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特急での事件について思う

先週、特急の車内で女性が暴行を受けるというニュースがありました。女性は40名ほどの一般の乗客が乗っている車両から無理やり連れ出されたのですが、犯人に脅され誰一人男を制止することは、もちろん警察に通報することすらしなかったそうです。ニュースは暴行事件そのものよりも、むしろこの乗客の態度について問題視する意見を取り上げていました。

「目の前で女性が連れ去られるのをどうしてなにもせずに見ていられるのか。」
「乗客がスクラムを組めば制止することなんて簡単にできたのではないのか。」
「百歩譲ってできなかったとしても、何故車掌に連絡したり、警察に通報することができないのか。」

この40名の乗客の態度について批判できる点は山ほどでてきます。ただね、僕がこの事件のニュースを聞いて少しつらくなったのは、自分がこの場に居合わせたとしたら、ひょっとしたら他の40人の乗客と全く同じことをしていたのではないかと感じてしまったからです。僕も電車通学、通勤が長いので、さすがに暴行事件とまではいかないまでも、酔っ払いが見ず知らずの人にからんでいたり、もっと小さなことで言えば、学生が電車の中で大声で騒いだり、子供が電車の中で走り回っているのに多くの人が迷惑をしているという場面にそれこそ何度も出くわします。そのたびに僕がむかむかしてしまうのは、迷惑をかけている人に対してが半分、もう半分はそれに対して何一つ言葉を出せず黙ってそれを見てしまっている自分に対してなのです。ついそのときの自分を特急の乗客に重ねて見てしまいました。

一人の女性を救うことができなかった40人の人間が責められる点は確かに多いでしょう。しかし、客観的に状況を把握できている今だからこそそんなことは言えるわけで、その場に居合わせなかった僕たちには分からない空気がその車両にはあったに違いありません。男の素性も分からない、凶器をもっている可能性、テロによってたった一人の人間が多くの人命を簡単に奪えるという恐怖も頭をよぎったはずです。そういう想像力が密閉された空間の中で増幅されることは起こりえます。家庭があり、仕事があり、それぞれに守るべきものを持っている人間が、その身を捨てて誰かのために立ち上がるということがどれほどの覚悟なのか、その覚悟があるかと問われれば今の僕には多分ないと思う。僕は絶対にそのとき臆病になって何一つできなくなると思うのです。

例えば誰か一人の命と
引き換えに世界を救えるとして
僕は誰かが名乗り出るのを待っているだけの男だ
愛すべきたくさんの人たちが
僕を臆病者に変えてしまったんだ

Mr.Childrenの「Hero」という歌の一節です。この事件を単に社会の薄情さや人間関係の希薄さを投影するニュースとして扱って欲しくはないなと思います。きっとそこにいたすべての人の中で想像できないほどの葛藤が存在したはずだし、そして結果として起こってしまった事件に多分一生癒えないほどの後悔を感じている人もいるに違いないと思うのです。このニュースを聞いてするべきは、全く同じ状況に遭遇したとき、自分がいったい何ができるのかと考え、その覚悟を持つことです。

今日の一言
心があるからこそ人は臆病になる

安全ってなんだ

今回のエキスポ事故、報道番組を見ていて繰り返し耳にしたのは、
「楽しいはずの連休」
「安全なはずのジェットコースター」
という言葉です。連休が楽しいかどうかは個人的な問題だと思うのですが、まあそこは100歩譲ってよしとしても、曲がりくねったレールの上を細いバーだけに体を委ね、何十メートルの高さから落下させられるような乗り物は「安全なはず」という言葉とは最も遠い存在のような気がしてなりませんね。あんな乗り物にお金を払ってまで乗る人がいるなんて正気の沙汰とは思えません。僕が思うに遊園地で安全なはずと言い切っていいのは「マイナス40℃の世界」だけです。寒いけど。

最近何か事故が起こるたびに繰り返される「安全なはず」という言葉、

安全なはずの電車で
安全なはずの飛行機で
安全なはずのエレベーターで
安全なはずの公園の遊具で

じゃあ、この日本で「安全なはず」ではない場所がいったいどこにあるのだろうと逆に考えてしまいます。

たくさんの乗客があふれる朝のホーム、特急電車がものすごい勢いで通り過ぎていく隣を人は平然と歩いています。そういう光景を見ると僕たちの日常生活の中に、それこそ手を伸ばせばすぐに届く距離に死があるんだってことを感じないではいられません。「安全なはず」なんてのは盲目的な信仰みたいなもので、実際目を開けて周りを見回せばジェットコースターなんかよりずっと危ういバランスのもとに今の自分が生きていることに気付くのです。

「日本人は安全と水はただで手に入ると思っている」

とはイザヤ・ベンダサンが著書「日本人とユダヤ人」の中で書いた名文句。安全は実は奇跡的な秩序の上に保たれていて、そしてそれは誰かの努力によって維持されているのだということを忘れちゃだめですね。

今日の一言
「安全」の反対語は「危険」ではなく、「不安」だと思う。

またしてもFake

めざましテレビを見てたら、あのディズニーの有名なネズミと微妙に似ているキャラクターが登場するパレスチナの子供番組をやってました。そのネズミが少女に向かって
「モスクを解放するぞ! イスラエルの占領に対して抵抗するぞ!」
とか言ってるのです。

この地域の問題の根深さを考えれば笑い事ではないのだろうけど、僕は笑ってしまいました。これはパクリなんじゃなくて、シュールなコメディーとして立派に成立してるんじゃないの。「できるかな」のゴン太君とのっぽさんが大量虐殺ごっこをするというテレビすれすれのネタをラーメンズがやっていたのを思い出しました。中国の石景山遊園地も「耳の大きな猫」だなんて苦しい言い訳するくらいなら、あのキャラたちを集め、「It'a a small world」を流しながらエレクトリカル反戦デモとかやればものすごい社会風刺になるのにね。

中国の開き直りを見て、あんなことは非文明人のやることだなんて散々馬鹿にしてますが、文明が発達したこの日本で瓜二つの絵を「共同制作だ」と言い張った立派な画家さんがいたのをお忘れなく。この手の問題って規模の大小はあれ歴史、文化を問わず常にどこにでもありますね。16世紀に三次方程式の解の公式をめぐって繰り広げられたカルダノとタルタリアの争いは数学史に残る盗作騒動ですし、ジョンレノンが「Come Togheter」のメロディーを盗作と訴えられて「すばらしいものを盗んだんだから何が悪いんだ」と開き直ったのも有名な話。

