限りなく

映画「ノッティングヒルの恋人」の中で主人公が電話越しの相手に向かって自分の同居人がいかにバカなやつであるかを説明するシーンがある。

「いいか、お前の頭の中にこれ以上はいないって言えるぐらいバカな奴を想像してくれ。した? OK、じゃあ聞いて。俺の同居人はその2倍バカなんだ

これは彼の同居人が「限りなく」バカであることのとても説得力のある説明となっている。

「限りなく0に近い」「限りなく大きくなる」など、数学においても「限りなく」という言葉は頻繁に登場するが、よく考えると「限り」が「ない」とはどういうことだ。分かったようで分からない言い回しだ。これに厳密な定義を与えるとき、数学ではこの映画の主人公と全く同じ物言いをする。

例えば「限りなく大きくなる数」というのは

「いいか、お前の頭の中にとてつもなく巨大な数を想像してくれ。もうこれ以上の数は誰も想像できないだろうというくらい大きな数だ。したな。よし、この数はそれより大きくなるんだ」

と定義される。

ちなみに村上龍のあのデビュー作も数学的には「あなたの頭の中に想像できるこれ以上ないほど透明なものよりも透明なブルー」となる。

仮定

「PならばQ」という推論において、Pにあたる部分を「仮定」という。「仮定」はその後のQにあたる「結論」とセットとなるもので、言葉としてよく似ているが「推定」とは意味が違う。

仮定は推論の出発点となる言及なので、必ずしもそれ自体が「正しい」言及である必要はない。「僕の孤独が魚だとしたら」(伊坂幸太郎)、「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」(村上春樹)、「もし威勢のいい葬儀屋がいたら」(ドリフ)などどれも非現実的であるが印象深い仮定である。

「PならばQ」という推論が否定されるのはPが正しいのにQが間違っているときに限る。例えば「私が鳥だったらあなたのもとに飛んでいくのに」という言及に対して、「嘘をつくな、おまえ鳥じゃねえだろう」と返すのは正当な批判とは言えない。「嘘をつくな、おまえが鳥だったら、露天風呂の女湯に飛んでいくだろう」というなら正当。

仮定そのものが間違っている場合はその推論は常に正しいことになる。例えば「1+1=3ならば雪は黒い」は(意味はないが)正しい推論である。「僕がロミオなら、君はジュリエットだ」と手を握りながら見つめあう若いカップルがいたとしても、たぶんその男はロミオではないだろうから嘘を言っていることにはならない。そっと見守ろう。

推定

「たぶん、こうに違いない」あるいは「こうであって欲しいな」と考えること。「予想」と言い換えてもいい。すでに正しいと分かっている何らかの事実を根拠にして行われることが多い。

「1のボタンを押したら画面に1と表示された。2のボタンを押したら画面に2と表示された。ということは3のボタンを押したら画面には3と表示されるに違いない。」
というのは帰納的な推定。

「いま街行く人20人にアンケートをしたら、14人がEXILEだった。ということは、世の中の人の70%はEXILEである。」
というのは統計的な推定。

「男湯と女湯の仕切りが生湯葉だったらいいのに」
これはただの妄想。

上の例からも分かるように推定には「正しい推定」もあれば「間違った推定」もありうる。それが正しいことを補強する証拠はいくらでもあり、逆にそれを否定する証拠は何一つないような数学的言及でも、証明がなされていない限りあくまで「(限りなく正しく思われる)推定」であり、数学的事実とは区別される。

言葉としてよく似ているものに「仮定」があるが、こちらは推論の中で使われるものであり、意味は全く違うので混同しないようにしたい。「宇宙人は地球にいるだろう」というのは推定であり、「宇宙人が地球にいたら、UHA味覚糖の宇宙めしに怒り心頭だろう」の前半部分は仮定である。

予想

推定と同義。であるが数学の慣習上「~予想」は誰もが正しいと確信しているが誰も証明できない数学的な難問に対してつけられることが多い。有名なところでは「フェルマー予想」(1994年ワイルズが証明)、「ポアンカレ予想」(2002-2003ベルンマンが証明)、「リーマン予想」(未解決)などである。

「~予想」の素晴らしいところは問題を提起し難問と認められさえすれば、それを証明しなくても数学史上に自分の名を残せるところだ。ダメもとでいい。果敢に予想していこう。

使用例: リーマン予想はおそらく正しいのではないかと予想します。

2進法のジョーク

世の中には10種類の人間がいる。2進法が分かるものと、分からないものだ。

あと8種類は?って思った人は後者です。

選択公理

5組のクラスからなる学年があったとして、各クラスから1名ずつ代表を選出して代表委員会(構成人数5人)を作ることを考えよう。もちろんどのクラスにも生徒は最低1人はいるものとする。そのような委員会を作ることはできるだろうか。もちろん可能だ。

上の話はクラスの数が10組になっても、あるいは10億組になっても変わらない。ではここで一気に話を飛躍させて、無限組のクラスからなる学年を考えよう。このときも各クラスから代表を1人ずつ選出して代表委員会(構成人数無限!)を作ることは可能であろうか。それが可能だということを主張するのが選択公理(axiom of choice)である。

できるのが当たり前に思えるし、昔の数学者もこのことになんの疑いも持っていなかった。ところが20世紀になって数学界を揺るがす事件が起こる。この選択公理から「1つの球を分割して組み直すと同じ大きさの球が2つできる」という僕らの直観にはとうてい受け入れがたい事実が証明されてしまったのだ(バナッハ=タルスキーのパラドックス)。

このようなとき選ぶべき道は2つ。「選択公理」を否定するか、証明された事実を受け入れるかである。ところがこの時点で「選択公理」はあまりに深く数学の根幹にしみ込んでしまっており、これを否定することはその上に積まれたすべての建物の崩壊を意味する。そのダメージは計り知れないものだ。かといって証明された事実は認めるには余りに奇妙すぎる。まさに行くも地獄、戻るも地獄の状況に直面したわけだ。

これに関してはさまざまな解釈、打開策が考えられたが、実は現在も誰もが納得するすっきりとした結論が出ているわけではない。選択公理はいまなお現代数学ののどの奥に小骨のように突き刺さっている。

平行線の公理

ユークリッドが幾何学を組み立てるにあたりその土台に据えた5つの公理の中の最終公理。大雑把に言えば「ある直線と同じ角度で交わる2つの異なる直線(平行線)はどこまでいっても決して交わらない」。この公理から中学生なら誰もが知っている「三角形の内角の和が180度」が導かれる。

