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赤ちゃんポストについて思う

これについてはずっと何かを書こうかなとは思っていたのですが、僕にとって一番難しいテーマですね。子供がいるわけでもないし、個人的には子供より犬の方が百倍も可愛いと思ってる僕ですから、それほど感情が動いているわけでもない。だからと言って客観的な視点で倫理的にどうのこうのなんて書くのもねえ。もし「倫理」や「道徳」に感情があるなら、僕にだけは語られたくないと思ってるね、絶対。でも無理にでも切り口を見つけて自分なりに何かを書くってのが今年自分に課した義務。とりとめのない文章を始めてみます。

まず「赤ちゃんを捨てる」という行為は人間としてのタブー、というより「哺乳類」としてのタブーだな。これは揺ぎ無い。子を産み育てることは我々人類が「魚」や「かえる」ではないということを保証する最大のアイデンティティーと言ったって構わないです。歴史上人間が作り上げたコミュニティーにおいて「子捨て」が容認されたことは一度たりともないんじゃないかな。では、「子捨て」は人間性を失いつつある現代人だけがもつ特有の病なのかっていうと、うーん、そんなことは絶対ないと思うな。身勝手でどうしようもない人の業なんてギリシャ神話や日本書紀にだって描かれてる。今の日本人は性に奔放になったなんて言うけど、日本が世界に誇る古典文学「源氏物語」を読んでいただければ、清く正しく慎ましやかな古の日本人がどれだけ性を謳歌していたかはよく分かります。人間の本性なんて洞穴に住んでいたころから良くも悪くもそんなに変わってないと思うんだよね。いついかなる時代においても子捨ては社会のタブーとして、しかし確かに存在したんじゃないだろうか。経済的な理由を考えれば昔の方がはるかに多かったかもしれない。

「悪いことしたら裏山に捨てにいくわよ」って子供のころよく怒られました。ちなみにこれが京都だと「鴨川に捨てにいく」になるらしいです。地域性が出るのが面白いけど、この手の叱り文句ってきっとどこにでもある。親にあんまり顔が似てないと「あんたは橋の下で拾ってきた子だから」と冗談交じりに言われることもありますよね。言葉のあや、とは言えこのような表現の裏に、昔はそういうことが実際によく行われていたことの名残を見るのは強引ではないと思う。それほど遠い過去ではないかつての日本においても「子捨て」は、肯定されることは決してないにしろ、天災や病と同じように日常に起こりうる悲劇の1つとして受け止められていたのではないのかという気がします。裏山や川のほとりはそうした社会の暗部、矛盾の受け皿としての役割を担っていたのかもしれません。

近代ってのは結局そういう人間の持つ矛盾を全て否定しようとしてきたんだと思う。汚い物は地下に隠し、臭いものには蓋をして、布にシュシュッとファブリーズ。無色無臭の清潔な建物の中で涼しい顔してるけど、人間の醜さや残酷さはどんなに否定したってなくなるもんじゃない。

「子供を育てる責任を放棄することは断じて許されない」って安倍総理の言葉、これは正論。それは違うなんて誰も言えません。でもそれって「地震は決して許されない」「病気に断固反対します」って言うのと同じくらいの空虚な言葉なのかもしれない。「起こってはいけない」ではなく、それは「起こりうるものである」という立場に立つべきなんじゃないかな。「ありえない」「許せない」で思考を止めていたらこの議論は一歩も前に進まないよ。社会の矛盾を覆い隠すことで「美しい国」を取り繕おうとしてるように見える安倍さんの言葉よりも、人間の闇を知り、それでもなお目をそむけずになんとか打開策を見出そうとしている熊本慈恵病院の先生の言葉の方が僕にとって遥かに強いし、説得力を感じてしまうのです。能書きより先に行動できるこういう医師こそ本当に尊敬されるべき人なんだと思うなあ。

もちろんこの「赤ちゃんポスト」が問題を改善する手段としてどうなのかは全く別の問題だけど、これに関しては今行われていることのもたらす結果を冷静に観察するべきなんだと思いますね。

今日の一言
「悪いことしたら捨てに行くわよ!」って場所が今の世の中にはないのかも

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