表現のあるところには盗作あり。僕も表現者である以上、盗作問題には十分慎重であるべきなのですが、ひとつ言えることは何かをパクったとしても、重要なのはその上にどんな価値を加えたかってことなんだな。中国の遊園地は単なる劣化コピーなんだけど、ハマスのテレビ番組はそこにメッセージを乗っけたのだから(内容はともかく)表現としては大いにありだと僕は思う。加えられた価値が圧倒的に優れているときは、ジョンレノンみたいに最終的にオリジナルを凌駕してしまうことだってあるのです。盗作も一つの文化なのかも。

最後に一つ。中国の遊園地の客がインタビューに答えて言った言葉
「何の問題があるの? 私たちが楽しんでいるんだから。」
とんでもない暴論とは言え、僕はその中に一分の理はあるような気はしています。

結局表現って誰のためのものだ。

今日の一言
松本零士と槇原敬之が争っているその「時間」は子供たちの「夢」を裏切り続けていると思う。

隠れた銃社会

若い警官が銃で殺された先日の立てこもり事件で、拳銃が僕らの想像以上に日本社会に浸透している現実が見えてきました。銃先進国アメリカの状況を見れば、銃を持つことはどう考えても安全な社会を保障してくれるものではない、これは子供にだって分かります。ではこんなシミュレーション。明日から日本の法律が変わり、誰もが販売店にいき正規の登録手続きを踏めば銃が手に入ることになったとして、果たしてどのくらいの人が銃を手にするようになるのでしょうか。

僕の勝手な想像では10年もすれば日本のほとんどの家庭に銃が置かれる状況が生まれるんじゃないかな。銃ってのは持つ人に対して持っていない人の方が絶対的に不利という状況を生み出すでしょ。例えば2人が向かい合って命のやり取りをするという状況になったとき銃を持つ人持たざる人の差は歴然です。そういう状況が実際にどれほど起こりうるかという議論はここでは横に置かれます。そうなる可能性が0.01%でもあるという事実が重要になる。

おそらく最初の何年かは銃を持つのはそれを本当に必要とする一握りの人たちだろうね。銃を持つことを頑なに拒む人もいるでしょう。しかしある時、銃を持っていなかった無実の人が凶弾の犠牲になるなんてニュースが社会を騒がせる。銃に関するビジネスも生まれ、銃の必要性をテレビのコマーシャルが言葉巧みに訴えるかもしれないね。そうするとじわじわと銃を持つ人が増えてくる。過半数を超えた辺りから銃人口は急激に加速するだろうね。銃を持っていない人の方が少ないという状況、自分が多くの人に対して圧倒的な不利な立場にあるというプレッシャーに果たしてどれほどの人が耐えられるだろう。どんな頑固な人だってもう持たざる得ないという状況になるよ。絶対。安全を求める個々の人々の合理的な行動がいつの間にか社会全体を危険なものに変えてしまう。ゲーム理論に登場する囚人のジレンマみたいに。

非現実的な話だと馬鹿にされるかもしれないけど、僕は上に書いたのと全く同じことが起こった一例が「携帯電話」だと思う。ためしに上の文章の「銃」を「携帯電話」に置き換えて読んでみるといいです。ほら、ほぼ違和感はないでしょ。もちろん銃と携帯電話を同列に論じるのは乱暴だけど、ここで言いたいのは大多数の人をつき動かしているのはどうしてもそれが必要だという差し迫った要請ではなくて、もっと漠然とした「不安」なんではないかってこと。まず「不安」が伝染病みたいにパーって広がって、それに覆いかぶさるみたいにして社会の枠組みが大きく変わっていくなんてことがある。これってひょっとしてすごく怖いこと?

今の社会は本当にさまざまな不安で満ち溢れてます。テロの不安、食の不安、将来の不安。でもそんな不安をいたずらに煽り立てるような言葉には十分慎重になって、そこで考えるべきなんだと思う。その背後に銃社会なんかより怖いものが待ってるのかもしれないから。改めて我に返って振り向いたときに、こんなものなかったほうが僕らの社会はもっと安全で豊かだったんじゃないかって思うことになるのかもしれないのです。

今日の一言
時代に逆らう勇気

赤ちゃんポストについて思う

これについてはずっと何かを書こうかなとは思っていたのですが、僕にとって一番難しいテーマですね。子供がいるわけでもないし、個人的には子供より犬の方が百倍も可愛いと思ってる僕ですから、それほど感情が動いているわけでもない。だからと言って客観的な視点で倫理的にどうのこうのなんて書くのもねえ。もし「倫理」や「道徳」に感情があるなら、僕にだけは語られたくないと思ってるね、絶対。でも無理にでも切り口を見つけて自分なりに何かを書くってのが今年自分に課した義務。とりとめのない文章を始めてみます。

まず「赤ちゃんを捨てる」という行為は人間としてのタブー、というより「哺乳類」としてのタブーだな。これは揺ぎ無い。子を産み育てることは我々人類が「魚」や「かえる」ではないということを保証する最大のアイデンティティーと言ったって構わないです。歴史上人間が作り上げたコミュニティーにおいて「子捨て」が容認されたことは一度たりともないんじゃないかな。では、「子捨て」は人間性を失いつつある現代人だけがもつ特有の病なのかっていうと、うーん、そんなことは絶対ないと思うな。身勝手でどうしようもない人の業なんてギリシャ神話や日本書紀にだって描かれてる。今の日本人は性に奔放になったなんて言うけど、日本が世界に誇る古典文学「源氏物語」を読んでいただければ、清く正しく慎ましやかな古の日本人がどれだけ性を謳歌していたかはよく分かります。人間の本性なんて洞穴に住んでいたころから良くも悪くもそんなに変わってないと思うんだよね。いついかなる時代においても子捨ては社会のタブーとして、しかし確かに存在したんじゃないだろうか。経済的な理由を考えれば昔の方がはるかに多かったかもしれない。