この公理は他の公理(2点を結ぶ直線が引ける、線分を延長して直線にできるなど)に比べて露骨なあたりまえ感は薄く、早い段階からこれは他の公理から証明することが可能なものではないかと疑われていた。ところが19世紀にガウスやリーマンなどの数学者によって、平行線公理が独立した公理であること、それどころか平行線公理を否定した矛盾のない幾何学(非ユークリッド幾何学)が存在しうることが発見されてしまう。これはユークリッド幾何学の体系を唯一絶対のものと信じていた数学者にとって驚きであったとともに、これを公理に採用したユークリッドの洞察の偉大さが改めて強調されることにもなった。

ちなみに「対立する意見をもった2人の人間の議論はどこまでいっても決して折り合いがつかない」は第2平行線公理と呼ばれ、サラリーマンの世界では誰もが認めるものとなっている。

アルキメデスの公理

とてつもなく大きな数Mがあったとしよう。どんな小さい数εであっても、何度も何度も繰り返し足していけばいつか必ずMを超えることができる。言いかえればε×n > M となるような自然数nが必ず存在する。いわゆる「ちりも積もれば山となる」の数学的表現。

3000本安打を達成したイチローは「小さなことを積み重ねていくことが、とんでもない場所にたどりつくためのただ一つの道だと信じています」と語った。これはイチローに先んずること約2000年、数学者アルキメデスが持った信念と全く同じだ。考えれば当たり前のこと。でもその当たり前のことこそが尊いのだ。

いい話のように書いた手前言うのが大変はばかられるのだが、20世紀に入り、このアルキメデスの公理が成り立たない世界もがっつり構成できることをおせっかいな数学者が指摘している。

公理

ある法則は、より単純な法則の上に成り立っている。その単純な法則も、さらに単純な法則の上に成り立っている。土台に、そのまた土台に、どんどん掘り下げていくと最終的にはどんな法則からも証明することはできない、つまり「当たり前のこと」として認めざるを得ない事実にぶつかる。これを「公理」と呼ぶ。数学とはいくつかの「公理」の上に積み重ねられた構造物なのだ。

「公理」は必要以上にたくさんあってはならないし、またそこから組みあがる体系に矛盾を生じさせるものであってもいけない。しかし何を公理として数学の体系を作るかは基本的に数学者の自由でもある。実際、既存の数学体系において公理とみなされているものを否定したり、別のものと入れ替えたりして矛盾のない新しい数学体系が作れることがある。ユークリッド幾何に対する非ユークリッド幾何はそのような例の1つであろう。

使用例
「問題: ~を証明せよ」
「答え: ただいま私は~を公理として採用しました。よって示せた」

エウレカ! エウレカ!

Eureka! : ギリシャ語で「分かったぞ!」という意味。

紀元前の数学者アルキメデスが風呂に入っている時に浴槽からこぼれ出る水を見て浮力の法則に気づき、喜びのあまり「エウレカ! エウレカ! (分かったぞ! 分かったぞ!)」と叫びながら裸のまま街を走って行ったというエピソードが残っている。まあちょっとした武勇伝である。

この偉大なアルキメデスに敬意を表す意味で、何か重要な発見をした数学者はこの言葉を叫びながら全裸で街を走り回り、その喜びを全身で表現するというのが数学界の慣習になっている。もし夜の公園などでそういう人をたまたま目にしたときは、どうかそっと見守ってあげて欲しい。

類語 「シンゴー! シンゴー! 」

白銀比

正方形の一辺の長さとその対角線の長さの比は1対√2(=1.4142...)となる。これを白銀比という。

白銀比は日常生活の中で最も身近な比の一つである。学校や職場でいつも目にしているノートやコピー用紙の長方形の縦横の比。これは白銀比となっている。

これが合理的なのは白銀比の長方形は何度半分に折り曲げても元の長方形と全く相似な長方形が現れるという顕著な性質を持つからである。A3のプリントを半分に折るとA4に、A4のプリントを半分に折るとA5になることは経験上よく知っているであろう。白銀比の美しさは実用性の美である。

おそらく「黄金比」に対抗した「白銀比」というネーミング。今のところ「青銅比」や「エメラルド比」などは存在しないが、お菓子メーカーなんかがその気になればすぐに作りそうな気もする。

黄金比

1.61803398…という比の値(無理数)のこと。φ(ファイ)と書くこともある。

「ダビンチコード」の中でダンブラウンが言っているように日常生活のいたるところにこの黄金比は現れる。

人間のへそから上とへそから下の長さの比率は? なんと黄金比になる。
みつばちの雌と雄の比率は? なんと黄金比になる。
王将で餃子のタレを作るときの最もおいしい醤油とラー油の配合比率は? なんと黄金比になる。
合コンにおける理想の男女比率は? なんと黄金比になる。

あ、まじめな話、古代ギリシャ人がこの比に特別な意味を認めていたのは事実。それは単なる気まぐれではなく、きちんとした数学的な裏付けによる。黄金比は次の定義(外中比)により自己完結的に決まるものである。

1つの線分を a と b の2つの長さに分け、a:b という比と (a+b):a という比が同じになるようにする。このとき a:b は黄金比になる。

例えば正五角形の辺の長さと対角線の長さの比は厳密に黄金比になるし、フィボナッチ数列(ある単純な規則で生み出される数列)の隣り合う数の比もこの黄金比に収束する。この比の定義自体に内在する再帰的な構造を考えれば自然界に起こる繰り返しの中にこの比が顔を出すという主張にも十分な合理性がある。そういう意味では確かに日常生活の思いがけないところに非常に神秘的な形で黄金比は現れているのである。

一方で1:1.6くらいの比自体が日常にありふれているというのも事実で、冒頭に述べたような「黄金比らしきもの」の中には根拠の乏しいものも少なくない。すべてを鵜呑みにするのは危険であろう。それを証拠に世の中で黄金比と呼ばれているものの真偽の比率を調べると? なんと黄金比になる。

