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   <title>Ikeda Yosuke Weblog</title>
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   <subtitle>パフォーマー&amp; 数学講師 池田洋介 のブログ</subtitle>
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   <title>セブンイレブンとアスクルの共通点</title>
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   <published>2009-11-21T14:40:53Z</published>
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      例えばセブンイレブンっていうコンビニの名称。「朝7時から夜11時まで開いている雑貨店」という当時としては相当画期的な営業形態を印象づける店名だったわけですが、24時間営業が当たり前のものとなった今ではむしろ逆の意味になってしまっていますよね。今時リアルにセブンイレブンなのはどこかの田舎にある橙と赤と黄色を基調にした「なんかそれっぽいけどなんか違う」デザインの看板の店くらいでしょ。

これと同じ道をたどりそうなにおいを感じるのが「アスクル」ね。主に企業用の文具を扱っている通信販売のお店なのですが、この店の売りは「今日頼めば、明日来る」、だからアスクルです。通販って届くまでに1週間くらいは見ておかないとっていうイメージがあるから、カタログで見たものが次の日には手元にあるっていうのはそれだけで十分衝撃的な売り文句なんです。

でもね、それを上回る驚きを与えてくれるのは最近の「アマゾン」ですよ。タイミングによってはその日のうちに来ることありますからね。明け方に発注したDVDがその日の夕方にもう届いている。感覚的にはね、定食屋で野菜炒めを注文したとするでしょ。来るまでの間に雑誌でも読もうと最初のページを開いた瞬間に「はい、お持ち!」といわれた気分。なんだろう。当然全く文句はないはずですよ。でも虚をつかれるというか、変な話ちょっと損した気さえする。

まあ、こんな違和感も慣れるまでの話で、そのうち当日に来るのは当たり前、5時間後に来るか、6時間後に来るかみたいなとこの勝負になってくるんだろうけどさ、そのとき「アスクル」は完全に「セブンイレブン」になるよな。名前の響き的に。

こんなことを考えたのは、最近結婚式の電報の話をある人に聞いたからです。友人の結婚式に都合が悪くて出ることができなくなり、でもせめて電報だけでもと思っていたのに、それを送るのを当日まですっかり忘れていたんだって。無理を覚悟で結婚式場に問い合わせたら、なんと電報はインターネットフォームで送れば数時間前で十分間に合いますとのこと。あわてて手続きを済ませ、無事、電報は間に合い、友人からはとても喜ばれたとのこと。

これを聞いて思ったのは、電報が届いて嬉しいと思うその気持ちの半分には、そんなに前から自分のことを考えて準備していてくれたんだっていう時間や労力の重さが少なからず入っているわけでしょ。でも実際そういう重みって今やどんどんペラペラになっていっているんです。その友人が感じた喜びの一部はその部分の認識の「ギャップ」によって生み出されているってことなのね。なんか変な気持ち。

たまには手書きの年賀状も書いてみるのもいいのかも。
      
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   <title>いまさらながら静岡の話</title>
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   <published>2009-11-14T08:49:17Z</published>
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      もうずいぶん前の話のように思えますが、静岡に行ってきました。11月1日～4日にかけて行われた大道芸ワールドカップです。ただし今回は純粋に観客としての参加。出演者だとほとんど他人の芸を見ることはできないのですが、今回はたっぷり堪能できました。一流の芸を見る、しかも「見比べる」という経験はとても大切なことだと再確認。

3日目の朝、たまたま2人のマジシャンが連続して演じるポイントがありました。一人目は大道芸で手品をするならまあだいたいこうならざる得ないかなというオーソドックスなネタをやり、二人目はステージショーでやるような本格的な演目をしました。たまたま隣にいたマジシャンの友人は後者を絶賛。確かにマジシャン的には訴えるものが多かったのでしょうが、僕はね、圧倒的に前者の方がよかったのです。

生卵を割ってハンチング帽の中に入れます。それを客の頭にかぶせる。見てる人はドキッとするのだけど、帽子を取ると卵は跡形もなく消えていて、客の頭も無事。

文章で書いてしまえば、それだけのネタ。特に目新しいものではないです。でもそのマジシャン、帽子をかぶせた後にハンカチを取り出して、客のこめかみの辺りをすっと拭う仕草をしたのです。

この動作。うまいと思った。

ただ帽子をかぶせ、それを取ったら卵が消えていましたなら「単なる不思議な現象」ですよね。それが「拭う」という動作が加わることで、なんていうのかな、人の想像力に卵の質感を生み出すのですよ。ネトネトの液体がこめかみをたらっと流れ落ちてくるときの「ぞくっ」となる感覚がふわっと沸く。ふわっと沸いた時点で、肌触りとか不快感とか、そういうものまでひっくるめて卵はそこにあるものになってしまうのです。帽子をとったとき「卵」だけでなく、卵に伴うそういう「感情」までもがすっきりと消えるように感じる。だから思わず手を叩いてしまいます。

日常的に人が何かを見て何かを感じるとき、その感情のすべてを外界の情報から得ているわけではなく、半分は想像力が担っているものだと思います。よい芸というのはその想像力の部分をきちんとコントロールしているんですね。こういうのは研究していくと面白いものができそうな気がする。