「悪いことしたら裏山に捨てにいくわよ」って子供のころよく怒られました。ちなみにこれが京都だと「鴨川に捨てにいく」になるらしいです。地域性が出るのが面白いけど、この手の叱り文句ってきっとどこにでもある。親にあんまり顔が似てないと「あんたは橋の下で拾ってきた子だから」と冗談交じりに言われることもありますよね。言葉のあや、とは言えこのような表現の裏に、昔はそういうことが実際によく行われていたことの名残を見るのは強引ではないと思う。それほど遠い過去ではないかつての日本においても「子捨て」は、肯定されることは決してないにしろ、天災や病と同じように日常に起こりうる悲劇の1つとして受け止められていたのではないのかという気がします。裏山や川のほとりはそうした社会の暗部、矛盾の受け皿としての役割を担っていたのかもしれません。

近代ってのは結局そういう人間の持つ矛盾を全て否定しようとしてきたんだと思う。汚い物は地下に隠し、臭いものには蓋をして、布にシュシュッとファブリーズ。無色無臭の清潔な建物の中で涼しい顔してるけど、人間の醜さや残酷さはどんなに否定したってなくなるもんじゃない。

「子供を育てる責任を放棄することは断じて許されない」って安倍総理の言葉、これは正論。それは違うなんて誰も言えません。でもそれって「地震は決して許されない」「病気に断固反対します」って言うのと同じくらいの空虚な言葉なのかもしれない。「起こってはいけない」ではなく、それは「起こりうるものである」という立場に立つべきなんじゃないかな。「ありえない」「許せない」で思考を止めていたらこの議論は一歩も前に進まないよ。社会の矛盾を覆い隠すことで「美しい国」を取り繕おうとしてるように見える安倍さんの言葉よりも、人間の闇を知り、それでもなお目をそむけずになんとか打開策を見出そうとしている熊本慈恵病院の先生の言葉の方が僕にとって遥かに強いし、説得力を感じてしまうのです。能書きより先に行動できるこういう医師こそ本当に尊敬されるべき人なんだと思うなあ。

もちろんこの「赤ちゃんポスト」が問題を改善する手段としてどうなのかは全く別の問題だけど、これに関しては今行われていることのもたらす結果を冷静に観察するべきなんだと思いますね。

今日の一言
「悪いことしたら捨てに行くわよ!」って場所が今の世の中にはないのかも

投影

新しい物事に出会ったとき、それに対処するために今までに自分が体験したことや誰かから聞いた情報の中から似たような事例を探し出し、それを判断の基準にすることが良くあります。大人になって膨大な情報を短時間で手際よく処理することが求められるようになると、どうしても必要な資質になる。一列にずらりと並んだ問題に対して、これはこういうタイプ、こっちはこういうタイプみたいに分かりやすくラベルを貼り付けていくようなことがね。でもこういうのってよくよく注意しないと情報を吟味しないまま勝手な先入観をそこに投影させ、実態とはかけ離れたイメージを自分の中に作り出すことにもなりうる。

僕にとって身近な例をひとつあげると、たくさんの数学の答案を採点しているときに、答案を見て真っ先に頭に入ってくる情報って「内容」よりも「字のきれいさ」なんですよ。ただ「字がきれい」というだけで几帳面で聡明で性格までもが最高にいい人みたいなイメージが頭にできてしまう。そんな素敵な人が間違ったことを答案に書くはずがないと信じたくなっちゃうのですよ。逆に小学生みたいな稚拙な字で書きなぐられた答案をみるとそこに正しいことなんてひとつたりとも書いているはずがないと思えてくる。もちろん実際ちゃんと目を通してみるとそういう先入観が全くあてにならないことはすぐ分かるんだけどね。

高校生を平手打ちした警官に対する賛否が話題になっていますが、これだって僕らに伝わっているのはニュースからの断片的な情報だけで、実際のところその詳細はほとんど分かっていません。にもかかわらずこれほど警官を応援する人が多いのは、知らず知らずのうちにその高校生に「自己中心的で無軌道な若者」を投影し、警察官に「毅然とした態度の大人」を投影してしまう人が多いからなんだろうな。裏返せば世の中にいかに自分勝手な若者が多く、それを注意できなる大人が少ないかってことの表れでもあるんだけど。

人はときどき物事をあるがままにみるよりも先に、そうであって欲しいという目でみようとするものなのかもしれない。

今日の一言
1を聞いて10を知ったつもりになる

弱者の言葉

これは決して特定の事件や特定の人物を指して書いているわけではないので、その点は誤解しないで欲しいのだけど、幼い命が犠牲になる残忍な事件が起こったとき、よく被害者の両親のメッセージや手記がニュースで読み上げられることがありますよね。僕はあれが本当に苦手です。特に犯人や犯行現場の映像を背景にナレーターがちょっと感情を押し殺したようなわざとらしい声で朗読したりするのには寒気さえ覚える。どうしてなんだろう。それは内容に対してではなく、多分そこに否応なく生まれてしまう空気に対してなんだろうと思う。怒りや悲しみ、共感を有無を言わさず押し付けてくるような空気、それに対する嫌悪感なんだろうな。

何の非もない100パーセント弱者の立場にある人の言葉は、そうであるが故に、誰も反論できない空気を作りだすでしょ。そういう言葉は時に絶対的な力を持ってしまうのですよ。本人が望むと望まざるに関わらず。もちろん被害者の遺族にはなんの非もありません。そこにこめられてるのは僕の想像できないほど悲痛な心からの叫びに違いないのです。でもそんな純粋で自然な感情がひとたびメディアに乗り、ある種の権力を持つことで全く異質なものに変わってしまう、そんな気がしてならないのです。それはアメリカを戦争へと駆り立てる世論を作った空気にも通じるものかもしれない。

何かの事件に対してその概要が報じられれば、それぞれの立場、それぞれの想像力で遺族の気持ちを推察することはできる。それで十分なんだと思う。メディアが必要以上に扇情的に報じようとするその言葉に対しては、僕らはすっと一線を引くべきなんじゃないだろうか。

今日の一言
正しい言葉を発する時ほど十分慎重でなければならない

カウントダウン

今年の10月は郵政民営化がスタートしたり、京都市でもごみの分別が始まったりと何かと新しいことが多いですね。今朝は関東地方で比較的大きな地震があった直後に「緊急地震速報」というシステムが華々しく始動。タイミングがいいのだか、悪いのだか。

この「緊急地震速報」は新潟県中越沖地震の折にテレビで頻繁に取り上げられたのをきっかけに知るようになったのだけど、あのとき見た報道では確か地震到着までのカウントダウン表示が出るという話だった気がします。「地震到着まであと8秒,7,…3,2,1」みたいな感じで。でも今日の報道を見てたらテレビの速報ではあのカウントダウン表示は出さないようですね。パニックが起こることを警戒しての配慮でしょうか。

このカウントダウンの報道を最初に見たときについ思ってしまったことなのですが、地震が発生しテレビの画面の端にあんなカウントダウンが現れたとき、たまたま見ていた番組がバラエティーだったらすっごい信憑性ねえだろうなって。「…3,2,1」の直後に絶対CMに入りそうな気がしてしまうもんね。テロップで「CMのあと、とんでもない衝撃が!」。で、CMあけたらまた8くらいからカウントしなおしたりするのですよ。きー!!

