日常の生活の中にも化学法則は満ち溢れています。

今日の一言
化学と経済学はある意味同じものなんだな

身近にある指数

僕が工作をしようと思ったときその材料を買うためによくいくお店ランキング。1位はもちろん東急ハンズ。さて2位はどこでしょうか。

ちょっと意外かもしれませんが、答えは画材屋さんです。画材屋さんっていうと美大生が絵の具や筆なんかを買いに行くところっていうイメージかもしれませんが、実際には文具から紙、木材、工具などなど工作に必要なあらゆる物がそろっています。その品揃えのバリエーションにはなかなか驚かされますよ。僕にとっては小さなアミューズメントパークです。家の近くに「京屋」さんという画材屋があるのですが、ほとんどのものはハンズまで足を伸ばさなくてもここでそろってしまうので重宝しています。

僕は自分のパフォーマンスの道具はほとんど自作していますが、軽くて加工しやすいといった理由で、木や金属より紙を使うほうが多いです。紙のサイズを指定するのにはレポート用紙やノートのサイズでおなじみのA4、B5といったアルファベットと数字の組み合わせを使います。B5とB4のプリントのサイズを比べてみれば分かるように、アルファベットの後の数字が一つ小さくなるとその大きさは2倍になるのですね。画材屋に行くとA1やらB2やら普段ではまずお目にかかれないような大きさの紙が置いてありますが、計算するとA1というのはA4のレポート用紙の2倍の2倍の2倍で8倍、同じくB2はB5のノートの8倍の大きさということになります。

ふと思ったのですが、この数字って指数なんですよね。数学の授業で指数を説明するのにマグニチュードやpH(水素イオン濃度)といった理科の用語を持ち出すことが多いのですが、こんな身近なところに指数があったのはちょっと盲点でした。例えばB5のプリントを見てもらって、その大きさの2倍がB4だということを納得してもらう。じゃあB3はその2倍、B2はその2倍、B1はさらにその2倍っいうのも分かるよね。じゃあB1の2倍はなんて名前を付けたらいいだろう。さらにB1の2倍の2倍はどういう名前になるかな、さらにはB4.5なんて大きさの紙を作るとしたらどういう大きさにするのがいいだろう、なんていろいろ考えさせることで指数の感覚を深めていくのも面白そうです。

ついでながらAもBも紙の縦横のサイズ比は一定で1対1.414すなわち2の平方根になっています。これは単に形がきれいだという以外に合理的な理由がちゃんとあって、僕らは常にその恩恵を受けています。分からない人はお近くの数学の先生に是非聞いてみましょう。

1枚のプリントにもたくさんの数学が潜んでいるのだと気付くとなんだか嬉しくなりますね。

今日の一言
講師室では「A5版」と「英語版」をよく聞き間違える

頭のよさとは

化学の教科書でよく目にする化学反応のグラフ。時間を横軸、生成物質の量を縦軸にとると、時間に比例して生成物質の量が増えていきますが、反応物質の量に限りがある場合は生成物質はある量で頭打ちになり、グラフは水平になります。

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何かを考え、その結果ある結論に到達するっていうことをごく簡単にモデル化したら、ひょっとしたら同じようなグラフができるかもしれないな、ってふと思いました。この場合縦軸はたどり着く結論のレベルと考えてもらえばいいです。普通の人がある時間かけてある結論に達するとするとき、世に言う"天才"の域にいる人はそれよりはるかに短い時間にはるかに高い次元の結論に到達してしまうわけです。こんな感じ。

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20世紀の天才科学者「フォンノイマン」はある人が長年取り組んできた研究テーマについての未完成の論文を見せられ、さらっと目を通しただけで「これはうまくいかないよ」と言い切ったそうです。実際その言葉通りだったことが後に判明。凡人と天才の間にある溝を実感させられるエピソードです。まあ、大学の生徒と教授のやりとりでも似たようなことはいくらでもありますけどね、、

でですね、そういう一握りの"天才"は別にして、一般的に"頭がよい"と呼ばれる人には大きく分けて2つのタイプがあるように思うのですよ。それをモデル化したのが下図のAとBの2つの曲線。Aタイプは普通の人と同じ結論に達するとしてもそこまでの時間がはるかに短い、いわゆる「頭の回転の速い人」です。それに対してBタイプは考えるペースは普通の人と同じなのだけどより高い結論に到達できる人。どちらかというと一般の社会で重要視されるのはAタイプの頭のよさです。生き馬の目を抜くビジネスの世界では誰かが思いつくより一歩でも先に結論に到達することが死活問題になる。一方学問の世界で必要なのは絶対にBタイプなんです。どれだけ時間をかけても高い着想にたどり着ける人のほうが学者としては優れているのは間違いないですよね。

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大学入試のように極めて時間の制約の強い試験の中で計られるのは思考の瞬発力、グラフで言えば曲線の最初の傾きの大きさだということになります。そうなると必然的に「Aタイプ」が「Bタイプ」よりはるかに高い評価を受けることになる。これって皮肉な結果ですね。深く考える力を持っているにも関わらず、得点に結びつかない学生ってのはこの「Bタイプ」の子がとっても多い。こういう生徒をきちんと評価し拾い上げる仕組みってのはできないものなのかな。

