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数学的思考 (その2)

最近「パンセ 数学的思考」(吉永 良正 著)という本を読んで柄にもなく哲学についてちょっと考えております。パンセとはパスカルが残した膨大な草稿を整理した書物。ちなみにこのパスカルと同時代を生きたのがデカルト。どちらも17世紀の偉大な哲学者であり、そしてもちろん高校の教科書にも登場するほどの超有名な数学者でもある。「パスカルの三角形」「デカルト平面」なんて言葉は高校生なら知ってるはずだし、中学の理科に登場する水圧に関する「パスカルの定理」のパスカルも実は同一人物です。

前回「数学的思考」とは何かについて書いたけど、パスカルもデカルトもこの数学的思考を唯一最大の武器にして自分の外側と内側に果てしなくに広がっている「宇宙」と向き合おうとした人です。昔の人にとって数学と哲学はほぼ同義だったんだね。パスカルは有名な「人間は考える葦である」という言葉によって人間は考えることによってのみ宇宙と太刀打ちできると宣言し、デカルトは自分の立つ土台を疑い続けることで、それを疑っている自分の存在だけは絶対に疑うことができないという「我思う故に我あり」の結論に到達した。とまあ知ったようなことを書いてますが、僕の薄っぺらい付け焼刃の知識ではその深い内容までは到底届きませんが。二人とも似たようなことやっているように思うんだけど、仲はすっごく悪かったみたいでパスカルはたびたびパンセの中で「あのくだらないデカルトの考えは…」みたいなことを書いてるの。あ、やっぱ人間なんだって思えてちょっとうれしくなったり。

パスカルの最期は少し悲しい。この「数学的思考」というのを突き詰めていった先にあるのはある種の危うさなのかなってふと思った。だって常に自分の拠り所を疑い続けるわけだから。僕たちがこの世界で正気を保って生きているのは、何の根拠もない常識の杭に理性をつなぎとめているからなんだって思うのね。その杭の打ち付けられた大地が実はぬかるみだったことに気付いたとき、拠り所をなくした精神はいったいどこに向かうのだろう。偉大な業績を残した多くの数学者や哲学者がその晩年精神を病んだり、社会不適合者の烙印を押されていったのも分からなくはない気がするのです。自分自身への呼び出しを含むコンピュータープログラムが簡単に暴走を起こしてしまうように、何かを考えている自分について考えるなんてとき精神はそのバランスをあっさり崩してしまうものなのかね。

一つの物事を追求している人間には、体勢を崩しかけたとき自分をこの現実の世界に引っぱり戻す役割を果たするものが必要なのではないかって思う。それは人とのつながりであったり、あるいは音楽や文学といった芸術であったり。あれほど深く宇宙の真理について探求したアインシュタインが最後まで狂気に陥らずにすんだのは彼の持っていた音楽的な資質によるものなのかもしれない。ファインマンや寺田寅彦は物理学者であるとともに文学的な才能やユーモアのセンスをちゃんと持ってた。経済学者ジョンナッシュを描いた映画「ビューティフルマインド」のテーマもまさにここだった気がする(あんまり覚えてないけど)。

一つのことだけに秀でた人よりも、自分の専門分野以外のことにちゃんと魅力を持っている人の方が僕は信頼できる気がしてしまうんだよね。なんとなく人間的に。

今日の一言
正気と狂気は車の両輪

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