素数

1とその数以外では割り切れない2以上の自然数。

化学でいう「元素」のようなもの。世界中のすべての物質が分解していくと何らかの元素の合成物になるように、すべての数は分解していくといくつかの素数の積になる。

ただ「元素」が一定の秩序のもと限られた種類だけ存在しているのに対し、数の構成単位である素数は無数に存在し、その分布は驚くほどランダムである。

数という概念を持つ生命すべてが共有できるほど単純な概念でありながら、誰もその全体像をつかむことができない底知れぬ深さ。人知をはるかに超えた何かを感じないではいられない。素数の魅力にとりつかれた数学者は古来より数知れない。

ただどんなにその魅力にとりつかれたとしても、夜景の見えるレストランで女の子にする話題としてはNGである。その話が弾む確率は10桁までの整数中の素数の存在確率(約0.05%)よりはるかに低い。

合成数

2以上の2つの自然数の積に分解される自然数のこと。素数でないすべての自然数は合成数である。

素数が数の世界の「元素」なら、合成数は数の世界の「化合物」に対応するであろう。合成数をどんどん分解していくと最終的にこれ以上分解できない「素数」だけの積に書き表すことができる。これを素因数分解という。

掛け算することと、素因数分解すること。小さな数の世界ではどちらも対等な操作のように感じてしまうが、100桁を超える整数のレベルになると実はそうではない。仮に合成数だと分かったとしてもそれを素因数分解することは最新のコンピューターを使っても宇宙の寿命を超える年月がかかる。一方でどんなに桁数の大きな素数であってもそれを掛け合わせて合成数をつくるのは実にたやすい。

炭を燃やして二酸化炭素を作るのは簡単だけど、二酸化炭素を酸素と炭素に戻すのは極めて困難であるのとなにか似ている。

この極端な不可逆性が現代の暗号理論の基礎になっている。小学生でもわかる単純な数の原理が国家間の機密活動を支えているなんて想像するとちょっと楽しい。

手の運動

「ここまでやれば後は手の運動です。」

単なる機械的な計算のこと。英語では「Hand exercise 」(excite 翻訳より)。

式展開、シグマ計算、微分計算などなど、規則に則ってやればできることは何も考えずに手が動くくらい習熟しておこう。コツは目からの信号を大脳に送るのではなく脊髄反射で直接手に送ること。練習あるのみだ。

類語: マシン化する、「考えるな、感じろ」など

エレガント

ある種の証明に対して心の中に否応なく沸き起こる恍惚感のようなもの、それ表現するときに数学者が使う定番の言葉。美味しんぼの「まったりとしていてそれでいてしつこくない」に相当。

「その証明は実にエレガントだ。」

敢えて言葉にするなら「単純でありながら、本質をついている」というようなことだが、「単純」とか「本質」ってそもそも何なんだ。うーん、誰にも説明できない。にもかかわらず数学者の共通認識として確かに存在している不思議な感情である。

どこかの数学者が「エレガントさ」を定式化しよう試みたらしい。全く定着していないところをみると、エレガントかどうかの証明自体は決してエレガントではなかったのだろう。

最上級はギザエレガンス。

エレファント

長いし、ごてごてしてるし、読んでもちっとも分かった気にならない(でもどうやら正しいらしい)。そんな証明を指していう言葉。

「その証明、超エレファント」

分かってるとは思うけど、「エレガント」の対義語。響きが似てるってだけで引き合いに出されたゾウにとってはいい迷惑。

四色定理の証明は数学史上最もエレファントな証明としてその名を轟かせている。

類語 力技

ケーニヒスベルクの橋

現在のロシア、かつての東プロイセンの首都「ケーニヒスベルク」という街には川に挟まれた中州があり、そこに7つの橋がかけられていた。折しもその街では空前の散歩ブーム、街の人たちはこぞってその7つの橋のすべてを1回ずつ通ってもとの場所に戻ってくるような散歩コースを作ることに没頭していたという。しかし、それをなしえたものは「アド街っく天国」のスタッフも含め誰もいなかった。

散歩ブームの真偽とその時代にアド街が放送されていたかどうかは定かでないが、そういう問題が興味の対象であったのは事実らしい。実写版レイトン教授と不思議な町だ。

この問題をオイラーという数学者が「一筆書きの問題」ととらえなおして研究し、そのような散歩コースを作ることが「不可能」であるという夢も希望もないことを証明してしまう。街の人たちの失意は察するに余りある。

しかし捨てる神あれば拾う神あり。こんなたわいもない問題がその後「位相幾何学」と呼ばれる斬新な数学を生み出すきっかけになるとは。

どこに数学が転がっているかなんて本当に分からないものだ。

対角線論法

○●●○●●○○○●○…

の様に○と●をひたすら並べていくような無限に長い列を考える。このような列のすべてのパターンに対して1番、2番、3番、…と番号を割り振ることは可能だろうか。並べ方のパターンは無数にある、とは言え、振り分けるための番号だって無数にある。一概に可能とも不可能とも言えないではないか。

カントールは画期的な方法でこれが不可能であることを証明した。これが歴史に名高い「対角線論法」である。

仮にすべてのパターンに番号を割り振ったリストが存在したとしよう。それを下図のように並べてみよう。

1: ○●●●●●…
2: ○○●●●●…
3: ●○●○○●…
4: ●●○○○○…
5: ●●○●○●…
6: ○●●○●●…

このリストの左上から右下に向けての対角線上に並んでいる○と●の無限列を抽出する。こんな感じになる。

○○●○○● …

次にこの白と黒を完全に反転させた列を作ってみよう。

●●○●●○ …

こうして作られた列はこのリストの中のどのパターンとも一致しない。(その作り方をよく考えてみると明らかである。要するに「n番目の列」とは左からn番目の白黒が異なるようなパターンを作っている。) ところが最初のリストは「すべてのパターンに番号を割り振ったリスト」であったわけだからこれは辻褄が合わない。ここから導かれる結論はひとつ、そんなリストはこの世に存在し得ない。

うなづくしかない。単純でありながら、この切れ味。はじめて聞いたときはそれこそ目の白黒が反転するくらい感銘を受けた。

この列を実数の無限小数表示に置き換えて考えれば、上とほぼ同じ議論で「実数に背番号をつけることができない」ということが示される。実数の無限は自然数の無限より深淵なり。「誰もに無限の可能性がある」なんていうけど、その無限すら序列と無縁ではいられない厳しい格差社会なのだ。

補間式

グラフ用紙上に複数の点がプロットされていたとき、そのすべての点を通るような曲線の式を補間式と呼ぶ。補間とは文字通りデータとデータの間を補うこと、補間式を作ることで実際はデータが存在しないxに対するyの値を推測することができる。