今日の一言
よい講師に必要な資質はAであり、よい学者に必要な資質はBだと思う

開けると閉じる

英語のopen、closeという語が形容詞的に使われたとき、「開ける」、「閉じる」とは少し違うニュアンスを持つことがあります。例えば"open problem"というと、「開けられた問題」ではなく、「未解決の問題」あるいは「現在も討論が活発に行われている問題」になり、逆に"closed problem"は「解決済みの問題」となる。

勝手に想像するには、英語のopenには広大な海原の只中にいるようなどこまで進んでもその先が全く見えない、全体像がつかめないというイメージがあり、closeにはすべての物が完全に把握できる、壁に区切られた部屋の中にいるようなイメージがあるのではないのかなと。日本語の「開放」「閉鎖」という語はこれに近いかもしれないですが、英語の方がもう少し抽象度が高いように思えます。

"open"、"close"という言葉は実は数学用語の中にも登場します。「実数全体」のように果てしなく広がっている数の集まりは"open set"(開集合)であり、「0以上1以下の実数」ような境界で区切られた数の集まりは"closed set"(閉集合)であると言い表します。これは日本語の感覚でも分かるとして、注目すべきは「0より大きく1より小さい実数」のような数の集まりは閉集合ではなく開集合だということです。有限の大きさに収まるものを「開いている」と表現するのは一見非常に不可解に思えますが、それはこの数の世界に住んでいる人の立場を考えれば納得がいきます。「0以上1以下の実数」の世界に住んでいる人は0, 1という数を知っていて、その地点よりちょっとでも外に足を踏み出せば世界からはみ出してしまうことを悟ることができます。いわば世界の境界線を認識できるわけです。ところが「0より大きく1より小さい実数」の世界に住んでいる人にはこの境界線は見えません。自分の住む世界のどこに行っても今いる地点より大きい数も小さい数も見つけることができてしまうのです。この五里霧中をさまようような感覚は英語の"open"のイメージとぴたりと一致します。

単に有限、無限ということとは違う、非常に説明が難しい概念なのですが、それに平易な日常語を当てはめ、すっと頭に落ちてくるようにしてしまった英語ならではのメタファーはなかなかに見事なものです。この語を見るたびに物事の理解によいメタファーがいかに重要なものかを思い知らされ、感心してしまいます。

今日の一言
Open or not open 、that is an open problem.

メタファー

メタファー(metaphor)

隠喩
たとえを用いながら、表現的にはその形式を出さない方法

抽象的な概念が適切なメタファーによって理解される例を前回の日記で書いたのですが、考えてみると生活の中に「隠れた比喩」は想像以上にたくさんあるのかもしれない。中にはあまりに溶け込んでいて、それが比喩であることをうっかり忘れてしまいそうなものまで。

例えばダイエットの宣伝文句で「脂肪を燃やす」っていう言い方をするでしょ。これって明らかに比喩ですよね。体の中に焼却炉があってそれがぼうぼうと音を立てて燃えているわけでは決してなく、実際は生体内の化学反応によって脂肪が消費されているに過ぎません。ところが「有酸素運動は脂肪を消費させます」とか「唐辛子は脂肪を減らします」というより「有酸素運動は脂肪を燃焼させます」とか「唐辛子が脂肪を燃やしてくれます」いったほうがはるかに説得力がある。運動によって体が熱くなる感じ、あるいは唐辛子の見た目からの連想が「燃える」という語にピタリとマッチするからではないかな。

直接外から見えない複雑な機構を「ブラックボックス化」するためにメタファーが使われることは多く、パソコンにおける耳慣れた用語なんてほとんどがそうだといっていいです。「ファイル」「フォルダ」「ゴミ箱」なんてのは実際はハードディスクに物理的に刻み込まれたデータの構造やそれに対する操作を分かりやすく表現するメタファーです。こういうのは便利であると同時に危険性もある。消したと思っていた情報がハードディスクの中に残っていて情報流出につながることがあるのは、「ファイルを消去する」というのが単なるメタファーに過ぎないことを多くの人が知らずに誤解しているからです。ネット上にある違法な動画をダウンロードするのはまずいけど、閲覧するだけなら問題ないと思っている人でも、「閲覧」というのもメタファーに過ぎず、実質は「閲覧」とダウンロードはほとんど同義だと知れば考え方は変わるかもしれません。(ここはいまだに微妙な問題のようですね。)

分かりやすさが物事の本質を隠してしまうことはよくあることで、それに無自覚になることは非常に怖い。これは学ぶ側も教える側も気をつけるべき問題でしょうね。

今日の一言
分かりやすさは諸刃の剣である

受験シーズン

三が日が終わっても、その後数日はなんとなく落ち着けないものです。いつもの職場に行っても、なかなかいつもどおりというわけにはいかない。大掃除の名残の模様替えに慣れるまでしばらく戸惑うし、人に会えばそのたびに軽く姿勢を正して年始の挨拶を交わすことになる。年明けの熱気みたいなものがそこかしこに微妙に残っていて、それが完全に消え去るにはもう少し時間がかかります。日常が日常性を取り戻すまでの酔い覚ましの期間みたいなものです。