まあ、そんなわけはないと。地震にスポンサーがついてれば別だけど。

ある日突然やってくる天災に備えて、与えられた数秒で何ができるのかを日ごろからよく考えておかないといけませんね。

今日の一言
CM前の「衝撃の結末まであと5秒」って完全に嘘じゃねえかよ!

特にないです

【とくにないです】: 拒絶語

言うことはあっても言わない、あるいは言いたくないときに使う言葉。有無を言わさず話題を次に進めさせることができる。相手の質問にすかさず覆いかぶせる感じで、また質問者を多少にらみ付けながら発するといっそう効果的。

ただし、言うことが本当にない場合にも使うので注意すること。

使用例
「池田先生、何か意見はありますか。」
「特にないです。」

類語
「別に...」

例のエリカ様騒動、邦画にあんまり興味を持ってなかった僕も、このお方がどういう演技をするのか見たくなってしまいましたよ。プロモーションとしては大成功かも。

試写会での舞台挨拶って監督や出演者にとって正直うざったいと思いますよ。映画を見終わった客にその映画の見所とか苦労したところとかを説明するのって、ジョークを言った後にその面白さを解説しなきゃいけないみたいな気分なんだろうな。どこかの映画監督が「この映画で伝えたいことはなんですか」と尋ねられ、「それが言葉にできるくらいなら私がこの映画をとる必要はありません」と答えたそうです。それゃその通りだ。

うまくいった映画ならまだいいけど、関係者自身も「この映画は失敗だったな」って思っているときは絶対あるはずです。見終わった観客も当然「つまらない」と感じていて、そういうときの舞台挨拶って悲劇だよな。出演者も観客も全員が無理してテンションあげてんの。"いいとも"でさしてトークが盛り上がらなかったゲストがお友達を紹介するときの観客の「えー」みたいな、あの痛々しい空気ですよ。仕方がないから撮影の裏話とか出演者の仲良しアピールとか映画の内容とは関係のないところで盛り上がったりして。そうなるともうこれはいったい何のためにやっているのかと思わざるをえない。

映画の内容が気に入らなかったのか、空虚なやり取りに嫌気がさしたのか、単なるわがままか。彼女の真意は分からないけど、なんかちょこっとだけ同情してしまう気持ちもありますね。

月並みなまとめだけど、プロモーションの派手さが興行成績に結びつくような安易な構図がなくなり、映画が純粋にその内容で評価されるように受け手側も見る目を養っていくべきなんだろうな。主演女優が映画を酷評したって、観客が監督に対してブーイングしたっていいのが映画文化の本当の成熟だと思います。

今日の一言
ノート言ったエリカ

命の取引

物でもサービスでも何らかの恩恵を受けようというとき、それに釣り合うだけの代償を出さなければならない、というのが経済における等価交換の原則であり、普通の場合お金を支払うことがその代償になります。しかし考えてみるとお金の持つ価値というのは間接的なものです。お金のやり取りとは「将来に何かを得ることができる機会」のやり取りと言い換えてもいい。そう思ったときお金が代償となりうるためには2つの前提条件が必要なことに気づきました。1つはお金の持つ価値について共通の認識が常に存在するという前提、日本の発行するお金であれば日本という国への信頼ですね。しかしあるいはそれ以上に大切な前提がもう1つ。今後自分に生きていくべき明日があるという前提です。

お金を払って自分の命を見ず知らずの他人の手に丸投げするっていうニュースが世の中に軽いさざなみをたてて消えていきましたが、その取引に使われた20万円というリアルな金額を聞いたときすごく不思議な感じを覚えてしまいました。これでは人の命があまりに安すぎるなんてことを言いたいわけではなくて、これから死のうという人にとって20万円を失うことが果たしてなんの代償となるのかと思ってしまったわけ。その人にとって20万円が100万円、いや全財産だったところでそこに何の違いもないはずじゃないんだろうか。

ビジネスが上皿天秤の上で成り立っているのだとすれば、いわばその片方の皿を完全に取り外してしまったような状況。こういう極めて特殊な状況においてすら、やはりそこには電化製品を買うときのようなビジネス取引が成立していることになんともいえない違和感があるのですよ。そこにはどんな精神状態が存在するんだろう。非人道的な行為、でもその裏に見え隠れするのはどことなく悲しく俗な人間の姿のような気がしました。

今日の一言
価格.comに集まっているのは生きようとするエネルギーだ

優先座席

「全席が優先座席」という考え方で電車内から優先座席を撤廃していた阪急電鉄(本社・大阪)は17日、8年半ぶりに全車両で復活させると発表した。どの席でも譲り合う思いやりの精神が定着しなかったためという。“性善説”に期待した同社の理想は、車内モラルの低下という現実を前に挫折した形となった。

ずいぶん長い間阪急に乗っていたけど、優先座席がないことも、それが「全席が優先座席」という考え方から行われていることもちっとも知らなかったよ。

この話ってちょうどあれと同じだなと思いました。「敬老の日」が近づくと必ず誰かが言い出す「お年よりは常に敬うべきものであり、敬老の日なんてものを取り立てて作らないとお年寄りを大事にできない社会はおかしいじゃないか」っていう議論。正論っちゃ正論だけど、じゃあ1年365日つねにその敬意を表しながら生活していくことができるかっていうとそれは別でしょ。どんなに普段から感謝の気持ちを持っていても、それを改めて言葉や形にするって言うのは結構なエネルギーが必要。いままで胡坐掻いていた人が突然正座して話し始めるようなものだからね。急に空気がピリッとなっちゃって、かえって「何かあったんだろうか」なんて余計な気を使わせてしまうかもしれない。特別な日がありがたいのは、そのいつもと違う空気を双方が自然に受け入れることができるからだと思うのです。