こういう部分に目がいってしまうのは、やはり今現在の僕の目指したい方向を反映しているんだとも思います。多分同じ芸を見ていても、人によって、あるいは過去の自分と今の自分で注目する部分はずいぶん変わってくるもので、人の芸を見ることはある意味最高のセルフカウンセリングです。
      
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   <title>このアイデアはすごい</title>
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   <published>2009-10-28T12:40:37Z</published>
   <updated>2009-10-28T13:43:33Z</updated>
   
   <summary>生きる上では何の役にも立たない人間の英知が満ち溢れる素晴らしい場所。それがおもち...</summary>
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      <![CDATA[生きる上では何の役にも立たない人間の英知が満ち溢れる素晴らしい場所。それがおもちゃ売り場。

昨日立ち寄った中津のキディーランドにて、あのマジックグッズの会社「テンヨー」から発売された新製品を見てそのアイデアに心の底から震えました。僕の感動を字の大きさで表現します。

<font size=+4>本当にすごい</font>

製品名は「JIGAZO PUZZLE」

「世界初、あなたの顔ができるジグソーパズル」という触れ込みです。

こう聞くと当然顔写真をプリンターか何かでピースに印刷し、それを組み立てるんだと考えますよね。ところがこのパズルの発想は天才的です。箱の中には下の写真のようにグラデーションの入った300枚のピースのみが入っています。これをすべて組むだけで、自分の顔ができるというのです。

<div align=center><img alt="2009102802.jpg" src="http://iky.no-ip.org/weblog/2009102802.jpg" width="400" height="240" /></div>

え、意味が分からないって思ったでしょ。僕も思いました。では詳しく説明しますね。

まず自分の顔写真を携帯で撮影します。すでにある写真を携帯で撮影してもかまいません。下は僕の宣材写真から撮ったもの。

<div align=center><img alt="2009102801.jpg" src="http://iky.no-ip.org/weblog/2009102801.jpg" width="240" height="400" /></div>

これをテンヨーのサイトにメールで送ります。するとテンヨーのサーバーが10秒くらいでその写真を解析し、設計図を送り返してきます。下がその設計図。

<div align=center><img alt="2009102803.gif" src="http://iky.no-ip.org/weblog/2009102803.gif" width="226" height="296" /></div>

それをもとに300枚のピースを組み立てていきます。

<div align=center><img alt="2009102804.jpg" src="http://iky.no-ip.org/weblog/2009102804.jpg" width="240" height="400" /></div>

すると、完成品がこちらになります。

<div align=center><img alt="2009102805.jpg" src="http://iky.no-ip.org/weblog/2009102805.jpg" width="240" height="400" /></div>

鳥肌ですね。たくさんの切手を張り合わせて遠くから見たときにモナリザの顔写真が浮かび上がるようなトリックアートがありますが、あれと同じ原理です。コンピューターが送られてきた顔写真に色の濃淡が最も近くなるピースの配列を探し出し、設計図をはじき出す。そうすれば何億もの顔のパターンも300のピースだけで実現可能となるのです。理屈として確かに分かる、でも直感はとてもそこに追いつきません。壁のシミやパンの焦げ跡がキリストの顔になったといった事例が世界中で報告されていたりしますが、本当にそんな「奇跡」の1つにしか思えません。

これが「遊具」としてよくできているのは、設計図を組みあげる絵合わせとしていの楽しさ、ぼんやりと徐々に絵が浮かび上がってくる驚き、そして何より何度でも別の顔を作ることができる再現性というすべてを兼ね備えていることです。さらに「商品」としてすぐれているのは絵の著作権もなければ、製作コストもほとんどかからないこと。コンピュータ、インターネット時代の今だからこそ実現できる21世紀のアイデアとも言える。これを考え、製品化しようとした人に最大限の賛辞を送りたいですね。

このパズルを普及させる方法を考えました。よく芸能人の結婚報告で相手が一般人の場合にその人の似顔絵を描くみたいなことをしていますが、その代わりに顔の「設計図」を発表したらいいのではないでしょうか。知りたい人は組み立ててくださいと。法廷のイラストも「設計図」。うなだれた被告の表情が浮かび上がる。別に見たくないな。いや、この際もっとピースを増やせば人の全身くらいリアルに再現できそうだから、雑誌の袋とじ写真の代わりも「設計図」にしましょう。うーん、それなら無我夢中で作るな。出てきた女の子が思いっきりワンピース着てた時のガッカリ度も倍増ですが。]]>
      
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   <title>だまし絵展を見にいった</title>
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   <published>2009-10-21T10:53:01Z</published>
   <updated>2009-10-22T10:34:02Z</updated>
   
   <summary>スケジュール上、授業と授業の間が6時間ぐらい空く曜日があります。空き時間は拘束時...</summary>
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      スケジュール上、授業と授業の間が6時間ぐらい空く曜日があります。空き時間は拘束時間ではないので、スタバでパソコンをいじったり、ジムに行ってトレーニングしたりと気ままに過ごしています。ところが今日は柄にもなく兵庫県立美術館に行ってきました。

常々「本当に大切なものは目には見えない、あるいは東急ハンズにある」を標榜としている僕が、どちらかというと苦手としている美術館に足を向けることになったのは、ずばり今回の展示のテーマにあります。