まあうちの職場はそんな悠長なことを言っている時期でもないのですが。センター試験を皮切りにいよいよ本格的な受験シーズンが到来します。受験生はもちろん事務局も大忙し。予備校の講師にとってもさぞかし多忙な時期なんだろうとよく人から言われるのですが、実際はその反対です。講師にとってはむしろこの時期は仕事の端境期、1月から3月にかけては一年で一番体が自由になるときです。質問対応や直前期の特別な授業を除いては受験生向けのレギュラー授業がなくなるからね。受験生は基本的に自分で計画を立てて自分で勉強することになります。言い方は冷たいですが、こっちができることはもうすべてやったんだから後は自分で何とかしろ、そういうことです。

無責任に聞こえるけど、本当に意味のある勉強というのは結局自分ひとりでしかできないんですよね。例えるなら学校や予備校での授業というのはスーパーで空の買い物カートを持たされ、その中に次から次にいろいろな人がいろいろな物を詰め込んでいくようなもの。これも必要。これもあったほうがいいって。それがうず高くあふれんばかりにつみあがっているのが今の状態。このままではとても知識と呼べるものではありません。それを自分の部屋に持ち帰っていったん全部ひっくり返す。そしてその形や機能をよく見ながらもう一度丁寧に箱に詰めなおしていくのです。別のもので代用できるものは捨てる、別のものの中に入れてしまえるものは入れてしまう。その整理整頓、かっこよく言えば体系化、構造化の中で得られるものが本当の知識なんです。それは誰にも手助けできないし、手助けされるべきものではない。

そしてこれは最終的に多くの人が共感する意見だと思うのですが、その作業ははまればはまるほど楽しく思えてくる。大掃除は始めるまでが大変だけど、やりだすとちょっとずつ楽しくなるでしょ。それとなんか似ていますね。すべての知的活動の本質は知識を得ることにあるのではなく、知識を整理することにこそあるんだと僕は思います。それがしっかり味わえるかどうか。大げさに言えばそれは今後の生き方にも影響を与えることだと思いますよ。

つかず離れずの距離を保ちながら、僕は僕で自分の好きなことをこの時期を使って追求していこうと思います。僕なりの応援の仕方です(ものは言いよう)。お互い頑張りましょう。

以上、どれだけ読んでいるか分からない受験生の皆様へ。

今日の一言
学ぶとは得ることではなく捨てることなのかもしれない

大雑把も数学です

グーグルの入社面接でこんな質問をされるそうです。

「全世界でピアノの調律師は何人いますか?」

さすが世界の知識を司るグーグル、入社するにはこのくらいのことは常識として知っておかなければならないのか、って驚くかもしれませんがそんなはずはありません。まあ「爬虫類アナリスト」なんて職業が実在する世の中ですから、「調律師アナリスト」という人がいてもおかしくはないと思いますが、ほとんどの人は調律師という職業に何一つ関心を持つことなく一生を終えるのが普通です。

では素直に「分かりません」と答えればいいのか。それだと絶対落とされるだろうな。僕にはこの質問の意図が分かる気がします。これは決して正確な答えを求めているわけではないのですよ。例えば上の質問を「京都市内でピアノの調律師は何人いますか?」という質問に置き換えて回答してみます。

まず調律を必要とするグランドピアノは京都市にどのくらいあるかを考えてみます。自分の小学、中学時代の友達を思い出してみたときに40人のクラスの中で家にピアノを持っている人は1人くらいはいたように思う。京都市の人口が200万人、一世帯あたりの人の数を5人とすれば40万世帯、その中の40分の1がピアノを家に持っているとすると京都市の家庭には1万台くらいのピアノがある計算になります。そのほかにもホールや学校のピアノの数をカウントしたとしてもせいぜいあと2000台くらいでしょうか。以上から京都市内のピアノの数を1万2000台と見積もります。

さらにピアノが調律を必要とする機会はせいぜい1年に1回あるかないか、全く調律されないピアノもあることを考えて各ピアノにつき平均2年に1回とすると, 調律を必要とされるピアノは月500台程度。一回の調律の料金が5万円だとすると, 需要は月2500万。ですから調律師個人の収入が月25万と見積もれば、100人の調律師が京都で生計を立てていけることになります。よって答えは100人。

ちなみに上の根拠にあげた数字はほとんどがでたらめです。詳しくネットで検索をしたところ京都市の人口は本当は150万人、世帯数は66万世帯らしいです。そしてどう考えても京都市内に調律師100人は多すぎる気もする。しかしこれはきちんと面接官の求める答えになっているのだと思います。正確な数字なんて調べれば分かる。この問題の本当の意図は結論にたどり着くまでにどのような根拠を立て、それを元にどのような議論をするのかにあるのです(たぶんね)。

小学生から中学生にかけて「数学とは必ず答えが厳密に求められる学問である」という考え方を植えつけられます。計算をすればすべての物事(殺人事件も含む)には1つの揺ぎ無い答えが出せる、といういわば信仰のようなものがある。そういう感覚からすれば上のような大雑把な議論が非常に頼りなく、到底数学とはかけ離れたものに見えるかもしれません。