別にいい人ぶるわけではないけど、僕は普段からお年寄りが来たらできる限り席を譲ろうとは思っているのです。でもいつも躊躇してしまう自分がいます。「結構です」って言われたら気まずいなとか、相手に余計な気を使わせることにならないかなとか、周りの人はどう思うだろうとかいろいろな事を考えちゃう。そういうとき僕は自分が立ち上がる自然なきっかけを一生懸命探そうとするのです。周りにもたくさんの人がいる中で何故この僕が立ち上がるにふさわしい人物であるのか、なんでもいいから理由が欲しいと思う。そういうとき僕が座っているのが運良く「優先座席」だったとしたらこんなにうれしいことはないですね。僕が立つのはそれがルールだからで別に誰に気を使ってるわけでもないのですよみたいな顔で振舞うことができるから。

席を譲ることができるのはよい心の持ち主で、それをしないのはモラルの低下だというのは簡単だけど、実際はそれほど単純な問題でもないのかも。昔国語の教科書に載っていた「夕焼け」という詩を思い出します。お年寄りに席を譲れなくなってしまう女の子の詩。

固くなってうつむいて
娘はどこまで行ったろう
やさしい心の持ち主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる

(「夕焼け」 吉野弘 一部抜粋)

この少女と同じ気持ちでいる乗客もきっとたくさんいるはずだと思うんだよね。「善意」の取り扱いって考えれば考えるほど難しい。

今日の一言
良いことをするときほど何か言い訳が欲しくなる

赤福はあざなえる縄の如し

僕の小学校の修学旅行の時から三重県のお土産の定番だった赤福、この老舗に無期限の営業停止という亀田父と肩を並べる厳しい処分が下されました。僕はそもそもあんこというものの甘さがそれほど好きになれないのでどうでもいいっちゃいいニュースなのですが、テレビにちょくちょく出てくる赤福の社長が「大人になったのび太」に見えてしょうがないのでつい注目してしまいます。

300年の伝統に"餡"ならぬ"泥"を塗ったとかさんざん言われていますが、じゃあ本当に昔は売れ残った赤福はすべて破棄していたんだろうか。当時は今とは比べ物にならないくらい貴重なものであった餡、物を大切にする日本人の気質を考えてもそんなこと到底考えられない気がするんだけどな。再利用なんて昔のほうがよっぽどあったのではないの。もちろん口に入れられないものを売ることはできないから、その境目をきちんと職人は見極めたんだろうし、ちょっとでも味が変だったら客もそれに敏感に反応していたのだろうと思う。

確かに消費期限について嘘の表示をしていたのは悪いことなんだけど、そういった数字ばかりが強調されて実際にどのくらい品質が低下していたのかについては何の検証もされないのはおかしな話です。だいたいそれほど深刻な食品衛生上の問題がある行為をしていたのなら、この何十年間食中毒者を出さずに赤福がその評判を保ってきた理由が分からない。今回の事件を受けて「信頼が裏切られた」なんて言っている人もいますが、美味いか不味いか、安全か安全でないかは詰まるところ舌やおなかが判断するもので、信頼によって決まるものではないはずだよね。

「そのバッグのデザイン格好悪くない?」
「そんなわけないじゃない、これヴィトンのバックなんだから。」

「雲行きが怪しくなってきたよ、傘持って行ったほうがよくない?」
「心配ないって、天気予報は晴れっていってたもの。」

「なんかこの牛乳、味が変じゃない?」
「大丈夫よ、まだ賞味期限は切れてないから。」

時々感じる何か不思議な捩れ現象。

今日の一言
君の愛は信じてる、消費期限くらいにね

うさぎの憂鬱

講師やスタッフへの給与の未払いで英会話教室NOVAが各所で自主休校に追いやられているというニュース。怖いなー。誰もが名前を知っている大手があっという間にこんな状況になるのだから。経済産業省による新規受講契約の停止命令が相当応えたのだろうけど、そもそもこの業務停止命令が出された経緯を考えても、経営の悪化はずっと前から水面下で進行していたんだろうね。それがある日突然表面化してあっという間に立ち行かなくなってしまう。塾業界でも最近ちらほら目にする突然死。他人事とは思えないものがあります。

こうなったらNOVAはこの逆境を逆手にとるしかないな。以後、生徒からの苦情はすべて英語で応対することにしたらどうでしょう。もちろん応対するのは全員ネイティブスピーカーの外国人。日本人向けのへらへらした英語なんてしゃべってくれませんよ。エディーマーフィー張りの機関銃トークで応戦してきます。これぞ正真正銘、ガチンコのシチュエーションプラクティス。相当の英語力がないと外人と本気の喧嘩はできないっていいますからね。英語がなくたって何の支障なく暮らしていける日本人に必要なのはこういう切迫した状況かもしれない。

そして英語で一生懸命クレームを言う生徒の姿を撮影しコマーシャルにするのです。かつてNOVAの生徒に英語でNOVAのいい所を説明させるコマーシャルあったでしょ。これに対抗してその名も「What's bad about NOVA?」。あっ、こんなに生きた英語力が身に良くつくなら入ってみようって事に、、なるわけないか。

今日の一言
職安でピンク色のウサギを見かけました

僕はパパを殺すことに決めた

奈良県で高校1年生が自宅に火を放ち母子が犠牲になった事件。医学部を目指すエリート学生が起こした事件として当時はワイドショーでも大きく取り上げられ、その動機についてさまざまな憶測が飛び交いましたが、例によってその解明は十分なされないうちに次々に起こる事件の波に洗われ人々の記憶から消え去っていきました。最近この事件の真相に迫った「僕はパパを殺すことに決めた」(草薙厚子)を読む機会がありました。プライバシー保護の観点から法務省から勧告を受けた問題作で書店からは姿を消してしまいましたが、京都府の公立図書館では今でもちゃんと借りることができます。

ページのほとんどが少年、その父親、そして少年を取り巻く人の肉声であるところの供述調書によって構成されています。もちろんそこに著者の草薙さんの視点も加わってきます。1つの出来事に対する何人かの証言があり、それが微妙な食い違いを見せるところなどは芥川の「藪の中」を読んでいるよう。しかしそれを重ねていくうちに次第に報道から受けた印象とはまるで違う事件の像が浮きあがって見えてきます。読むほどに重さが増してくるような本でしたね。

学校の定期考査で英語の成績が平均点に足りなかった、それだけのことが父親への殺意を抱くきっかけになるなんて到底正常な心理には思えません。報道でもその異常性だけが殊更に強調されていたのだけど、供述によって浮かび上がってくる少年の生い立ち、家庭環境がそこに照らしあわされたとき、少年の行動を全否定することはとてもできない気になってくるんですね。

