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書くということ

  • 2007-04-25 (水)

僕にとってひとつの文章を書きあげるのはかなりのエネルギーを必要とすることです。文章に限らず、例えば寄せ書きで色紙に書く一言でも、年賀状の余白を埋めるためのたわいのない挨拶の言葉でも下手をすると小一時間考えこんでしまうことは良くあります。そのプレッシャーからか最近とんと筆不精になりましたり、ちょっとしたメールの返信がなかなかできなくて先延ばしにした挙句忘れてしまったりとかなり無礼なことをしております。ようすけの日記やホームページの更新が滞っていたのもやはり何かを書くということの重圧があるからなのでしょう。

書くという行為が何故これほどのプレッシャーを与えるものなのか。突き詰めていけば「書く」ということは、何かを「選択」するという行為と切り離せないものであるからではないかと思います。ここでいう「選択」とは書く内容を選んだり、あるいはそれをどういう言葉で表現するかを推敲するという意味での「選択」ももちろんありますが、もっと深い意味において何かを書くことは自分の"考え"を選択するという行為ではないかと思うのです。

例えばイラクにおいてテロで多数の死者がでたというニュースを僕らが聞いたとき、それに対して僕はいろいろなことを思います。被害者に対してかわいそうと思い、一向に収束しない理不尽な事態をなんとかできないのかと思う一方で、所詮それは他国のことで自分には関係のないことだし関わりたくもないと思ったりもします。そのどちらもそれなりの説得力をもった素直な自分の感情です。これほど大きな問題でなくても僕たちは一つの事柄に対して矛盾する2つの感情を同時に持つことは茶飯事で、しかし普通に生活している上ではそれに対して特に結論を下すことはありせんし、その必要もありません。難しいテーマに直面したときに言う「考えさせられる」という決まり文句がありますが、これはなんらかの矛盾を「感じて」はいても、それを結局棚上げしているわけで、詰まるところ何一つ「考えて」はいないコメントです。

しかし僕がそれに対して何か少しでも意味の持つことを書こうと思ったとき、僕は自分の中にある漠然とした状態の考えに対して何らかの決断をしなければならなくなります。白なのか黒なのか、もしくは「白とも黒ともいえない」というのも一つの選択でしょうが、とにかくどちらにも理のある2つの事柄に対して自分の立場を決めていかなければなりません。そのとき人は初めて「考える」のです。小さな選択を繰り返していく作業のなかで自分の考えが全く予想もしなかったところに引っ張られていくこともありますし、もしくは自分自身の選択の中にとんでもない矛盾を感じてしまったりもします。それを何らかの結論にに着地させていく、むしろそれは不時着といってもいいかもしれませんが、それはとても大変なことで、少し大げさかもしれませんが僕にとって文章を書くのはそういうものなのです。

しかしだからこそ今の僕にとって「書く」ということは必要なのではないかと最近思ってきました。ある程度の安定した生活の中で、ともすればどんどん考えることを放棄する方向に進んでいる自分に気付きます。そんな自分を戒めるためにもこれから定期的に文章を書くことを自分に義務づけていこうと思います。もちろん僕にそれほど重いテーマが扱えるはずがありませんが、日常の些細な事から何かを拾い上げ、自分の考えを「選択」する作業を繰り返していこうと思います。


今日の一言
何かを選ぶことは何かを捨てること。

Comments:1

No Name 2007-05-12 (土) 14:20

フリーランスのライターです。
「考える」ことを放棄したコメントですが
私も全く同じ理由で筆無精です。
でも「それぐらいの返事がなぜ書けない」と
理解されないことが多いです。
職業柄、余計に。


とあるラジオの仕事で
明石海峡公園のイベント紹介をしました。
台本をつくる際、
出演者の中にお名前を見つけました。

高校1年の時の同級生です。
ご活躍を嬉しく思いました。

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