当然補間式の作り方はいくつも存在するが、できる限り単純で解析しやすい関数を使うのが望ましい。例えば多項式関数で補間する方法としてラグランジュの補間公式などが有名である。

人類補完計画とはおそらく何の関係もない。字も違うし。

鳩ノ巣原理

11羽の鳩が10個の巣箱に入った。どの鳩がどの巣箱に入ったのかは全く分からない、にも関わらず分かることがひとつある。少なくともいずれかの巣箱に2羽以上の鳩がいるということである。

これが鳩ノ巣原理。部屋割論法、抽き出し論法などと呼ばれることもある。ともすると当たり前に思える単純な原理であるが、何かの「存在」を示すのに意外と強力な武器になる。

よく使われる例だが「大阪市内には髪の毛の本数が全く同じ人が存在する」。にわかには信じられないような話だが簡単に証明できる。人の髪の毛の数はどんなに多く見積もっても20万本以下であることが知られており(平均10万本)、それに対して大阪市の人口は26万人(平成21年5月現在)。26万人の人を20万個の部屋に髪の毛の本数に応じて分類すればどこかに相部屋ができる。その相部屋にいる人の髪の毛の本数は等しい。

ただし、大切なことは存在が保証されるからといって実際にそういう2人を見つけ出し劇的な出会いをさせることは絶望的に不可能だということ(最もスキンヘッドなら話は簡単だが)。数学における典型的な「存在定理」だ。

バリエーションも簡単に作れる。10部屋しかないラブホテルに客が21人入ったとするなら、少なくともどこかの部屋がややこしいことになっている。

たった2つの数字だけでこれほどに妄想を膨らませることができる人間って素敵だ。いやほんと。

鳩ノ巣原理は人間のもつ最大の武器「論理」と「想像力」の巧みな融合である。

四色定理

日本の47都道府県の地図を隣り合う部分が同じ色にならないように塗り分けるとき、何種類の色が必要だろうか。答えは四色あれば十分である。市町村まで細かく分割したらどうだろう。これも四色あれば塗り分けられる。実はアメリカ合衆国の50州だろうが、世界の200ヶ国であろうが、あるいはネバーランドの実在しない地図であろうが、平面上のどんな地図も四色あれば塗り分けること可能なのだ。塗り絵ができる子供なら誰でも気づくことができる程単純なこの法則は、しかし長い間誰も証明することができない難問「四色問題」として知られていた。

1976年にこの定理は二人の数学者によって証明され「四色定理」となる。しかしこの長年の未解決問題の解決を数学界がスタンディングオペーションで迎えたかというとそうではなかった。なぜならこの問題を解決したのは人の頭脳ではなくコンピューターだったから。

パターンをある程度絞り込み、それでも人の手で調べるにはあまりに膨大なしらみつぶしをコンピュータが行った。コンピュータがはじき出した答えはどれも塗り分けられない。晴れてこの定理は解決されたということである。

多くの数学者が感じただろうな。

なんか釈然としない。

ウルトラマンがスペシウム光線で怪獣をやっつけたときの爽快感がない。むしろ怪獣を撲殺したみたいな後味の悪さである。

それでも証明は証明。それでも恋は恋。でも気分的には認めたくない。今尚多くの議論を巻き起こし、別の意味で「四色問題」となっている。

有理数

整数/整数という形の分数で書き表せる数のこと(もちろん分母は0であってはいけない)。

有理数同士の足し算、引き算、掛け算、割り算の答えはすべて有理数の中で調達できるという意味で、「有理数は四則演算について閉じている」という。

異なる長さの2本の棒があったとき、この2つの棒の長さの「比」は必ず2つの整数の比で書き表すことができるであろうか。できると考えるのが自然な気がするが、実は正方形の1辺とその対角線なんていうシンプルな図形の長さの比ですら、それが不可能であることに人類は気づいてしまう。長さという図形量に対応させる数として「有理数」という枠組みは不完全だったのだ。

ちなみに有理数は英語で「rational number」と言う。これを誰か偉い人が「理にかなった数」と訳し「有理数」と命名した。しかし上の説明からもつながるようにrationalは「ratio(比)がある」という意味でとるのが正しい。気づいたときにはもう手遅れなほど広まっていたのか、あるいは偉い人があまりに偉すぎて誰も言い出せなかったのか、この数学用語はいまや日本の数学界において最も有名な誤訳として定着してしまった。

関係ないが僕も大学のレポートを書いているときに「positive number(正の数)」を「積極的な数」と訳してしまったことがある。おそらくなんの躊躇もせず女の子の携帯番号を聞いたり、コンパの幹事を進んで引き受けてくれたりするような数なんだろうと。もし僕が数学界の重鎮であったら「積極数」「消極数」という言葉が定着していただろう。危ないところだった。

無理数

有理数ではない実数のこと。

なんて書いてみたものの、高校数学の教科書で実数の意味を調べてみると「有理数と無理数をあわせたもの」って書いてある。

よく考えるとこれは説明になっていない。辞書で左手を調べたら「右手の反対の手」、右手を調べたら「左手の反対の手」って書いてあったようなものだ。もし本当にそんな辞書があったら欠陥品なのですぐに燃やしてしまって構わない。

この定義のいたちごっこは「実数って何なんだ」、詰まるところ「数って何なんだ」ってところに行きつく。この疑問は深い。深すぎてこの事典のキャパを超えている。

中学校でこの言葉を習ったとき「無理ならやめとけばいいのに」って突っ込んだ人も多いと思うが、これは誤訳された数学用語の一つ。詳しくは有理数の項を参照のこと。

カントールの楽園から我々を追放するようなことは誰にもできない

19世紀から20世紀の数学の巨匠ヒルベルトの言葉。カントールというのは同時代を生きた数学者。彼が作った楽園とは「集合論」のことで、決してヌーディストビーチとかではない。

現在では数学の中核として揺るぎない地位を得ている集合論も、当初は全く受け入れられず、カントールは迫害に近い扱いを受けこの世を去る。時代に先んじたアイデアがそのような運命をたどることは残念ながらよくあるのだ。

縄文時代に初めてコメを食おうとした奴を想像してみて欲しい。あんな硬いものが食えるわけねえじゃないかと周囲はドン引き。言い出した奴はさんざん馬鹿にされ、いつしかみんなの前から姿を消してしまう。