これは社会の特異点で起きたものではなく、僕がその空気を直に吸っている受験社会の扉一枚向こう側で起こった事件。何気なく取り扱っている数字がある生徒にとっては自分の生きている世界の手触りをすべて消し去ってしまうほどインパクトを持ってしまうことを僕らはきちんと自覚しなくてはいけない。偏差値やテストの点数だけがすべてではない、少なくとも人生を棒に振るほどのものであるはずがない。あまりの正論。この業界じゃ恥ずかし過ぎて誰も使わない言葉だけど、でもやっぱり誰かが言うべきなんだろうな。生徒に対してもその親に対しても。

今日の一言
がんばるな! 受験生

都内の料理店で好待遇をうける方法

  1. あまりフォーマルすぎない、しかしどことなく品を感じさせる格好で店を訪れます。
  2. 顔は笑っていますが、時折店内に鋭い目を走らせます。
  3. 一口食べては眉間にしわを寄せて考えこむ表情を浮かべ、手早くメモを取ります。
  4. 携帯電話で誰かと連絡を取る振りをします。フランス語ができればそれに越したことはありませんが、できない場合はそれっぽい話し方で構いません。
  5. 以上2~4の仕草を店の人にさりげなく気付かせましょう。

急に店の奥が慌ただしくなり、明らかに店長クラスが出てきて接客を始めたら作戦成功です。

ミシュランの調査員の顔ってトップシークレットらしいですね。だから今回の東京ミシュランで星を獲得したお店も調査されていることには全く気が付かなかったとか。なんかすっごいミステリアス。日本での調査にフランス人はさすがに目立ちすぎるから意外と僕みたいなセンスのない普段着の客が調査員かもよ。店側の疑心暗鬼に付け込んでいきましょう。

三ツ星レストランで思い出した。そうそう、僕は昔からやってみたいことが1つあったのです。英語の教科書かなんかに載っていたエピソード。まずぼろぼろの服で店を訪問して「ここはお前のような奴が来る場所じゃない」と門前払いされるでしょ。それから家に帰ってフォーマルな服に着替え、再び来店。今回はうって変わって丁寧なおもてなしを受けます。料理が出てきたらこれ見よがしに食べ物をポケットに押し込み始める。店主があわててやってきて「お客さん何をなさるんですか」と言います。ここで決め台詞。

「どうやらこの店では洋服に食事を食べさせるらしい」

これ、これ。一生に一度は言ってみたい言葉ランキング第1位です。

実践するには、乗り越えなければならないハードルはかなり多いよなあ。

今日の一言
星のない美味い店も星の数ほどある

謝ることより許すことの方がはるかに難しいぞ

偶然なのか意図的なのか、同じ日に行われた朝青龍と亀田大毅の謝罪会見。ある意味想定通りの雰囲気だったわけですが、それを待ってましたといわんばかり、翌朝の情報番組はなかなかに盛り上がってましたね。普段ボクシングも相撲も絶対見てないだろうって感じの街角の人までが「これでは世間は納得しない」と怒り、識者は「謝り方ってのは本当に難しいことですよ」なんて得意げにコメント。人を追及するときの人の顔って実に生き生きとして見えます。

そもそも彼らはいつから「世間」に対して謝らなければいけなくなったんだろう。亀田の件だって当初マスコミの論調は「対戦相手の内藤に謝罪するべきだ」のはずだったでしょ。実際大毅も直接内藤に謝罪して、内藤自身がもうこれで決着したって幕を下ろそうとしてたよね。ところがそうなると今度は「ボクシングファンに謝罪しろ」、「説明責任を果たすべきだ」って声がどこからともなく出てくる。おいおい、これはいったい誰がどこで「もういいよ」って線を引くんだよ。

謝る理由は1つであっても、それを許さない理由はいくらでも見つけられる。それをあげつらっていくことで常に自分が優位な立場にいられるわけだ。そのうまみをみすみす捨て去るなんて到底できない。そういう追求する側のあざとさをどうしても感じてしまうのですよ。心のどっかで僕らはこの問題を決着させたくないと思っているはずなんだ。絶対に。だって対等な立場に立てば、朝青龍だって亀田だって一般人が逆立ちしたって太刀打ちできない人なんですから。彼らはそれ相応の努力をしているんだから当然のこと。

テレビでは毎日どこかで誰かが頭を下げ、それを見て優越感を感じる自分がいる。そしてその感覚が薄れていくより早くマスコミがまた別のターゲットを見つけてくれる。矛先を次々に変えながらいつの間にかそれを鞘に戻すことを忘れてしまっているよな。なるほど謝ることは難しい。でも許すことの方が僕らにとってはその100倍も難しいことなんじゃないだろうか。

今日の一言
謝罪会見はあれど、免罪会見はない

海の中道大橋事故について思う

どうしようかなって思ったのだけど、この記事についてはやっぱりちょっと書いてみることにします。

福岡市東区の「海の中道大橋」で06年8月に起きた3児死亡事故で、元市職員の今林大(ふとし)被告(23)側は22日、業務上過失致死傷罪とひき逃げを併合した上限の懲役7年6月(求刑・懲役25年)を言い渡した8日の福岡地裁判決を「重すぎて不当」として福岡高裁に控訴した。 検察側も控訴しており、検察側が求める危険運転致死傷罪適用の是非や量刑を中心に2審の審理が行われる。

猛スピードでの飲酒運転、事故後の逃走、隠蔽工作。報道されているあらゆる点を考慮しても事故を起こした市職員に同情の余地は全くありません。これほどの事故を起こしておきながら裁判では危険運転致死傷罪が適用されない、その上に加害者が更なる減刑を求めて控訴する、こんなことが許されていいのか、厳しい世論の声があるのも当然のことです。その非難の矛先は弁護士にも向かう。仮にこの事故の弁護士が職を奪われ、加害者が死刑になっても誰も文句はいわないんじゃないか、そう思わせるくらいの雰囲気すら今の世の中にある。

ただ、僕は余りに激しい反応にも少し怖いものを感じているのですね。もう少し冷静にみるべきではないかなって。この事故が社会にもたらした衝撃はとてつもなく大きいものだった分僕らはこの事故に過剰に多くのものを投影させすぎてる気もするのですよ。幼い子供3人の尊い命の犠牲、日本全国に広がった飲酒運転撲滅運動への影響力、お役所への反発。積みあがった重みが知らず知らず公平なものの見方を歪ませることは起こらないだろうか。そうなのだろう、そうであって欲しい、そうでなければならない。

