Home > パフォーマンス > アサッテの人

« 天地無用 | メイン | どんぴしゃ »

アサッテの人

生まれて初めて「文藝春秋」という文芸雑誌を買いました。目当ては今年芥川賞を受賞した諏訪哲史さんの「アサッテの人」。純文学には面識も免疫もない僕ですが今年は自分の好みに偏らずいろいろなものを読むのが目標なので背伸びしてがんばってみました。序盤はちょっと辛いかなーと挫折しそうになるのですが、読みすすめていくうちにちょっとずつ引き込まれます。面白い。物語の中心に据えられるのは叔父が時折なんの脈略もなく発する単語。それら何ら意味を持たない語の並びが何故か不思議な魅力を持っているのです。その言葉の担っていた役割が叔父自身の手記によって次第に明らかにされていきます。

世の中の矛盾も混沌も結局はすべて定められた予定調和なんじゃないだろうかって思うことがあります。例えば毎朝のニュースでキャスターが残酷な殺人事件に眉をしかめ、政治を嘆き、スポーツの結果に一喜一憂するのがまるで結婚式のスピーチみたいな決まり文句に聞こえてくることってないですか。そしてそれがとても重たく耐えられないものに感じてくる。そういうのって僕はすごく理解できちゃうな。ときどき人と話していても先の読めた話に想定どおりの愛想笑いを浮かべている自分にたまらなく嫌気が差してくることがある。この本で「アサッテ」とはそういう予定調和を打ち砕くものとして定義されます。数学的に言えば平面的な日常に対して1次独立に伸びるベクトル。他人にとって理解不能な言葉は叔父にとっての「アサッテ」なんです。

「アサッテ」を追求し続けた叔父は妻の死を一つの契機として次第に自己矛盾に陥っていきます。予定調和を壊すはずの「アサッテ」自体が一つの予定調和になってしまうことに気づきはじめるのですね。それが少しずつ叔父のバランスを壊し始める。これは落語の型を徹底的に分析し、それを崩していった桂枝雀さんがその晩年に陥っていったジレンマにも通じるものなのかもしれない。

僕にとってパフォーマンスの果たす役割がこの「アサッテ」なのかもしれないって思ったとき、すごく身につまされるものを感じたのですね。芸術の方向は多かれ少なかれ日常のベクトルとは独立な向きを向くもので、それが日常と共存するためのバランス感覚はとても繊細で危ういものなのだろうな。

今日の一言
芸術にとって最後の命綱は常識じゃないだろうか

Comments:0

Comment Form

コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。

Remember personal info

Home > パフォーマンス > アサッテの人

Search
Feeds

Page Top