ところが彼が残した料理メモを冗談半分で試みた誰かが、あれ、これ以外とありなんじゃないかと気づく。周りも半信半疑で食べてみる。ん、悪くない。っていうか、うまい。

コメの料理法はどんどん改良され、瞬く間に主食の地位を占めるようになる。そこまできて誰かがこう宣言する。

「ほっかほかの白ごはんの楽園から我々を追放するようなことは誰にもできない」

ま、概ねそういうこと。

あれ、俺を追放したのはどこの誰だっけ、というカントールの嘆きが聞こえなくもない。

微積分学の基本定理

微分と積分が正反対の操作であることを主張する定理。

数ある数学の定理の中でも「基本定理(fundamental theorem)」と銘打たれたものはそれほど多くはない。各分野において特別な重要性を持つ定理だけに与えられる永久欠番のようなものであろう。なるほど、この定理のもつ普遍性は解析学の屋台骨を支えるにふさわしい。

とはいえ、現在の高校数学においては積分は初めから微分の逆演算として教わるので、その立場から言えばこれは定理ではなく、定義そのものとなる。何を当たり前のことを声高らかに宣言しているのだと不思議に思う学生も多いであろう。

歴史的な経緯を言えば、微分と積分が発展してきた道のりは全く違うのである。それがお互い対になる考え方であるということを見出したのは数学にとって画期的な出来事だった。第1話からずっと親友だった男が最終話の1つ前の回で実は生き別れた兄弟だったことを知ったようなものだ。微分と積分のソナタ。

当時の数学者が味わったであろうこのカタルシスを現在の高校生はきちんと感じ取れているであろうか。現在の教育課程は連続ドラマのオチを始めから教えてしまっているようで何となく味気なく思えてしまう

代数学の基本定理

すべての代数方程式は複素数の範囲で解を持つ

天才数学者ガウスの若干22歳の学位論文である。

実数の閉ざされた世界では代数方程式は解を持つこともあれば持たないこともある。ところが複素数まで数を広げると、すべての代数方程式の解はその中で完全に自給自足されてしまう。

数学者が腫物を触るかのように扱ってきた虚数という数にこれ以上ない合理性を与え、複素数こそが数の拡張の旅路の終着駅であることを示した記念碑的な定理である。

この定理の持つ面白い特徴は解が存在することを保証しているにも関わらず、それを具体的に求める方法についてはなんら言及していない点である。数学ではこのような定理を「存在定理」と呼ぶ。例えるなら占い師に「あなたはいつか死ぬでしょう」と言われているようなもの。占い師の言うことは100パーセント正しいにも関わらず、いつ死ぬのかについてあなたはなんの情報も得ていない。

意味があるのかって? 数学者は存在を知るだけで十分満足することができる人種だ。それを見つけるのは、、きっと工学者がやってくれるだろう

すべての (全称命題)

「すべてのカラスは黒い」というような言及を数学では全称命題と言う。このような命題の特徴はたった一つでも反例が見つかれば嘘(偽)になってしまうところで、この例で言えば白でもピンクでもレインボーカラーでも、とにかく黒くないカラス1匹でも発見された時点で命題が否定されることになる。

逆に全称命題を立証することは反証することよりもはるかに難しい。世の中の全称命題の多くは間違いか誇張であり、例えば「すべての道はローマに通じる」は古くから知られる全称命題だが、これを検証してみたところ、家の前の国道をどんなに突っ走ってもローマに行くことはできず、結局偽であることが判明する。「すべての女は俺の恋人さ」なんて口にする奴は、まあ、叶姉妹に踏んづけられちゃえばいいと思う。

真である全称命題には次のようなものがある。
「すべての父親は男である」
「すべての人間は2種類に分けられる・・ 牛丼屋でつゆだくを注文するものとしないものだ」

ある (存在命題)

「あるカラスは言葉をしゃべる」というような言及を数学では存在命題という。「カラスの中で言葉をしゃべるものが存在する」と言い換えてもよい。これが正しいことを立証するためにはたった1匹でも言葉をしゃべるカラスを捕まえてくればよい。

逆に存在命題を反証することは立証することよりもはるかに難しい。「宇宙人は地球にいるのか」、「霊能力は実在するのか」という議論がいまだに絶えないのは、立証するような証拠はいくらでも挙げられるのに対して、反証する証拠を挙げることが事実上不可能だからであろう。

世の中には存在命題であるにも関わらず、それがあたかも全称命題のように主張する紛らわしい言葉遣いがあふれているような気がする。注意しよう。
「このダイエットを実践しただけで1週間でなんと10kgも体重が落ちるんです。」
「ねえ、このゲーム買ってよ。友達はみんな持ってるよ」

小さくないほう

すずめのお宿に招待されたおじいさんが帰ろうとするとすずめがこう言いました。
「幕の向こうにつづらが2つあります。どうぞお好きなつづらをおっしゃってください。それをお土産に差し上げます」
意地悪おじいさんは言いました。
「じゃあ大きいほうのつづらをもらおうかの」
すずめが幕を開けるとなんとそこには全く同じ大きさのつづらが2つ。
「残念ながら大きいほうのつづらはこの中にはありません。どうぞお引取りください。」

おじいさんよりよっぽど意地悪なすずめのお話。

このように2つのうち「大きいほう」といってしまうとそれが存在しない (数学的に言えばwell-definedされない) ことが起こりうる。ではここでおじいさんはどう言うべきだったのだろう。その答えは「小さくないほう」である。この表現は2つのつづらが異なる大きさのときは当然「大きいほう」と同じ意味であるし、仮に全く同じ大きさだったときはどちらにも当てはまるので、どちらをもらっても(あるいは両方もらっても)構わないという理屈である。

数学で使われるMax(a,b)という記号は「aとbの2数のうちの小さくないほう」と定義される。最初に聞いたときはどうしてこんな回りくどい言い方をするのか理解に苦しむのだが、決して嫌がらせではなくそこにはいちおう大人の事情があるのだ。

スタンダード

例えば電化製品などでは業界標準、デファクトスタンダードなどと言えば誰もが認める高水準の代名詞なのに、数学や英語のテキストの中では「スタンダード = 標準」は基礎的な問題を指す言葉になってしまう。この奇妙な逆転現象。