わが目を疑え。「だまし絵」展。

もう僕好みのストレートだわ。行くっきゃない。

行く前に僕が思っていた「だまし絵」は「ルビンの壺」に代表されるような見方によっていろいろな見え方をする多義図形や、エッシャーの「上昇と下降」に代表されるような実現できないものを絵に表現する不可能図形ですが、この展示はどちらかと言うと絵画を実物と錯覚させるタイプのだましに軸がおかれていました。例えば、風景画の一部が布で覆われて隠れているとするでしょ。その布を手を伸ばして取ろうとしてみたら、実はその布自体も絵だった、という感じのやつですね。このだましが成り立つためには布がリアルに描かれることはもちろんなのですが、風景画はそれに比べてやや粗いタッチで描かれるのがポイントとなります。その対比がより布を現実のものと錯覚させてしまう。このような心理的な駆けひきを観察するのはとても面白い。

展示品のひとつにこんな説明が書かれていました。ある画家が友人に「本物と見間違うものを描かなければ絵画ではない」と言われたそうです。それを自分への侮辱だと受け取った画家はその友人に挑戦状の入った封筒を額に入れて送ります。友人がその封筒を手に取ろうとすると、取れない。なんとその封筒は紙の上に本物そっくりに描かれた精巧な絵だったのです。いいなぁ。こういう話は大好きです。

間違いなく言えるのは、このような絵を描いている画家の頭の中には、これを見る人の顔がはっきりと浮かんでいて、その人をどう驚かせてやろう、どう笑わせてやろうと脳内アドレナリンをほとばしらせながら筆を進めてたんだろうってこと。もうね、そういうときの胸のバクバク感って分かりすぎるほど分かる。芸術の原点って結局そういうことって気がするんですよね。自己表現だなんて高いところから来る芸術はちっともピンとこないけど、根底にエンタテイメントがある芸術にはびんびん共鳴を感じます。

ただ、1つ思ったのは、みんなこの展示の趣旨が「だまし絵」であることは分かった上で来ているわけですね。すると頭はどちらかというと、絵そのものの中に何かおかしなところがあるんじゃないか、という方向に向くわけ。見ている人の会話を聞いていてよくあったのは、

「え、これって何かおかしなところあるの」
「うーん、何もないよね。」
「(説明文を読んで)　要するにリアルに見えるってことらしいよ。」
「なーんだ、それだけのこと」

うーん。それはそうなるよな。

「絵であること」そのものが「だまし」の核心なんだから。「だまし絵」と言ってしまった時点でネタバレという自己矛盾。

どうせなら普通の絵画展という体にして、展示の仕方を工夫する。トイレのドアを開けようとしたらノブが絵だったとか、休憩所のイスに座ろうとしたら実は壁に書かれた絵だったとか。それで初めてこの展示の趣旨を心から味わえるのではないかと思います。
      
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   <title>千葉って遠い</title>
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   <published>2009-10-16T06:00:45Z</published>
   <updated>2009-10-16T06:02:23Z</updated>
   
   <summary>これだけ交通網が発達してくると、ある場所が遠いか近いかは物理的な距離や所要時間で...</summary>
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      <![CDATA[これだけ交通網が発達してくると、ある場所が遠いか近いかは物理的な距離や所要時間ではなく、もっと体感的なものになります。飛行機や新幹線に乗っている時間が30分違ってもさほど違いは感じないけど、乗り換えにかかる時間が5分違ったらそれだけで相当遠い印象になるという具合に。

で、それを踏まえての「千葉って遠い」なのですが。

ステージリハのため、朝一の新幹線に乗って東京駅に着きました。目的地はJRの千葉駅。初めていく場所でしたが、頭に県名を冠しているほどの駅ですから、まず迷うことはないだろうと高をくくっておりました。案の上、すぐに目に入ってきたのは「京葉線」への案内標識。なるほど「京都」と「大阪」で「京阪」、「東京」と「千葉」で「京葉」ってことでしょ。微塵の疑いもなくそちらに足を向けました。

基本的な情報を提供しておくと、そのときの僕は計4つの荷物を両手に持ちエスパー伊藤が5人は詰められそうな大きさのトランクをごろごろと引っ張っております。ほんの短い階段が蒲田行進曲のラストシーンに思えてしまう感じね。その状況がいっそう印象を強めているのでしょうが、その「京葉線」にたどり着くまでの道のりがね、もう尋常じゃなく長いわけ。連絡通路を永遠と歩き、着いたかと思ったら今度は下へ下へ。4階分くらいでしょうか。たぶんもうちょっとでモホロビチッチ不連続面くらいのとこまでは降りたと思います。とにかくやっとの体で駅のホームです。

で、ここでちょっとビックリすることを言いますよ。京葉線ってね

<strong>千葉駅に止まらないの</strong>

なんかの間違いかと思って駅名表を何度も確認したのですが、どこをどう見ても「千葉」がない。え、じゃあ「京葉」って何? 「京極葉っぱ隊」の略ですか。惜しいところで「千葉みなと」って駅はあるのですが、これ微妙でしょ。下手すりゃむしろ中心部から離れている可能性もあるからなぁ。千葉の人には申し訳ないのですが、「千葉」の「みなと」には浜辺で子供がカメをいじめているイメージしか浮かばないのです。

とりあえず売店の人に聞くことにしました。

「すいません、千葉駅ってどうやって行けばいいんですか」
「あ、それは総武線だね。えと、ここからだと結構離れてますよ。まず階段を3つほど上がってね、それから通路を進んで...」

