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同一視

全く「違う」いくつかのものを「同じ」ものであるとみなすこと。

例えば「3」という数は「3羽の鳩」や「3個のみかん」、「3冊の本」など色々な異なる事象に潜む共通の性質を同一視することによって得られる概念である。さらにその数の中で2で割った余りが等しいものを同一視することによって「偶数」「奇数」という概念が得られる。自分の生まれた日は1つしかないにも関わらず「誕生日」が毎年やってくるのは、ある周期で繰り返しやってくる「自分の生まれた日と天体の状態が似通っている日」が同一視されているからである。このように異なるものを同一視するという考え方は私たちは知らず知らずにやっている。

逆にこういう例を考えよう。10年前の自分と今この瞬間の自分は果たして「同じ」であろうか。当たり前じゃないかと言われそうだか、これとて何をもって「同じ」なのかと突き詰めると実は定かとはいえない。「私はもうあのころの私とは違うのよ」なんてよく言うではないか。人間は5年、10年もたてば性格も、体型もまるっきり変わってしまうことがある。1986年のワールドカップメキシコ大会の英雄マラドーナと2006年のドイツ大会の観客席ではしゃいでいた太った男は果たして同一人物と言えるのか。あるいはジキル氏とハイド氏のような二重人格者は同じ人物だろうか、違う人物なのだろうか。我々が人やあるいは自分を「同じ」だとする認識の背後にも、時間、空間、記憶の連続性によってもたらされるある種の同一視が存在していることに気付く。

違うものを同じものであるとみなすことが同一視、というよりも、逆に何を「同じ」とみなすかによって何が「違う」かが規定されるとも言える。それゆえに数学において対象の認識は、まず「何を同一視するか」を定義することから始まる。