「スタンダードレベル」と言われて喜んでいいのか悪いのかはTPOで考えよう。

ユニーク

日常語では「珍しい」とか「面白い」という意味で使われることが多いので、数学で「微分方程式の解がユニークに定まる」なんて読むとどんなふざけた答えがでてくるのかとあらぬ期待をしてしまうかもしれない。残念ながら、ユニークの本来の意味は「ただ1つ」。面白さの要素は皆無である。

数学においてある条件を満たすような対象が存在する(exist)かどうか、そして存在するとすればそれはただ1つ(unique)であるかどうかはしばしば極めて重要な問題となる。

給食のとき鼻から牛乳を飲んでみせるやつは確かにユニークな奴ではあるが、どこの学校にも1人はいそうなので数学的にはユニークとは言えない。

well-defined

ウェルディファインド。直訳すると「きちんと定義されていること」。定義自体に矛盾がないか、言及されたものがただ1つ(ユニーク)に決まるかどうかなどを問題にすることが多い。

例えばXさんが未知の人物であるとしよう。「Xさんの年齢」はXさんにより間違いなくただ1つに決まるので"well-defined"である。ところが「Xさんの奥さんの年齢」というのはXさんが未婚者であった場合、もしくは女性であった場合にはそもそも意味を持たないし、仮にXが男性の既婚者であったとしてもアラブの石油王であった場合は「奥さん」が1つに定まらない可能性がある。この場合は"well-defined"とは言えないのである。

「定義」を見たとき、その定義がwell-definedであるかどうかを気にできるようになったらかなりの上級者である。

使用例

「いいかげん彼氏をwell definedしようかしら」

これは読者への宿題としておく

数学のテキストの解説文や雑誌の記事などで最後に問題を提起をしてしまったものの答えを書くスペースがない、あるいは書くのがめんどくさい時に執筆者が用いる殺し文句。

まあ考えればすぐ分かるようなことなので各自腕試しだと思って確かめてください、と言うとなんとなく聞こえはいいが、実際は「ただし分からなくても責任は持ちませんよ」というニュアンスを含む大人語である。

書いたほうもあまり深く考えていないことがあって、時々とんでもなく難しい置き土産を残されることもあるので悩ましい。

ちなみに「数学セミナー」は割と多用する。

トポロジー

位相幾何学。

すべての物体が無限に伸縮できるゴムのような素材でできているとして、その素材を伸ばしたり縮めたりして(切ってはダメ)お互い移りあう形はすべて同じものであるとみなしてしまおう、というよく言えば大胆、悪く言えば大雑把な幾何学。トポロジーの世界ではコーヒーカップがドーナツになったり、めがねのフレームがトートバッグになったり、トラがバターになったりする。

このような「ぐにゃぐにゃ」の世界では通常の幾何学では最も重要視される長さ、角度、面積、体積といった量が完全に意味を持たなくなる。そんな幾何学にどれほどの価値があるのかと疑問に感じるかもしれないが、意外にも応用は広い。例えばコンピューターネットワークの世界ではコンピューター同士のつながり方だけが重要で、それが同じであれば隣の部屋にあるパソコンも地球の反対側にあるパソコンも全く同等の意味を持ってしまう。実際の距離の違いを意識しないコンピューターネットワークの世界はまさしくトポロジーなのである。

表面的な情報を大胆に切り捨て、その奥に潜む本質に目を向けるという斬新なアイデアと、その神秘的な言葉の響きは非数学者にも受け入れられ、日常生活の中でもしばしば耳にするようになった。言うだけでかっこよく見えてしまう言葉なので是非折に触れて使ってみよう。

使用例1 (知恵の輪が解けない言い訳として)
「いや、トポロジー的には解けてるんだけどね。」

使用例2 (「風水」的なニュアンスをこめて)
「そこに赤色の家具を置くのはトポロジー的に良くない。」

背理法

結論を否定すると何らかの矛盾が導かれることを述べ、そのことによって結論の正しさを示すというちょっと回りくどい証明法。演繹のような直接的な証明に対して、背理法は示すべきこととは関係のない数学的な真理に論拠を落とし込んでいくので間接証明と呼ばれる。ユークリッドが「素数が無限にある」ことを示す手段としてこの証明法を用いたことで有名。

刑事ドラマでよく耳にする「アリバイ」は、日本語に訳すと「不在証明」、すなわち容疑者が犯行時刻に犯行現場に「いなかった」ことを立証することを指している。しかし「いなかった」ことを直接に証明することは実質不可能なので、容疑者はその時刻に「別の場所にいた」ことを主張しようとするのである。これが「不在証明」と成りうるのは「人間は同じ時刻に二つの場所にいることが不可能である」という前提があるからであり、アリバイも立派な間接証明なのである。背理法は日常にも転がっているごく自然な考え方と言える。

個人的にはこの言葉を聴くと
♪ハイリハイリホレハイリホー
という丸大ハンバーグの歌が頭に流れてくる。

演繹法

論理に基づいて一般的な事実から特殊な事実を導き出すこと。英語ではDeductionという。

「昆虫の足の本数は6本である」というのは一般的な事実である。ここで「カブトムシは昆虫である」ことが言えたなら、そこから「カブトムシの足の本数は6本である」という事実が導かれる。これは三段論法とも呼ばれる代表的な演繹。数学におけるあらゆる定理や法則は、なんらかの公理からスタートして演繹的に証明されなければならない、というのが数学者のひとつの信念である。ただし、背理法や鳩ノ巣原理といった演繹的ではない証明方法も数学にはある。

「演」の後の漢字が読めずに困ってしまうことがよくあるが、まあ誰も読めないので問題ない。

反対語は帰納法 (Induction) 。

帰納法

いくつかの具体的な事実から一般的な事実を導き出すこと。英語ではInductionという。

「この木にいる5匹のカブトムシの足の本数は6本である」という事実から、「すべてのカブトムシの足の本数は6本である」という一般的な事実を導くのが帰納法。数学者の立場からすればこれはあくまで経験的推測であり、数学的事実とは区別されるべきものである。実際、数学の歴史においては帰納的な考察により真であると信じられていたものが後になって間違いだったと判明したケースは数多くある。そんな痛い経験からか数学者は帰納的考察には病的なほど慎重になる。「森中のすべての木にいる1000匹のカブトムシの足の本数が6本である」と分かったとしても、1001匹目のカブトムシの足は7本かもしれないと考えるのが数学者なのである (羊のジョークを参照)。