でも大学で数学の世界に深く入っていくとこれとは全く逆の現実に気づかされます。数学(とりわけ解析学)の問題においてはほとんどの場合厳密な解を求めることなどできないのが当たり前なのです。そういう問題に対しては大まかな値を見積もるしかない。実はこのとき本質的には上の調律師の数を調べる議論と同じようなことをします。

この見積もりを数学では「評価」といいます。そして特に高校生が苦手のはこの評価の問題。きっちりと値を求めることはできても、大雑把に値を求めるのは苦手、不思議なものですがそれが現状です。一方でこの「評価」の問題は最近の東大、京大の入試問題では増えているのですよ。さすがに調律師の数は問われませんが、何年か前に東大で出題された「円周率が3.05より大きいことを示しなさい」というのはまさにそれですね。

数学は「等号(=)の学問」ではなく「不等号(≦)の学問」です。

今日の一言
数学の目的は答えを出すことではなく、答えに近づくことだ

正しい巴戦のやり方

今日数学の問題をあれこれ考えていて、面白い事実に気がつきました。相撲の優勝決定戦で同じ勝ち星の力士が3人になったときに行われる巴(ともえ)戦ってあるでしょう。最初にまず2人が対戦し、その勝者と次の力士が対戦する。これを誰かが2連勝するまで繰り返すのが巴戦のルール。

このルールは昔から知っていましたし、その対等性から考えても当然公平なルールだと思っていました。「公平」というのはもし同等の力を持つ3人の力士が対戦した場合、どの力士が勝つ確率も3分の1になるはずだという意味ね。ところが実際に今日これを計算で確かめてみて気がついた意外な事実。巴戦をした場合最初に対戦する2人の力士の方が後から登場する力士に比べて勝率が少し高いのです。具体的な計算は省いて結論だけ言うと先に試合をした力士と後から試合をする力士の勝率の比は5:4。なんと先に試合をしたほうが25%も勝率が高くなることになります。

最初は計算間違いだと思いましたが、何度やってみても結果は同じ。であれば事実と認めざるを得ません。でもどうしても腑に落ちない。何か直観的に納得できる説明はないかといろいろ考えて思いついたのが以下のものです。

自分にとって最初の試合の結果を考えてみます。仮に最初の対戦相手に自分が勝ったとすると、その後の状況に試合の先後による不公平は生じません。問題は自分が負けたときにあります。後から試合をする人にとっては最初の試合で負けるとその時点で対戦相手の優勝が決まります。負けることイコール、ゲームオーバー。ところが先に試合をする人は最初の試合を落としてもその後の成り行き次第ではまだ自分に優勝のチャンスは残されています。言ってみれば最初に試合をした人にだけ敗者復活のチャンスが与えられるようなものです。この差が先程の勝率25%の差となって現れるというわけ。なんとなく納得。

ついでながらでは公平な巴戦のやり方はあるのでしょうか。例えばくじ引きで誰が先に試合をするかを決めるという手もありますが、確率的に公平とは言え試合以外のところで有利不利が決まってしまうのは心情として納得できるものではないでしょう。もし試合の結果だけで公平に優勝を決めたいのであれば次の方法があります。

まず最初の3戦は通常の巴戦と同じ規則で行います。その時点で誰かが2連勝したらその人が優勝です。問題は3戦終わった段階で全員が1勝1敗の5分になったとき。そのときはいったん結果をすべてリセットした上でもう一度はじめからやり直します。こうして誰かが2連勝するまで試合を続ける。これなら3人の勝つ確率は平等です。(どうしてか確かめて見て下さい)。

正しい巴戦のやり方。誰か相撲協会に教えてあげてください。

今日の一言
押切、山口、篠原ともえ戦

2008年度京大数学入試の総括

今年の京大の合格発表も終わり、教え子たちからもよい報告が続々と届いております。なんだかんだ言ってうれしいものですね。

僕はやはりどうしても京大の入試問題には思い入れが強くなってしまうのですが、数学講師として2008年度の京大数学入試の雑感を述べておこうかなと思います。結論を言うと今年の入試問題はここ数年の中でも抜群に質の高いセットであったなと思います。学力試験としての本来の入試の役割をきちんと果たしているだけでなく、数学的にも興味を引く京大らしいセンスの良い出題が多くありました。

特に面白いなと感じた問題を2つ紹介しておきます。問題の意味は誰でも理解できるものなので是非考えてみてください。

理系乙の3番

空間上の1点Oを通る4直線で, どの3直線も同一直線上にないものを考える. このとき, 4直線のいずれともO以外の点で交わる平面で, 4つの交点が平行四辺形の頂点になるようなものが存在することを示せ.

分かりやすくいうとこういうことになります。1つの点から4つのばらばらの方向にレーザービームを出したと考えみてください。その4つのレーザービームかうまく当たるような場所に下敷き(平面)をおくと、そのレーザービームの光が当たった場所が下敷きの上で四角形を作るはずです。あなたはレーザービームの方向は変えることはできませんが、下敷きは自由に動かすことができます。うまく下敷きを動かすことでこの4点が平行四辺形になるようにできるでしょうか。それが必ずできることを示せというのが題意です。

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実際に動かして微調整すればできるような気はするのですが、それをきちんと証明しろと言われると難しい。初等的にも解答できますが、高校で習うある道具を使うと鮮やかに解決。その道具がいかに便利なものかがこの問題を解くと良く分かります。

もう1つは文系の5番。まさに僕の好みのど真ん中の問題です。

正n角形とその外接円を合わせた図形をFとする. F上の点Pに対して, 始点と終点がともにPであるような, 図形Fの一筆書きの経路の数をN(P)で表す. 正n角形の頂点をひとつとってAとし, a=N(A)とおく. また正n角形の辺をひとつとってその中点をBとし, b=N(B)とおく. このときaとbを求めよ.