うん、もう分かった。それ僕が歩いてきたとこだわ。

<font size=+2><strong>誰か僕にリレミトをください。</strong></font>

だいたい「総武線」って。この路線名から千葉要素を感じ取るのは初心者にはレベル高すぎませんか。んでもう1つ愚痴を付け加えると、この「総武線」がまた遠いんだ。歩く歩く、降りる降りる。何で同じ千葉つながりの路線がラスボスのダンジョン2個分くらい離れているのでしょうか。うすうす感じたことだけど、千葉って東京から虐げられてない? 森田健作は国交省よりこっちに怒りをぶつけた方がいいよ。絶対。

結局1時間近く東京駅をさまよって目的地に到着。シベリア行くより疲れた。シベリアは行ったことないけど。]]>
      
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   <title>Japan Juggling Festival 2009</title>
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   <published>2009-10-14T12:26:11Z</published>
   <updated>2009-10-14T12:28:23Z</updated>
   
   <summary>お陰様でJapan Juggling Festival 2009のゲストステージ...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://iky.no-ip.org/weblog/">
      お陰様でJapan Juggling Festival 2009のゲストステージが終了しました。

準備期間の短さは否めませんでしたから、ベストと胸を張ることはできませんが、総じて言えばなかなかうまくまとまった「よいステージ」だったのではないかと思います。

このステージに立つというプレッシャーは通常の舞台の比ではないです。なにせ観客のほとんどが目の肥えたジャグラー、しかもとりわけ一昨年、昨年と評価の高かったステージで、見る側の期待度も相当高いところまで跳ね上がっていますから。このハードルは僕の能力の三頭身くらい上にあります。最初オファーを受けたときは正直二の足を踏みましたし、引き受けた後も最後の最後まで不安でしたね。

でも終わってみて、例年並とまでは言わぬとも多くの人から満足のいく評価を頂くことができた理由を自分なりに分析すると、今回のショーが観客の期待に対してストレートに勝負するものではなく、やや斜め上の辺りをつくものだったからなのかなと思います。正面から技術でなく、ああ、こういう見せ方があるんだという「視点」を提示した。

イタリアから来たハットジャグラー、ロレンツォさんの演技はそういう意味で本当に面白かったです。ハットのみ、音楽すら使わない10分足らずの手順であれだけ観客を沸かせたのは今までのハットジャグリングの延長にあった皆のイメージをひっくり返した「視点」の力です。脱帽。あ、2つの意味で。

僕はこういう演技は大好きなのです。

例えば3クラブカスケードしかできない人にとって5クラブカスケードも7クラブバッククロスも雲の上の技かもしれない。でも自分がやっていることの延長線上にその雲の上を想像することはできます。それを「すごい」と思うのはその想像を現実のものとして目の当たりにすることへの驚きです。

ところがそういう驚きに対して技術的にはそれほどは難しくないものだとしても自分の想像の延長線から全くはずれたものを見せられた時に感じる驚きもあるのです。一種の「アハ体験」ですね。想定の土台が揺さぶられるような感覚。極論すればフェスティバルの最大の意義はこの体験だ思うのです。誰かがある道具に対して新しい方向性を示す。それに共鳴した人がその方向を掘り下げていく。その過程で画期的なジャグリングが生まれてくることがあります。初めてディアポロの3ウィンドミルを成功させた人はもちろん称賛されるべきですが、初めて1個のディアポロを縦に回そうと考え、それを実行した人はそれ以上の称賛に値すると思う。これに異を唱える人はいないんじゃないかな。JJF最後のあいさつでも言いましたが、日本のジャグリングはその方向性で世界をリードすることができると僕は信じてます。

素晴らしい仕事をしていただいた劇場スタッフの皆さま、このフェスティバルを成功に導いた多くの関係者の方々、本当にありがとうございました。このフェスティバルのさらなる発展に今後も微力ながらも貢献できればいいなと心から思っています。
      
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   <title>ウィルス対策</title>
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   <published>2009-10-09T14:31:52Z</published>
   <updated>2009-10-09T14:32:54Z</updated>
   
   <summary>ヨドバシカメラに行ったら入口の一番目立つところに「ウィルス対策は万全ですか?」っ...</summary>
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      ヨドバシカメラに行ったら入口の一番目立つところに「ウィルス対策は万全ですか?」っていうのぼりがたってました。僕は当然のごとくそこには「Norton」やら「ウィルスバスター」やらのパッケージが並んでいるものかと思ったのですが、パッってのぼりの横に目を向けるとそこには大量の「マスク」が山積み。その光景にちょっと笑ってしまいました。すごい紛らわしい。

笑ってから気づいたけど、いや、何も間違っていないよな。「ウィルス」っていったら通常は人の病原体のことで、コンピューターが感染するものではない。考えてみれば10年前ならコンピューターのウィルス対策でコンピューターにマスクをつけさせていますなんてジョークが成立していましたから。

コンピュータウィルスっていう本歌取りの方がいまや一般名詞として広がってしまったがために、正しい使われ方をしているほうが「なんか変」みたいに思われて肩身の狭い思いをしなければならないという逆転現象。今ならウィルス対策でこめかみにUSBメモリーを差し込もうとしましたというジョークが成立するんじゃないかと。