ただし数学者が帰納法と全く無縁であるわけではなく、むしろ「一般化」にみられるような数学的な「思考」の中に帰納的な考え方は常に存在していると言える。

よく勘違いされることであるが「帰納法」と「数学的帰納法」は全く別のものである。「数学的帰納法」というのは自然数の公理に基づいたれっきとした「演繹法」であるから、「数学的帰納法」により導かれた事実は数学的に真であると言ってよい。

付け加えるなら数学以外のほとんどの自然科学の定理は帰納的に導かれるものと言えよう。例えば物理学においてティコ・ブラーエが天体の動きを観察して残した膨大な量の精密なデータからケプラーは帰納的に「ケプラーの法則」を導き出し、その法則からニュートンは帰納的に「力学の法則」を作り上げた。帰納法の怖いところはたった一つの反例がちゃぶ台をひっくり返してしまう可能性を常にはらんでいることで、実際にニュートンのくみ上げた堅強たる古典力学は 20世紀初頭に発見された反例によりその根底を揺るがされることになった。

反対語は演繹法 (Deduction) 。基本的に演繹により構築された数学は反例に脅かされる心配はなく、紀元前に作られたユークリッド幾何学は2000年以上たった今日もそして今後も真であり続けるはずだ。数学があらゆる学問の中で最も信頼されている所以である。

すべての奇数は素数である

なんでもかんでも帰納的に論じようとする工学者を揶揄するジョーク。

工学者は次のようにして「すべての3以上の奇数が素数である」ことを証明する。

3は素数である。
5は素数である。
7は素数である。
9は素数ではない。しかしこれは例外である。
なぜならその後に続く11も13も素数ではないか。

以上より「すべての3以上の奇数が素数である」ことが示せた。

羊のジョーク

帰納的な考え方をとことん疑う数学者の融通の利かなさを揶揄するジョーク。

一般人、工学者、数学者の3人が海外旅行でイギリスの農場を訪れた。するとそこに1匹の黒い羊がいるのが見えた。

一般人 「へー、イギリスにいる羊はみんな黒いんですね。」
工学者 「それは正確ではないよ。イギリスにいる少なくともこの羊は黒いというべきだよ。」
数学者 「いや、それも正確ではないね。イギリスにいる少なくともこの羊の、少なくともこちら側は黒いというべきだよ。」

本質

(1)
存在者の何であるかを規定するもの。事物にたまたま付帯する性格に対して、事物の存在にかかわるもの。(大辞林 第二版)

(2)
自分の言っていることや書いていることを格好よく見せるために予備校講師がよく使うおまじないのような言葉。意味はあるようで特にない。
「これは本質的には数学的帰納法の問題ですね。」
「君はこの問題の本質を理解していない。」
間違っても「先生、本質ってどういうことですか」という突っ込みはしてはいけない。

ガウス

18~19世紀の数学の巨匠。人類史上最も偉大な数学者を一人答えろと言われれば、多くの人がこの名を挙げるのではないだろうか。数学のみならず、天文学からピップエレキバンの磁気の強さにいたるまであらゆる分野で偉大な功績を残した。彼の残した法則はあまりに多いので、単に「ガウスの法則」といっただけでは、それがいったいどの法則をさすのか誰にも分からない。

高校数学に関係のあるところで言えば、複素数を平面上の点として表現する「複素数平面」(別名:ガウス平面)、すべての代数方程式が複素数の範囲で解を持つことを示した「代数学の基本定理」、整数における「ガウス記号」などが有名。

小学生の時に先生が与えた「1から100までの数をすべて足し算しなさい」という課題に対して、画期的な足し算の方法をその場で考え出し、即答したという逸話はガウスの早熟ぶりを物語るエピソードとして今でも数学教科書の中で語り継がれているが、僕としてはどちらかというとこんな可愛くない生徒を持ってしまった先生のほうに同情を禁じえない。

ガウス記号

xを超えない最大の整数を表す[x]という記号のこと。

割り勘で一人3120円になったとき、「もうめんどくさいから一人3000円でいいよ」みたいに小銭を切り捨てることがある。分かりやすく言えばこんな感じでxの小数部分を切り捨てて整数にしてしまうのがガウス記号。(ただし負の数の場合は [-3.4]=-4 などとなるので注意が必要。)この記号が問題文中に出てくると定型的な処理ができなくなることから、この記号を苦手とする高校生はかなり多い。

模試作成者の間では「問題文に絶対値記号が現れるとそれだけで平均点が5点下がり、ガウス記号が現れるとさらに5点下がる」というのが定説である。

オイラーの公式

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指数関数に由来して生まれたネイピア数e、紀元前からよく知られていた円周率π。数学的には全く起源の異なる2つの重要な数学定数が虚数というものを介して結びつくことを示した等式。これは数学の世界においてチョコとピーナッツ、苺と大福、ジョンとポールの出会いに匹敵するほどの大事件だった。

その神秘的なまでの調和からこの公式は人類史に残る最高傑作と称えられている。ぜひとも世界遺産に認定していただきたい。

これを理解するには当然虚数乗とは何なのかを定義する必要があるのだが、複雑な微積分計算の向こう側、ほんの少し手を伸ばせば届く距離にこれほどまで美しい数学の宝石が転がっていることを高校生には是非知っておいて欲しいと思う。

微分のことは微分でせよ

日本の高名な数学者高木貞治先生がおっしゃった格言。というよりただの駄洒落?

しかしこの言葉には「微分学の定理は微分だけを使って証明するべきだ」というちょっとした含蓄もあるらしく、さらりと言った駄洒落がそれなりに深みを帯びてしまうところに格の違いを感じてしまう。

同じ駄洒落でも予備校講師の言う「微分積分いい気分」とはえらい違いである。

微分は微かに分かり、積分は分かった積もりになれ

僕の高校時代チャートで読んだ覚えのある微積分に関する格言。未だに覚えているから僕にとって共感できる部分が多かったのだと思う。

高校生で初めて習う微分積分は多くの人がその難しさに悲鳴を上げてしまう分野なんだけど、はじめからその意味をきちんと理解することなんて到底無理な話なわけで、最初は分かったつもりでいいからとにかくその使い方を覚えていけばいいのですよっていう教訓。

大体携帯電話だってパソコンだってその内部の仕組みをきちんと理解して使っている人がいったいどれだけいるのかって話。すべてにおいて学ぶってことはあるどこかの段階で「微かに分かり、分かった積もりになる」ことなんだと思う。