これも具体的にnが6の場合で見れば分かりやすいでしょう。下のような図形を一筆書きしたいと思います。出発点を頂点にした場合と、辺の中点にした場合で一筆書きの方法はそれぞれ何通りあるかということです。

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この問題の興味深い点は、N(A)=2N(B)という関係式、すなわち頂点を始点とする一筆書きの経路の数が辺の中点を始点にする場合のちょうど2倍あるという関係が成り立つことです。それを鮮やかに説明する方法はないか。ずっと考えて思いついた瞬間頭がカチッと音を立てました。分かってみれば当たり前のことなんだけどね。是非トライしてみてください。ちなみに河合塾のサイトを見れば僕の作った解答を見ることができますよ。

京大の作問センスには毎年感心させられることが多いです。ちなみに河合塾の京大オープンも負けないように作ってますので来年の受験生の皆さん、是非受けてみてくださいね!

軽く宣伝でした。

今日の一言
数学のセンスは問題を解かせるより、問題を作らせた方が分かる

残像

東急ハンズでとても面白い時計を発見しました。とてつもなく高速で左右に振れるメトロノームをイメージして欲しいのですが、そのメトロノームの棒は特定の位置で特定の光り方をするようにプログラムされています。それにより棒の動いた空間に光の文字(この場合は時刻)が浮かび上がるのです。原理は理解できても、実際に目の当たりにするとその不思議さに思わず時間を忘れて見入ってしまいます(時計なのに、、)。触ることも取り出すことも、写真を撮ることもできない、いわば時間と空間の連続性があってはじめて存在しうる文字なのです。

さて、いま僕は「存在しうる」と書いたのですが、この文字が果して本当に「存在している」のかと問われると少し答えに困りますね。確かにそこにあると感じている像は、しかし次の瞬間に消え、また次の瞬間に新しく生み出されているものです。僕たちがそこに見ているのはその絶え間ない流れの中でとどまっているように見える残像でしかない。「動的な静」。この玩具に実にしっくりとはまる言葉です。

ふと最近読んだ本の中に書かれていたことを思い出しました。ベストセラーになっている「生物と無生物のあいだ」。そこには次のびっくりするような内容のくだりがあります。この「動的な静」こそがまさに生命の本質である、と。

生物というのは外部から何かを取り込んだり、吐き出したりしながら生命活動を営む「入れ物」のようなものであるというのが一般の生物観であるし、もちろん僕もそういうものであると思っていました。しかし実際はそうではないとこの本は主張します。生物を構成する要素を分子レベルでみれば、それは常に壊され、次の瞬間に作り直され、一時たりとも同じ場所にとどまっていない。つまり入れ物という固定されたものはなく、まさにさきほどの玩具のようにとっかえひっかえ現われては消える分子の残像のようなものが生物であるというのです。驚くべき価値観の転換にはっとさせられてしまいました。なるほど、であれば虚像のように見えるこの光の文字は限りなく生命に近いものなのかもしれない。

この本の著者である福岡伸一さん。理科系の第一線で仕事をしながら、これほどまでに文章がうまい人がいるということに深く感銘を受けましたね。内容も非常に興味深い。お勧めの一冊です。ちなみに名前を見て一瞬ギャンブル漫画の人かと思ってしまいますが違います。「ざわっ」とかはなし。

今日のひとこと
理科系人間こそ文章が書けるべきなんだろうな

初志貫徹

「30円プラスでお飲物をLサイズに変更できますが、いかがなさいますか。」

こんなことを笑顔で言われるとそれほど喉が渇いていなくてもついサイズをアップしてしまう優柔不断な僕です。世の中は固い意志をぐらつかせようとする誘惑に満ち溢れています。

ところで数学の世界で「モンティーホールの問題」と呼ばれている有名問題があります。今日ひょんなことからこの問題の話題になったのですが、同僚の数学の先生に聞いてみても知らない人が意外と多いみたいです。なかなか興味深い問題なので紹介しておきますね。

■問題■

3つの箱が並べられており、その中に1つだけ景品の入った箱があります。あなたはテレビ番組の出演者でその景品の入った箱を当てようとしています。あなたは迷った挙句に箱のうちの1つを指差します。

そこで司会者は番組を盛り上げるための演出としてあなたが選ばなかった2つの箱のうちの1つを開け、それが空箱であることを示します。そしてあなたに悪魔のささやきをするのです。

「さあ、あなたは自分の選択をここで変えても構いませんよ。そのままの箱でいきますか。それとももう1つの箱に変えますか。」

さて、あなたはどうするべきでしょうか。

■ ■ ■ ■

この問題の答え方は次の2通りのどちらかになるでしょう。


1. そのままの箱でも別の箱に変えても当たる確率は全く変わらない。(それならば最初の箱のままでいい。)

