- 2007-06-15 (金)
- 学問
たまには数学講師らしく。
例えば自分の昨日一日の行動を思い描いてみます。自分が何時何分にどこにいたのか。地球上の位置は緯度と経度で特定することができますが、簡単のために緯度だけを考えることにしましょう。例えば昨日のある特定の時刻に対して、その瞬間に自分がいた場所の緯度が何度何分何秒だったかはただ一つに定められるはずです。これに対して異を唱える人はいないでしょう。数学では何かの値xに対してある値yがただ一通りに定まるときyはxの関数であると言います。ここでは緯度が時刻の関数となっているわけです。
とここまではいいでしょうか。
では問いましょう。昨日の12時34分56秒あなたがいた場所を正確に答えられますか。答えられる人はまずいないだろうね。なんとなくあの辺りってくらいまでは言えるかも知れないけど緯度を秒単位で特定するほどの精度なんて望むべくもない。あれ、でもさっき関数って「何かの値に対してある値が定まること」って言わなかった。特定できないのだとしたらこれは関数とは言えないのではないのでしょうか。
これに対しては、それは人間の記憶力の問題であって、もしあなたの体の中にNASAがチップを埋め込みあらゆる時刻の位置情報をコンピューターで管理しているとすれば可能なはずだと反論することはできるでしょう。なるほど、ならば「ある瞬間に地球上で息を吸いこんだ人間の数」はどうでしょう。「ある瞬間に宇宙に存在する水分子の数」は。これはNASAが総力を挙げて取り組んだって絶対調べられないと思うぞ。ならばこれは関数ではないのでしょうか。
屁理屈をこねているようですが、ここに非常に大切な点があると僕は思うのですね。数学では上に挙げたような到底その値を調べることが不可能なものもすべて「関数」だという立場をとります。重要なのは「関数」というのはあるものとあるものが「対応すること」そのものに付随する概念であって、その値が実際に求められるかどうかとは完全に切り離されているということ。そしてここを切り離せるかどうかは「関数」を理解する上で非常に大きなステップなのです。
中学生で初めて関数を学ぶとき、まずはy=2xのような比例式から入り、1次関数, 2次関数と進みます。生徒にとってxを決めればyの値が決まる、と言ったときにxに対してyが「対応すること」と、yの値が「求められること」は完全に同義でとらえられているはずです。その2つを区別する必要に初めて迫られるのが高校で登場する「三角関数」ではないかな。xに対してsin xを定める対応規則は明快であるにも関わらず、ほとんどのxに対してsin xの値は何かと問われても答えられないのです。宇宙に存在する水分子の数が答えられないのと限りなく同じ理由で。
「三角関数」を学ぶとき多くの生徒が、あれ、今までの関数とはなんか違うぞっていう違和感を感じる。この違和感っていうのはなかなか厄介なもので、それはつまずきの原因になる小石でもあり、関数概念の本質的な理解に通じる扉でもあるのです。ここをどう見せるかは教える側にとってなかなか悩ましいところなのかなと思います。多くの教科書ではこの小石を丁寧に拾ってつまずかないようにしてあげてるのです。まあその気持ちも分かるんだけど、僕は基本的に放置です。そんなもの勝手に転んで、立ち上がるとき自分で何かに気付いてくれよと。
ユークリッドは"三角形"を実体から概念へと昇華させました。それと同じように関数も姿なき概念なんだな。そもそも数学というのが実体の奥に薄ぼんやりと透けて見える「概念」に目を向ける学問だっていうことを自分の力で見出せたとき、数学という言葉の持つ意味がほんの少し深まる気がするはずなんだよね。
今日の一言
関数を見て「値」に注目するのが工学者、「対応」に注目するのが数学者
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