あまり報じられてないですがこの事故で弁護士は「被害者」の運転手のいねむり運転の可能性を指摘しています。居眠りでアクセルから足が離れ、スピードが極端に落ちたところを追突され、その後の事故回避行動が遅れたという可能性。とんでもない暴論、でっちあげだと受け取ることもできますが、僕は1つのシナリオとして全くない話ではないと考えています。大切なのは僕らは何が事実なのかを与えられた情報を通してしか見ることができていないという点。僕らがそうだと信じていることは、自分の頭の中に作り出された間接的なものでしかないはずです。報道が伝えることだけをすべて鵜呑みにし、弁護士の話をありえないとして切り捨てる根拠は実はどこにもない。

裁判の経過などが光市母子殺害事件とよく対比されていますが、殺人事件と交通事故を同列に論じるのはやはり乱暴だと思う。事故であれば双方の言い分を聞き、可能性を列挙して、責任の度合いをきちんと秤にかけないといけない。それは被害者にとってあまりに酷いことなんだけど、弁護士の立場としてはやむをえないものです。

光市母子殺害の加害者に僕はひとかけらの人間も感じませんが、この事故の加害者に僕は悲しいほど人間を見てしまうのです。これは同情と言う意味ではなく。自分自身がこの事故を起こしてしまったとして果たしてどれほどのことができただろうかって考えてみる。気が動転してその場から逃げ出そうとしなかっただろうか。15m下の暗い海に救助のため身を投じることができただろうか。そう考えるとぞっとしてしまう。やはり僕は無我夢中で自分の保身に走るのかもしれない。彼の行動はどこにでもいる人間の一皮下にあるどうしようもなく醜く身勝手な姿なんじゃないか、そう思ったときこの加害者にすべての悪を押し付けて石を投げつけることなんてできない気がしてくるのです。

この事故は僕みたいな人間の中にさえずしりと重たいものを残しました。この事故を契機に日本社会の飲酒運転への意識は高まり、それは間違いなく交通事故死亡者の減少につながっています。それだけでも3人の死は決して無駄にはなっていないと僕は信じます。それがどれほどの救いになるものなのか、この裁判がどのような結論になるのかも分かりませんが、ただただ被害者のご両親の心休まる日が一日も早く来ることを祈るばかりです。

今日の一言
「真実」から感情を取り除くことは極めて難しい

言葉と文脈

ひとつがいのウサギが生まれると、そのウサギはその2ヵ月後から毎月ひとつがいごとのウサギを生む。このとき、ウサギの数はどのように増加するか。

レオナルド・フィボナッチがフィボナッチ数列を登場させるのに用いた歴史的に有名な規則。もちろんこのように永遠に子供を生み続けるウサギが実在するはずはありませんが、一方で自然界のいたるところにこのフィボナッチ数列が実際に現れることはよく知られています。ある事柄を解釈するために用いられる単純化された規則のことを「モデル」といいます。自然界のある種の現象を説明する上でフィボナッチの規則は極めて有用なモデルとなるわけです。

少し前に世間を騒がせた柳沢さんのいわゆる「産む機械」発言、その強烈な言葉のインパクトに世論は激昂しましたが、正直僕はそれほど腹は立たなかったのですね。この発言の前後の文脈を冷静に聞けば柳沢さんがしようとしていたのはまさにこのモデルの話であろうことが分かるから。日本の人口推移を試算するときには、1人の女性がどのくらいの年齢で何人の子供を産むかという平均的なモデルを作り数式の上にのせる。このとき最初のウサギの例と同様、人をあたかも何かのシステムであるように扱うものなのです。それを説明する経緯で「仮に女性を子供を産む機械とみなして」という発言が出たわけ。確かにそれはデリカシーのない発言であったとは思うし、それを聞いて傷ついた人がいれば謝罪も必要だったと思う。でもその後も「産む機械」発言がその本意と離れて一人歩きし、柳沢さんが女性蔑視者的なレッテルを貼られ糾弾されていく様子をみていると、僕はむしろその世論の方に怖さを覚えました。

今世の中を沸き立たせている「倖田発言」問題に何か同じ匂いを感じるのですよ。この発言もきちんと前後の文脈を見ればその印象は世間で報じられているものとはかなり違います。妊娠したマネージャーに対してはやく子供作れよという激励の意味を込めて発せられた言葉で、たぶん双方の人間関係の中では冗談として通じるレベルのものなんだろうね。本人も本気で羊水が腐ると思っているはずがないし、品があるかどうかはともかく悪意のある発言ではない。それを公共の電波で言ってしまったのは軽率だとは思うし、それで不快な思いをした人がいるのも理解できますが、それに関して謝罪したにも関わらずなおもとどまらず彼女の人格攻撃にまで発展していく世論はやっぱり何か変だ。

言葉って透明のパイプみたいなものだと思う。連結させることでその中に感情が流れ、いろいろな色に染まる。でもそこから抜き出された言葉はやはりただの透明のパイプでしかなく、そこに当初の感情とは違うものが込められれば、全く異質な色に変わっていくことが起こりうる。怖いのは言葉ではなく、言葉が文脈から切り離されることだ。

今日の一言
花は野に、言葉は文脈に

死について思う

寝室の脇には赤と青の2つのボタンが用意されています。青のボタンを押して寝ればいつもどおり次の日の朝を迎えることができますが、赤のボタンを押して寝ればそのまま二度と目覚めることはありません。あなたは毎晩寝るたびに自分自身で選択しなければなりません。青のボタンを押すのか、赤のボタンを押すか。

毎年交通事故死者をはるかに上回る人が自ら命を絶っている悲しい現実があります。馬鹿げた空想ですがこんなボタンを誰もが持って生活していかなければならないとしたら、赤のボタンを押して死を選ぶ人は、現在の自殺者よりもっと多くなるのでしょうか。僕はひょっとしたらその反対なのではないかと思うのです。