2. 箱を変えたほうが当たる確率は高くなるので選ぶ箱を変える。

さあ、どちらだと思いますか。

この問題はかなり数学ができる人でも、いやむしろ数学ができる人ほど誤った答えを選んでしまう曰く付きの問題です。何を隠そうこの僕も最初にこの問題を聞いた時は何の躊躇もなく間違った答えをしてしまいました。

では答え。

答えは2の「選ぶ箱を変える」が正解。選ぶ箱を変えたほうが何と当たる確率が2倍も高くなります。この答えを聞いて意外な印象を受けた人は多いのではないでしょうか。

「初志貫徹」。周りの意見や途中の過程に惑わされず最初から最後まで一つの意志を貫いたほうが最終的には良い結果をもたらすという考え方が昔からあります。精神論としてはともかく、純粋に数学的に見たときこれが必ずしも正しくないことがあるのは興味深い事実なのです。

もうひとつこのような例も。通称、やぶ医者問題(笑)。

2種類の医薬品A, Bがありそれらの薬が患者に対して効く確率がそれぞれa%, b%であったとします。あなたは医者であり、やってくる患者に対してどちらかの薬を処方しますが、そのとき次のような方針をとります。「直前に患者に処方した薬がもし効いたならばその薬を次も使い、効かなかったのなら別の薬に変える」。さて、これを続けた場合あなたが処方する薬が効く確率は平均何%になるでしょうか。

感情的にはこんな究極の日和見主義がうまくいくはずがないと思ってしまいますが、数学的には成功率はa%とb%の平均(a+b)/2%よりも必ず高くなることが分かっています。それぞれの薬の効く確率が未知である場合にはこれは決して「悪くない」方針と言えるのです。

コーヒーか紅茶かが決められない、環状線で内回りで行くか外回りで行くかを迷ってしまう、街角アンケートを断りきれない、そんなあなたに朗報です。優柔不断だって数学的には立派な戦略のひとつなのです。

今日の一言
ラーメンセットにはチャーハンか、それとも天津飯か。

ランダムと公平

通勤の時はiPodに入っている曲をランダムに再生させて聴いています。1日に再生する曲は大体30曲くらい。一度再生した曲目はメモリーに残され同じ日に同じ曲を聴くことがないようになっていますが、メモリーは充電するたびにリセットされるため、次の日に再生するときには前の日と同じ曲がかかる可能性はあります。とは言え入っている曲は1000曲以上。確率的には2日連続で同じ曲を聴くことなどほとんどないといっていいはずです。

ところが経験上、あれ、この曲昨日も聞いたような、、ってことはかなり頻繁にあるのです。その頻度は明らかに偶然というレベルを超えている気がする。そうなると本当にiPodはランダムに曲を選んでいるのか疑問を感じないわけにはいきません。実は何らかの内部規則に則って曲を選んでいるため、特定の曲が再生されやすくなっているのじゃないだろうかと。

ここは数学講師らしく計算で確かめてみることにします。仮にiPodに入っている曲がちょうど1000曲であったとし、その中から毎日30曲ずつ無作為に抽出して再生したとして、前日と同じ曲が少なくとも1回再生されることはどのくらい起こりえるのか。簡単な確率の問題ですがはじき出される結果は実に驚くべきものになります。前日と同じ曲を聴いてしまう確率はなんと

60.45%

にわかには信じがたい結果です。「めったに起こらない」という当初の予想自体が完全に見当違い。むしろ起こるほうが当たり前だというのです。直観と現実のあまりの乖離に愕然としてしまいます。

このような錯覚が起るのはランダム、無作為という言葉に僕等がある種の「公平さ」を見ようとしてしまうからではないかと思います。実はこれは大きな勘違いなのです。例えばこんなシミュレーション。裁判員制度では国民の中から全く無作為に裁判員を選ぶことになっているといいます。仮に1000人の中から裁判員を10000回選ぶことになったとすれば、全員がまんべんなく10回前後選ばれることになる、というのが僕等の考える「公平」でしょう。もしある人が20回以上選ばれたり、逆にある人が1回しか選ばれていないことが起こるならば誰もがそれは「公平ではない」と思い、そこには何らかの人為が働いているのではないかと疑うはずです。ところが実際にそれをシミュレーションしたグラフは次のようなものになります。

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横軸が選ばれた回数、縦軸は人数を表しています。まさしく先に述べた不公平な偏りが完全な無作為によって生み出されてしまうことが分かるでしょう。自然の前に万人は平等だといいますが、その自然をつかさどる無作為とはいかに公平とかけ離れたものであることか。もしこのような偏りがない真に「公平」な状況が生まれたのならそれこそそこに必ずなんらかの人為が働いているとみるべきなのです。

真の「公平」や「平等」は人為なくしては生まれない。そこにこそ政治の果たす役割があると言えるのでしょうね。

今日の一言
自然は出来杉とのび太を同時に生む

素の数

27日付の米紙ロサンゼルス・タイムズは、1とその数字でしか割り切れない「素数」について、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の数学者が8月に1297万8189ケタというこれまでで最大の素数を発見したと報じた。