ここ最近は多くの高校で学年閉鎖が起こっているようで、新型インフルエンザの蔓延は特に受験生にとってかなり深刻な問題になっています。手洗い、うがいの慣行と出来る限りの対策を呼びかけていますが、僕がどうしても考えてしまうのは受験生にとって「感染するリスク」より「感染していないことのリスク」の方が大きくなる段階がどこかの時点で必ずくるのではないかということですね。このまま感染経験者がどんどん増えていったとして、1月初旬でまだウィルスに感染していないということはむしろ危険な状態と言えなくもない。

もちろん感染しろなんていえるわけはないですが、、なかなか微妙な問題ですね。
      
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   <title>出演情報</title>
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   <published>2009-10-04T15:38:28Z</published>
   <updated>2009-10-04T16:39:06Z</updated>
   
   <summary>たいへん永らく御無沙汰しておりました。予備校の2学期が始まって今まで以上に過密ス...</summary>
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      <![CDATA[たいへん永らく御無沙汰しておりました。予備校の2学期が始まって今まで以上に過密スケジュールになった上に、文章を書く心の余裕が持てないほど大きなものにずっと頭を悩ましていたので。

ご存知の方も多いかもしれませんが、今年行われる日本最大のジャグリングの祭典Japan Juggling Festivalにゲスト出演することになりました。イベントとステージの詳細は以下の通りです。

<strong>Japan Juggling Festival</strong>
2009年10月10日（土）～10月12日（月）(体育の日）
メイン会場  千葉ポートアリーナ

プロアマ、初心者問わず全国のジャグラーが集結するジャグリングのフェスティバルです。ワークショップやジャグリングの日本一を決定するチャンピオンシップが行われます。参加は有料です。

詳しい情報は以下より
<a href="http://www.juggling.jp/jjf/jjf2009/jp/">http://www.juggling.jp/jjf/jjf2009/jp/</a>

ゲストステージはこのフェスティバルの一環として行われるステージで、フェスティバルに参加しない方でも見ることができます。

<strong>Japan Juggling Festival ゲストステージ</strong>

開催日
    10月11日（日）
場所
    青葉の森公園芸術文化ホール(千葉県)
時間
    17時開場、17時半開演、19時閉演（予定）
出演者
　　池田洋介（パントマイム、MC）
　　長畑伸作（棒術、ダンス）
　　桔梗ブラザーズ（ジャグリング、クラブなど）
　　Lorenzo Mastropietro （ハット）
チケット
    * 前売り　2000円（JJF本体と同時申し込み）
    * 前売り　2500円（ゲストステージチケットのみでのお申し込み）
    * 当日　　2500円

MCといってもしゃべるわけではなく、全体のつなぎ的な役割でいくつかのパフォーマンスをすることになると思います。

前回出演させてもらったのは2005年(大阪)。そこから何年かでいくつかのネタのストックもできていますから、それをそのまま持っていこうかとも思ったのですが、何度も僕の演技を見に来てくれている人の顔が浮かんでしまうとやっぱり何か新ネタを入れたいと思っちゃうのですね。準備期間は1カ月。例によってああでもない、こうでもないと当てはまるあての全くないパズルのピースと格闘する日々が続いておりました。

で、ちょうど1週間前の今日になって全体がカチッときたかな。今回は完全な新作ではなく、ずっと前に作ったきりお蔵の奥でほこりをかぶっていた作品に新しいアイデアをブレンドして再構築してものです。とはいえ今までの中でも一番気に入っている出来かも。これは絶対面白いでしょ!

あとは練習あるのみ。これから一週間寝れない日々が続きそうです。

と、練習のモチベーションを維持するために少しハードルをあげた節はありますが、是非みなさん見に来てください。]]>
      
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   <title>最近気がついたこと</title>
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   <published>2009-09-06T00:46:09Z</published>
   <updated>2009-09-06T06:54:40Z</updated>
   
   <summary>生まれてこのかた何度も繰り返してきたことなのに、ずっと勘違いしていることって意外...</summary>
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      <![CDATA[生まれてこのかた何度も繰り返してきたことなのに、ずっと勘違いしていることって意外とあるものだという話。

最近久しぶりに自転車のタイヤの空気入れをしたのです。T字型のハンドルを両手でつかんで、シュッ、シュッってやる一番一般的なやつです。

やや話がそれますが、これだけIT革命だ、洗剤革命だという時代に、何十年も基本フォルムが全く変わらない道具ってすごいなって思います。そういう道具って「使いやすさ」という機能的な面だけではなく、「使う手ごたえ」みたいなちょっと人間臭い側面を持っている気がしますね。空気入れで言えば最初はスムーズに動くんだけど、空気が入ってくるとどんどん手ごたえが強くなってきて、最終的には押しても反発してきて動かなくなるというあの感じ。空気パンパンにしているぞっていう実感をびしびし感じさせてくれるもんね。空気入れって本来はめんどくさい作業なのになんか好きになってしまうのは何といってもあの「手触り感」が病みつきになるからです。今後自動空気入れ装置みたいなものが安価で販売されたとしても、絶対手動の方を使い続けると思う。

いや、まあそれはさておき。

本題に戻るとあれで空気パンパンにした後タイヤに取り付けてた注入口を外した瞬間

<font size=+2><strong>プシュッ</strong></font>

って空気抜ける鋭い音がするじゃないですか。僕ね、この30年間ずっとあれは

<strong>タイヤから空気が抜ける音</strong>

だと思ってたんです。調子に乗って入れ過ぎた空気をタイヤが耐えきれずに吐き出している音。直感的にはこっちの方がイメージ湧きますよね。マックシェイクをもう息が苦しいというところまで吸い続けて、もう無理ってところで「ふうーーーー」って息を吐き出すあの感じですよ。