ほとんどの人は毎晩繰り返し繰り返し青のボタンを押すことになるでしょう。でもその選択のたびに人は赤のボタンを押す自分を想像してしまうと思うのです。それを自分が押すとしたらどういう状況なのだろうか。そしてもしある日、本気で赤ボタンに手をかけようとすることがあったなら、やはり自分に問うことになると思う。本当に今が「その時」なのか。自分が繰り返し思い描いた状況はひょっとしたらもっと悪いことだったのではないか。一生に一度しか使えない、でも使おうと思えばいつでも使えるボタン。そう思えたとき、何も今使わなくてもいいかって、ふと楽な気持ちになれるのではないかな。

電車待ちの列の最前列でホームに入ってくる電車を眺めるとき、僕はいつも生と死の境界線に立っているような思いに駆られます。この瞬間、まさにさっきのボタンのように、生きるか死ぬかという同等の重みを持つ二者択一を迫られている、そんな気がするのね。周りからは飄々と生きているように思われがちなのだけど、実際は自意識が過剰でコンプレックスも強く、自分の感情を表現することがすごく苦手。周囲の人間に全く悟られずにある日突然破壊的な行動を起こしてしまう自分自身の危うさを正直全く否定できないのだな。だから僕は日常の中に転がっている死に対して自覚的であろうって思います。そのたびにしっかりと青のボタンを押す自分を意識する。それって実は大切なことなんじゃないだろうか。

生は死の対極としてではなく、その一部として存在している

「ノルウェーの森」の村上春樹さんの言葉。

人はいつでも自分自身を殺すことができる。それはタブーではなく、希望だ。たったそれだけの価値観の転換に救われる人は多いのかもしれない。

川田亜子さんの死にそんなことを考えたりしました。

今日の一言
「メガンテ」は意外と使いどころが分からない

予言とか予告とか

今日東京で大きな地震が起こると言った予言者がいたそうですが、何も起こらなかったようで、一安心。いや、もちろん信じていたわけではないですよ。安心といったのはひょっとして何らかの偶然で今日たまたま小さな地震が東京に起こっていたことを想像するとぞっとしてしまうからです。

例えばこの件に関して警察や各自治体って何らかのリアクションをとったでしょうか。おそらくとっていないでしょ。完全に無視、どう考えてもそれが正しい大人の姿勢なんです。そんなものにいちいちリアクションを取っていたら変に不安を掻き立てるだけだし、社会が機能しなくなる。ところがもし今日本当に地震が起こり、その被害者が出るなんてことになったら。ひょっとしたら情報を知りながら無策だった政府や自治体を非難する声が起こりゃしないかと。そうなると同じことがあるたびにどんなに理不尽に思えても、「何かあってからでは遅い」という世論のプレッシャーに押されて何らかの行動をとることを迫られる。

これって最近のニュースで頻繁に取り上げられるネットでの「犯罪予告」と重なりませんか。「天災の予言」と「犯罪予告」とを同列にしちゃいけないよ、だって実際に秋葉原の事件をはじめとする無差別殺傷事件はすべてネットにその予告がされていたんだから、と言う人がいるかもしれませんが、いやいや、これこそまさに人々が予言を信じてしまうのと同じ心理トリックでしょ。予言というのはほとんどの場合何か事が起こった後に確認されます。同時多発テロは予言されていたんです、四川大地震も予言されていたんです。それが真実と証明されればもう予言者の力は揺るぎないものに思えてしまいます。ところがよく考えればこれは全くフェアではない。外れた予言がその何十倍もあったとしてもそれは注目されていないからです。「犯罪予告」の件でも同じ。予告されていながら実際には犯行が行われなかったケースはどれくらいあるのかは誰も教えてくれないでしょ。冷静に考えればこれほどに偏った情報なのですが、ほとんどの人はそれに気がつかないんですね。都合のよい情報だけを強調し、残りを隠す。予言の手品なんかではよく使われる定番のテクニックなんです。

無責任な予言をセンセーショナルに取り上げようとするマスコミの姿勢は本当に酷いと思いますが、無責任な犯行予告に過剰な反応をする、あるいはそれをあえて煽る社会も同じくらい危うさを感じます。

今日の一言
「予言」とは未来形で語られた過去である

不可教師

大分県の不正採用問題。お金を払って不正に合格した講師が職を追われていますが、ふと疑問なのは不正合格のレッテルを貼られる基準は「お金を払ったか否か」なのかしら。一応全員試験は受けているわけですから、不正な加点を除いた上で合否判定は出せるはずでしょ。その結果で不合格ならしょうがないとして、それでもきちんと合格していた人はどういう扱いになっちゃうんだろう。もしそういう人まで一律処分っていうのならこれはさすがに可哀想な気がしますね。

不正行為をしようとしたこと自体が問題だという意見もありますが、お金を払って点数水増しというのがかなり長い間慣習的に行われてきて、相場のようなものが周知の事実としてあったわけでしょ。その状況では自分の周りはみんなお金を払っているのではないかという疑心暗鬼が当然生まれるはず。自分が合格ラインギリギリであれば、そりゃお金を払わないでいるほうが難しいってものです。それは他の人を出し抜こうとしての行動というより、同じ土俵に上がるための行動となるわけだからね。それを糾弾することはできないと思うな。責められるべきはその空気を作った人たちです。

話はずれますが、僕の通っていた高校は一応公立の進学校でしたが、それでもこいつよく採用されたなと思うような眉唾ものの先生はたくさんいたものです。うちの県の採用試験のほうがよっぽど怪しいんじゃないかと心配してしまいます。未だに強烈に記憶に残っている数学の先生が一人、あだ名は「ベク」です。通常新年度最初の授業の時ってまず自己紹介するものじゃないですか。その先生も教室に入ってくるなりチョークをつかみ、黒板に向かって文字を書き始めました。誰もが先生が自分の名前を書くのだと思って見つめていたわけね。ところが黒板に書かれた文字を見てみんな唖然。

ベ ク ト ル

「えー、ベクトルと言うのは、、」

そう、なんとその先生は何の前振りもくいきなり数学の授業をスタートしてしまったのです。それ以来その教師は「ベク」と呼ばれるようになったという次第。その「ベク」の伝説は本当に多く、ちょっとしたことで怒り出したり、授業を中断して帰ってしまったり、極めつけは雨の降る日はほぼ100%休み。ハメハメハ大王以来です。おかげでほとんど数学の授業は自習していた記憶がありますね。でもなんだかんだ人気あったりもしましたからね。僕も嫌いではなかったですよ。こういう不良教師との出会いも大切な人生勉強なんだと思います、きっと。

今日の一言
教師が教えるべき最も重要なことは「教師が常に正しいとは限らない」ということだ

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