というニュースがmixiニュースにピックアップされていました。数学のニュースがトップページに出るということ自体なかなか珍しいですね。数学と無縁の人にとっては一読の後0.5秒で忘れ去られるようなニュースですが、でもひょっとしたらこれは数学界を揺るがす大発見なのでは?と無理やり胸ときめかす人もいるかもしれませんね。身も蓋もなく言ってしまえばこの発見はせいぜい整数論の教科書の脚注に1行掲載されるかされないかくらいの意味しかありません。すでに紀元前にユークリッドという数学者が「素数という数が無限にたくさん存在する」ということを数学史に残る見事な手法で証明しています。ということはどんなに大きな素数を見つけてもそれは終着点ではありえないわけで、「最大の素数」を見つけることに数学的な価値はほとんどないのです。

しかしこのニュースが記念碑的な意味を持つのは素数はその性質上、数が大きくなればなるほど存在する確率は極めて薄くなっていくからです。1000万桁を超える整数の中に素数を見つけだそうという作業は、サハラ砂漠に落とした100円玉を探す作業より、あるいは「さみしいので今から会えませんか」という人妻からのメールの中に本物を見つけ出そうとする作業よりさらに何百万倍も難しいものなのです。さらに本質的な点は、ある数が「素数であるかどうか」を判定すること自体が数が大きくなればなるほど飛躍的に難しくなること。素数かどうかを判別する最もシンプルな方法はその数より小さい数すべてで割り切れるかどうか調べることなのですが、それを巨大な整数に適用しようとすると現代の最速のコンピューターを使っても地球の寿命より長い時間がかかってしまいます。今回の発見は比較的素数の判別がやりやすい特定の形の素数に候補を絞り何台ものコンピューターを駆使して基本的にはしらみつぶしに調べることによって得られたものだそうで、上記の2つの困難を乗り越えた稀有の例ということになるでしょう。そういう意味では数学者にこのトピックをふれば、どこかの農家でエロい形をした大根が収穫されたというニュースを聞いたときの大塚さんくらいのリアクションは得られると思います。

一見ランダムのように見えるものの中に現れる規則に美しさを見出すのは数学の大きな魅力の一つですが、素数の持つ魅力はその全く逆。小学生でも、いやおそらく数という概念を持つ他の星の生命体であっても分かる単純な規則にも関わらず、先に進めば進むほどその全体像がつかめなくなるのです。ランダムであるであるが故の美しさ。人智を超えた神秘を感じないわけにはいきません。

今日の一言
今日の飲み会、素数の話題はNGで
(数学科のコンパでのリアルな会話)

ノーベル賞

先日、久しぶりに京都大学に行ったとき、キャンパスがやけに活気付いていると思っていたら、ノーベル賞を受賞した益川さんが来ていたようです。理科系の人間にスポットが当たる機会というのはなかなかないことなので、一時的な現象であるとは言えこのフィーバーは喜ばしいことです。しかもどの受賞者もキャラクターとして立ってるしね。クラゲをこよなく愛したとか言われている下村さんはおそらくクラゲからは相当恨みを持たれているだろうなあとか、場の非対称性より小林さんの髪型の非対称性の方がよほど気になるなあとか、テレビを見ながらいろいろ突っ込んでいます。

数学や物理学の成果はなかなか一般の人に説明することが難しいものです。「いやあ、難しい話で全く理解できません。」と苦笑いしながらいうキャスターにある科学者がこんなことを言っていました。

「理解できないのは当たり前です。でもその理解できないという気持ちを持ち続けることが大切なんです。」

なかなか核心をついた言葉だなと思いました。

携帯電話の機能を自由自在に使いこなせる達人も、携帯電話の裏蓋をパカッと開けて中身を見たとたん、そこには気の遠くなるような「分からない」が満ち溢れているわけです。でも普通の人はそこでそっと蓋を元に戻して見なかったことにしちゃう。そのほうがよっぽど平穏無事に生活することができます。ところがそれができないのが科学者という人種なのですね。

携帯電話の中にある小さな部品、たとえばコンデンサーやメモリー、CPUやらの役割を一通り網羅したとしても、さらにコンデンサーの蓋を開ければそこにまた新たな分からないが待ち構えています。コンデンサーの中に電子が、電子の中に素粒子が。蓋を開ければ開けるほど「分からない」「分からない」が次から次に飛び出してくる。その「分からない」の最前線で仕事をしているのがノーベル賞を受賞しているような科学者なのだと思います。「分からない」こそが科学者を動かす原動力であり、「理解した」というのは科学者にとって妥協の言葉でしかないんじゃないだろうか。

「分からないですね」と自嘲気味に笑い、次の瞬間にはきれいさっぱり忘れて次のニュースを読み始めるキャスターも、付け焼刃の知識と尤もらしい解説で視聴者を納得させようとするコメンテイターも、結局はどちらも蓋をしてしまってるのです。分からなくて当然、その分からないことこそ大切にしろという科学者の言葉が僕には一番尊いものに思えますね。