でも最近気づいた。空気が排出されているのは実は空気入れの方からなんです。観察してみると空気入れって圧縮した空気を一時ためておくキャッシュメモリーみたいな部分がついてるでしょ。そこにキャッシュされているもう必要のない空気が注入口をとった瞬間に吐き出される音。それがあのプシュッの正体だったわけ。この年になってそれに気づいてびっくりしました。

でもこんな感じの自分だけの思い込みって結構あるからね。人に話したとき「ああ、そう言われてみればそうなんだ」って言われるのか、「え、そんなことも知らなかったの」って言われるのか、全く読めないので口にするのは結構勇気がいります。]]>
      
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   <title>偽善について思う</title>
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   <published>2009-08-31T05:11:10Z</published>
   <updated>2009-08-31T05:26:10Z</updated>
   
   <summary>何気なくつけたテレビが24時間テレビ「愛は地球を救う」で、しかもそれがかなり終盤...</summary>
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      何気なくつけたテレビが24時間テレビ「愛は地球を救う」で、しかもそれがかなり終盤のほうだったりすると、あんまり知らない人の結婚式に間違って紛れ込んでしまったみたいな気分になりますよね。いろんなところで拍手が起きたり、感動の演出があったりするたびに、全くついていけてないんだけど無理やり気持ちを乗っけていくやつ。正直あの雰囲気はとても居心地が悪いので今はほとんどチャンネルを合わせませんが、実家にいたときは母親や祖母が好きで見てましたね。

で、毎年思うことですがこの番組が放映されるたびに、一方でこの番組に対するネガティブキャンペーンって必ず起こりますよね。皆が1つの方を向いて進みだしたときに、それを牽制するような意見が強くなるのは、システム的に見ればある意味健全なバランス作用なのだと思います。ただ目の前で聞えよがしに「あんな番組は偽善だよ」なんて言っている人を見ると、なんかちょっとげんなりするものがあります。

不思議なのは喧嘩したり、万引きしたり、いろんな悪いことをしていた不良グループの一員か、実は根はやさしい子なんですなんてことになると世間的に許されたりするでしょ。こういうのは本当はいい人が悪い人ぶっているわけだから、言うなら「偽悪」ですよ。世の中は「偽悪」にはとても寛大で、「偽善」にはとても厳しい。でも「偽悪」と「偽善」なら実質いいことしてるのは「偽善」のほうだからね。

ちょっとズルイのはさ、悪いことを悪いということよりも、「偽善」を指摘する方がずっと簡単でカッコいいわけ。オリンピックは商業主義に塗れた金もうけイベントだとか、クリスマスなんて企業に踊らされてるだけだとか、そう言っていたほうが世の中を斜から見据えているみたいになれるからね。でももうさすがに何十年も言われ続ければ、むしろその考え方の方が正論になってることに気がついて欲しいね。この手の意見を聞くたびに、おまえはまだそこにいるのかって思う。もう分かってるよ、みんなそのことは。出演者も募金する人も、テレビ見て感動している人も、そんなことは百も承知の上でやってますよと。

「毎年募金してます」とカメラの前ではしゃいでいるおばちゃんのほうがもうとっくに一段階上に行っている。そんな気はします。
      
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   <title>気になる表現</title>
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   <published>2009-08-26T00:36:22Z</published>
   <updated>2009-08-26T05:07:15Z</updated>
   
   <summary>例えばトイレに入ったときに 「トイレはきれいに使いましょう。」 って書いてあるの...</summary>
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      例えばトイレに入ったときに

「トイレはきれいに使いましょう。」

って書いてあるのは僕は別になんとも思わないのですが

「いつもきれいに使っていただいてありがとうございます。」

って書かれていると、むちゃくちゃってほどではないですが、ほんの数ミリぐらいイラってします。

もちろんトイレをきれいに使うのは公共のマナーですし、僕も生暖かい液体が自分の足にはねて足首までスーと垂れてくるときのあの「ゾクッ」体験は出来る限り避けたいので、一滴たりとも外には飛び散らないように細心の注意を払っております。でもそうしようと考えてそれを行動に移すのは最終的に自分の選択でありたいわけ。その上での「ありがとう」なら「いえいえ、とんでもないです」になるんだけど、その自分の自由意志の部分にまで勝手に先回りさせるとなんか嫌な感じになるんですよね。

こないだも新幹線のアナウンスであったのは

ただいま車内では「おいしいホットコーヒー」を販売いたしております

ってやつ。これもすごく違和感を覚えるんです。さっきと同じで本当においしいのかどうかはともかく、それを決めるのはこっちにさせて欲しいの。

選挙戦も山場を迎えていますが、候補者の演説を聞いていてもこの手の言葉遣いが多いのが何か耳障りに感じる毎日です。

民主党の「ばら撒き政策」を皆さんはどう思いますか。

憲法の「改悪」を阻止しよう

わかんないんだけど、こういうのが聞き手側に「さりげなく印象をすり込ませるテクニック」とか思われてるとしたらすごく間違っていると思う。ちっともさりげなくないし、むしろそういう表現をされたとたん信用できなくなっちゃうところがあります。

本当に判断して欲しいところであれば、そこはニュートラルな表現をして欲しい。「民主党の政策」でいいし、「憲法の改変」でいい。そのうえでいかにそれが「ばらまき」であり、「悪」なのかを説得できるかが表現者としての腕の見せどころなんじゃないかって思うんだけどね。
      
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   <title>予備校のコマーシャル</title>
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   <published>2009-08-20T00:48:48Z</published>
   <updated>2009-08-20T00:55:34Z</updated>
   
   <summary>夏休み前辺りに結構頻繁に流れてた東進の夏期講習のテレビコマーシャルってご存知です...</summary>
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      夏休み前辺りに結構頻繁に流れてた東進の夏期講習のテレビコマーシャルってご存知ですかね。実際の授業で講師が熱く語る映像を切り出して、最後に「本気で勉強したい人だけ、来てください」なんていう文字がバンと出る。

これねえ、一応同業者だし、知っている人も出てたりするからすごく書きにくいことではあるのですが、僕ね、あれ見るたびになんか「うわー」って思っちゃうのですよ。なんかお腹の中がむずむずとなってまともに見ていられない感じ。

特定の講師や予備校を批判していると取られると本意ではなく、あくまで一般論として僕の個人的感想を書くのですが、予備校講師の持っているアクの強さって、芸人の持っているそれとは少し違う気がするのです。例えばエンタの神様の芸人を見てる場合なら、「つまらない」と思ったとしても「うわー」って感じにはならないから。

それはね、芸人の場合、実際に一般の客の前で演じて反応を見たり、他の芸人の意見をもらったり、さらには自分の面白いと思う芸を鑑賞したり、そういう自分を映す鏡がいたるところにあるから、どんな芸もいったん芸人の中から取りだされ、外から眺められる過程は経てきているはずなんだという安心感はあるのです。仮にすごく「つまらない」と感じる芸を見てもね、でもその芸人がこういうところを「おもしろい」と思っているんだろうなという部分は理解はできるわけ。その芸人も、僕がその芸を「つまらない」と思う理由をすべて織り込み済みで、「おもしろい」の判断をしたのならそこはもう感覚の違いでしょ。

でもねえ、予備校講師というのはそういう相対化のプロセスを持っていないんですよ。予備校講師のもつキャラクターというのは予備校という閉ざせれた世界の、教室という閉ざされた空間で培養されていく性格のものでしょ。もちろんそれが悪いわけではないですよ。それが生徒の人気を得て、もっと言うなら生徒の理解度や合格率を高めるものなんだったら何の問題もないわけ。でもそれはあくまでその特殊な世界の中で通用する魔法であって、テレビの電波に乗っけてお茶の間に出しちゃったとたんものすごい違和感を発するものだということは自覚したほうがいいんじゃないかなと思う。例えるなら舞台上で多くの人の心を鷲づかみにする宝塚のトップ女優が、あの抑揚のある口調で話しながら普通の道を歩いてたら、絶対ひくでしょ。万人の聴衆の涙を誘う秋川雅史の声だって、カラオケで歌われたら、正直ちょっとうざいと思うでしょ。それと同じ。

その点では家庭教師のトライのCMで、まじめに正論を説く講師の顔に子供が落書きをしていくやつは僕は好きだったな。ああいう相対化がきちんとできる学校はなんか信頼できるな気がするんだよね。
      
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   <title>ゲームと想像力</title>
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   <published>2009-08-07T13:27:04Z</published>
   <updated>2009-08-07T23:00:05Z</updated>
   
   <summary>最近暇さえあればメタルスライムを追いかけている日々。大の大人が書くことではないな...</summary>
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      最近暇さえあればメタルスライムを追いかけている日々。大の大人が書くことではないな。

僕がドラクエの好きなところは、初期のドラクエの持っていたよい意味での「いい加減さ」をずっと引き継いでいるところです。街が魔物に襲われてシャレにならない状況であっても、それはさておきで宿屋で一泊できたり、別の場所でレベル上げできたりするという。最新作でもこのぬるさは健在です。なんかほっとできます。

ファミコン時代からドラクエと付き合ってきた僕としては昔ながらの武器が出てくるとちょっと嬉しくなってしまいます。「くさりかたびら」とか。でもドラクエやってる最近の小学生に「くさりかたびら」なんて分かるのかな。どんな武具なのか見たことすらないでしょ。

そんな大人の優越感に浸っていたとき僕はとんでもないことに気づきました。

よく考えたら、僕も見たことない。

「くさりかたびら」ってのは、、、「くさり」の「かたびら」だよな。何、「かたびら」って。実生活で聞いたことも見たことも、ましてや触ったこともないでしょ。にも関わらず僕の中では完全に「くさりかたびら」の絵が頭にあるのです。その性能とか具体的にこう使うとか、なんならその感触まで熟知している。え、何、何、これは??