今日の一言
理解したらその時点で試合終了ですよ

イラストレーターで正確な放物線を作図する方法

テキストや模試を作る仕事には印刷屋さんから戻ってきた原稿を何度も校正するという過酷で非人間的な業務も含まれます。僕にとっては不毛な会議と偉い人の話の次くらいに嫌なことなのですがこれも仕事なので仕方がありません。何かのプリントの裏紙に手書きの文字で書きなぐられた、まだハムラビ法典の方が読みやすいんじゃないかと思えるほどの解読不能文字を、毎回印刷屋が見事に文字におこしてくれるのを見るたびにプロの仕事の素晴らしさをつくづく感じてしまうのですが、ただひとつ、気になってならないことがあります。高校数学の挿絵で頻繁に登場する放物線や3次関数のグラフ。戻ってきた原稿を見て思わず笑ってしまうくらいとんでもない代物が印刷されていることがあるのです(下図)。

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長く数学に関わっていると正しい放物線や3次関数を見分ける微妙な感覚がついてきます。そうなるとこういう変なのをみると首の内側がむずむずしてたまらなくなります。それっぽいんだけどなんか違うよー。ドラえもんとうまい棒の変なキャラくらい違うよー。実のところ、こういう「とんでもグラフ」は出版されている本でもたまに見かけることがありますね。

印刷屋とは言え数学のプロフェッショナルではありませんので、図をおこす時には基本的には手書きの図を見ながらそれっぽくなるようにトレースしているのでしょう。この辺りは毎回涙ぐましい苦労の跡ががうかがえます。でも、そもそも原稿に書いてある図がいい加減なのですから、それをなぞっていけばそのいい加減がそっくりそのままコピーされるのは自明の理。まあ、これについては職務に忠実な印刷屋を責めるのは酷というものですね。

そもそもIllustratorのような高機能なソフトに放物線のような基本図形を簡単に作図する機能がないというのは大きな問題ではないかと思います。放物線なんて左右対称なお椀形の曲線を描けばいいんだから簡単じゃないかと思っている人も多いようですがそれは大きな勘違いですよ。すべての放物線は縦横に伸び縮みさせることでぴったりと重ねることができるという意味において、数学的に「正しい」放物線はたった一つ。ですから正しい放物線の描き方もたった一つしかありません。繁華街で弾き語りをしているほとんどの長渕剛が偽者であるように、世の中の出版物を席巻しているほとんどの「放物線のような曲線」は偽物と考えて間違いないでしょう。

という訳で今日は珍しく時間に余裕ができたので、表題にあるように「イラストレーターで正しい放物線を描く方法」を考えてみました。正確にはほとんどのイラストソフトで採用されている「ベジェ曲線」を用いて放物線を描く方法です。今日初めて勉強したのですが、ベジェ曲線の数学的背景って意外とシンプルなんですね。非常に面白い。理屈が分かればこっちのもので後はMuPADなどの助けも借りて、放物線と3次曲線を正確に作図する方法を見つけることができました。以下の方法でできるのは「それっぽい」というレベルではなく数学的に完全に正確な曲線です。

作図する前に「グリッド」を表示し、ポインターを「グリッドにスナップ」するようにしておくといいです。どちらも3×3のグリッドを使って作図します。下図において制御点がA、B、C、Dになるようにベジェ曲線を作図します。イラストレーターではペンツールでまずA点からB点にドラッグし、その次にD点からC'点にドラッグすることになります。 このようにしてできるのは左がxの2乗の、右がxの3乗のx座標が0から1の間の曲線です。ほんの少しの操作の違いで描き分けられるのが面白いですね。これを雛型とします。

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放物線の場合、できた雛型は放物線の右半分ですので、それを左右反転してコピーし連結させればOKです。が、こんな裏技もあります。イラストレーターの「シアー」というツールを使って先程の半分の放物線を下図のように45度歪めると、、なんと左右対称な放物線になります(数学的にいえばシアーはxの1次の項を加えることに相当します)。後は先に書いたとおりこれを左右に伸び縮み、あるいは上下反転させることでどのような放物線も作ることができます。



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3次関数の場合はもう少し手間が必要です。3次関数の形状によってシアーの方向を変える必要があります。シアーする角度は下では30度としましたが、この大きさは何度でも構いません(これもxの1次の項を加えていることに相当しています)。

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後はこれをコピーし回転させて連結させれば下のようになります(3次関数は点対称なグラフです)。こちらも左右の伸縮および上下反転によりどのような3次関数のグラフにも重ねることができます。

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調子に乗って他の数学曲線はどうなのかと考えてみたのですが、ベジェ曲線が3次多項式であらわされるパラメータ曲線だということから、4次以上の曲線やサインカーブといったものを正確に作図することは原理的にはできないことになります。今日気づいた面白い事実は最も単純な図形の一つである「円」も実はベジェ曲線によって「近似されている図形」に過ぎないということ(円を有限次数の多項式でパラメータ表示することは不可能)。ベジェ曲線の持つ意外なジレンマです。

今日一日の勉強でも書きたいことは山ほどでてきますが、これ以上やると数学アレルギーの人が発作を起こしてしまう可能性があるのでここらでやめておくことにしましょう。数学に詳しい皆さん、もし間違っていることがあればぜひフォローお願いします。そして、印刷屋の皆さん、もしこれを見るようなことがあれば次からは是非よろしくお願いします。

今日の一言
完璧な円なんてものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。

春樹風に

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