明らかに僕の頭の中にある武具は僕の想像が勝手に作ったものなんだよなぁ。よく考えれば昔のドラクエは武具を装備したってそれがグラフィックに反映されることはなかったから、映像を見たことなんてあるわけないんですよ。なんかすごいなって思ったのはその想像が僕の中で完全に｢見たことある」っていう記憶にすり変っていたことね。子供の頃の想像力ってそれくらい強烈だということにちょっと唖然としてしまいました。

今のゲームはどんどんリアリティーを追及しているでしょ。実写を見ているのとなんら変らないような世界が体験できる。それはそれでやっぱりすごく面白いわけ。最新のドラクエの戦闘シーンもキャラクターとモンスターが本当に動いて戦っている映像に、子供の頃図鑑でしか見たことなかった怪獣が動いているのをテレビで見たときと同じくらいテンションが上がってしまいますから。あ、メタルスライムってこういう動き方するんだって。

でも、だからといって携帯の絵文字みたいなキャラクターを操っていた初期のドラクエがつまらなかったかというと全然そうは思わないのね。静止画の荒いドットで描かれた敵キャラだって、僕の中では今のゲームとと同じくらい生き生きと動いていたように思うのです。

昔はよかったって訳でもないんだけどね。いまあの当時のゲームなんて作ったら絶対手抜きだということになるし、売れもしないと思う。あれで夢中で遊べてたのは、当時はそのレベルのゲームしかなかったからだとも思うのです。でも、それを想像力で補って楽しむことを知っている自分は今の子供たちより少し幸せなのかもしれないな。

ここまで書いて思い出した。20年前、家に閉じこもってゲームばかりをしている僕たちをみて大人たちは「昔は外でいろいろと工夫して遊んだものだ。テレビゲームは子供の想像力を奪っている」って言われてたわ。結局いつの時代も同じことは言われているものなんですかね。
      
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   <title>「つみきのいえ」は泣ける</title>
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   <published>2009-07-31T05:29:05Z</published>
   <updated>2009-07-31T05:39:57Z</updated>
   
   <summary>アカデミー賞も受賞した短編アニメーション「つみきのいえ」。いまさらながら見ました...</summary>
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      アカデミー賞も受賞した短編アニメーション「つみきのいえ」。いまさらながら見ましたが、いまさらながら素晴らしかった。言葉はなく、必要最小限の効果音とBGMで進行するわずか12分のアニメ。でも、まるで良質のパントマイムを見ているような気分になります。

水面の上昇によって上に上に積み木のように積みあがっていく家。すごくうまいのは上下と言う空間軸が自然に未来過去の時間軸にすりかわる点ですね。水面は未来と過去の境界線となり、上に家を建てるという行為は未来へ向かうもの、潜水服を着て水の中に潜っていくという行為は過去へ向かうものとなる。単なるメタファーとしてではなく。

僕が好きなのは、おじいさんの感情の起伏がほとんど描写されないところですね。むしろ無感情に淡々と物語が進んでいき、唐突に終わる。でもそのラストワンシーンがどうしてあんなに泣けちゃうんだろう。

「泣けるドラマ」とか「泣ける映画」なんてよく言うけど、僕も大分とひねくれた感じに年を取ってきたのか、その設定でそういうことやられたらそりゃ泣くだろう、みたいなのがどんどん苦手になって来てます。例えドキュメンタリーだったとしても、余命何日とか、幼くして障害をもった子供がとか、テレビでやっていたら即チャンネルを変えますね。泣けないからじゃないです。というより、見たら100パーセント泣くと思います。でもそこで泣いている自分にちょっと嫌な感じになるの。うまく表現できませんが、それは上からの涙のように思えてくるのです。泣くことによって自分を持ち上げようとしてませんかって。

でも、このラストシーンで泣いている自分は素直に好き。

久々によい作品に会えたって思えました。
      
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   <title>階段の電気をつけるときいつも間違う</title>
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   <published>2009-07-28T12:49:10Z</published>
   <updated>2009-07-28T12:51:02Z</updated>
   
   <summary>今の家に住んでもう5年以上の歳月がたちますが、未だに3階に上る階段の明かりをつけ...</summary>
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      今の家に住んでもう5年以上の歳月がたちますが、未だに3階に上る階段の明かりをつけるつもりで2階の部屋の照明を消してしまうことがあります。スイッチがたくさんあるわけではないのですよ。階段のスイッチと2階の部屋のスイッチの2つだけ。しかもほぼ毎日のようにつけ消しをしているのにも関わらずです。

友達の下宿ならともかく自分の家のスイッチの二択すら覚えられないというのはさすがにひどいなと我ながら呆れていたのですが、最近ふとあることに気がつきました。この間違いが起こるのはほとんどの場合、急いでいたり、考え事をしていたり、ようは意識が別のところにあるときです。集中していないのだから間違って当然と思われるかもしれませんが、どんなにぼうっとしていても例えば自分の家に入るときに差し込んだ鍵を回す向きってまず間違わないでしょ。そういう日常の習慣って体が自然に覚えてくれるものだと思うのです。だからこの間違いには意識の下に割り込んでくる別の要因があるはずなんです。

考えてみればとても単純な話でした。

上下に並んだ2つのスイッチのうち、階段のスイッチの方が「下側」についていたのです。心理学の専門家ではないですし、きちんと統計を取ったわけでもありませんが、「階段を上る」という連想が無意識のうちに上のスイッチを選ばせるという説明にはかなり説得力があるように思えます。概観が全く同じ二つのスイッチなら、上る階段のスイッチは上側、部屋のスイッチは下側と空間的な対応をつけたほうが絶対にうっかりの間違いは減らせるだろうなと、いまさらながら設計した人を恨めしく思ったり。

単なるスイッチの配置にも正解はあるものです。人間工学っておそらくこういうことなんでしょうね。
      
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