もっと抽象的に話してください

日本の数学者吉田耕作先生が、ある数学者の発表を聞いて言い放った素敵な名言。より詳しくは

あなたの話は具体的なのでわかりにくい。もっと抽象的に話してください。

世間の感覚からすればなかなかのぶっ飛び発言。一般の人にとっては「抽象」とは分かりにくく、ときに真実を覆い隠すための煙幕のようなものだ。テレビの討論番組なんかでは「抽象的なことを言うな」「具体例を出せ」なんて怒ってる人がいるぐらいだから。

しかし数学者にとってはそれは正反対なんだな。「抽象」こそが実は最も分かりやすい言葉遣いであり、真理に近づくことができる最良の方法なのだ。数学者は自分の思いを少しでも人に届けたいというその一心で、人に分からない記号を作り、人に理解されない言葉をしゃべる。村人に親しまれようと必死に努力する赤鬼の話みたいに。一般人に理解されない数学者のジレンマが悲しく透けて見えてくる言葉かもしれない。

ケーリー・ハミルトンの定理

正方行列Aをその固有多項式に代入すると零行列になる、という言ってる本人もよく分からない定理。しかし2行2列における結果については高校数学でもでてくるので有名。

この定理名にはケイリー(Cayley)とハミルトン(Hamilton)という2人の数学者の名前が冠されている。この定理をケーリー・ハミルトンと呼ぶか、ハミルトン・ケーリーと呼ぶかを巡って2人の間に仲たがいが起こり、その後法廷沙汰にもなったというレノン&マッカートニーみたいな話がある、はずがない。ちなみに高校の数学の答案を見ていると、ときどき何をどう間違ったのか「ハーリーケミルトンの定理」と魔法学校の生徒みたいな名前を書く奴が必ずいる。

余白がないので書けない

天才数学者フェルマの数学史に残る名言。より正確には

「この定理に関して、私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる」

もしタイムマシンがあるのなら、うちの職場に有り余っている裏紙を是非フェルマに届けてあげたい。同じことを切望した数学者は星の数ほどいるに違いないね。なぜなら「この定理」とはその後1994年にワイルズによって解決されるまで実に360年にわたり数学者を苦しめた難問、いわゆる「フェルマの大定理」なのだから。

数学の問題の解答が全く思いつかないときでもこの言葉を書けばなんか体裁を保つことができそうな気がする。しょうがない。だって余白がないんだから。

類語「宿題やったんだけど、家に忘れてきました。」

ガロア

紀元前から何千年もの間にわたって人類が取り組んできた代数方程式論に完全に終止符を打つ働きをした数学者。彼が残したガロア理論は数学界に燦然と輝く金字塔であり、その後「群論」と呼ばれることとなる一大分野の端緒を開いた。

しかしこれほどまでに偉大な彼の業績が生前に評価されることはなく、何度も書いた論文は当時の重鎮たちに黙殺され、政治活動にも巻き込まれ、1人の女性をめぐる決闘により20歳の若さで命を落とす。理由なき反抗のジェームスディーンみたいだ。このドラマティックな生き様に共感する数学者は多く、ファン投票をしたらダントツの1位になるんじゃないかと思う。

数学の熱血講師に下手にガロアの話題を振ろうものなら、小一時間は熱く語られる可能性がある。注意しよう。

ピタゴラス

紀元前5世紀ころの有名な数学者。名前の響きがなんとなく怪獣っぽい。

「aの2乗足すbの2乗はcの2乗」という直角三角形についての定理は、いわゆるピタゴラスの定理として知られているが、実際にはこの事実ははるか昔メソポタミアの石版にも書かれていたほどでピタゴラスが最初に見つけたものではないとされている。では何故「ピタゴラスの定理」なのか。分からない。多分「○○の定理」は最初に言ったもん勝ちというのがこの業界の原則のようである。

すべての数は整数の比で表される(すなわち有理数である)と信じていたのに、皮肉にも自らの冠定理であるこのピタゴラスの定理によって、2の平方根という有理数でない数があることに気づいてしまい、あわてたピタゴラスは自分の弟子たちにその事実を口外することを禁じたと言うかなり大人気ないエピソードが残っている。

数学者の中ではダントツの知名度がある。NHKの子供向け教育番組「ピタゴラスイッチ」がこの人の名をもじったものであることは言うまでもない。ちなみに直角三角形の3辺の長さとなりうる3つの整数は「ピタゴラス数」と呼ばれているが、ついつい授業で「ピタゴラ数」といってしまいたくなることがある。

一般化

ある特定のときだけに当てはまることが、実はもっと多くのときに当てはまるのではないかと考え、時には無理矢理そういうことにしてしまうこと。数学者に典型的な思考パターン。

より具体的には1,2,3などの値で成り立っている命題が実はどんな自然数に対しても成り立つ命題であることを主張することなどを言う。

数学者は例外的なものを著しく嫌う傾向があり、一般化できないものにはほとんど価値を認めない代わりに一般化できるものに出会うと異様にテンションをあげる。例えば数学の歴史において「虚数」というあるのかないのかも分からない数は当初、数の異端児として甚だ冷遇されていた。この数を認めると「すべての2次方程式が2つの解を持つ」なんてことには数学者は全く食いつかなかったのであるが、この数を認めれば「すべてのn次方程式がn個の解を持つ」と誰かが言い始めたとたん、数学者の目の色は一変、この不思議な数は一躍数学の表舞台の中央に祭り上げられることになった。数学者は一般化のためなら多少の無理には目をつむるらしい。

数学者は世の中のありとあらゆるものを一般化したがる癖があり、これはむしろ本能に近い。x+yの1乗や2乗の公式があるならn乗の公式はどうなるのだろうと考え、1次元、2次元, 3次元の空間があるのだからn次元の空間がないはずがないと信じる。1,2,3,と言われて「ダー」というのはアントニオ猪木だが、数学者は1,2,3といわれればnと応える。

Lotus 1-2-3- …-n、ロンドンブーツ1号2号…n号、n角関係、マツケンサンバn。

数学者に一般化できないものなどない。

同一視

全く「違う」いくつかのものを「同じ」ものであるとみなすこと。

例えば「3」という数は「3羽の鳩」や「3個のみかん」、「3冊の本」など色々な異なる事象に潜む共通の性質を同一視することによって得られる概念である。さらにその数の中で2で割った余りが等しいものを同一視することによって「偶数」「奇数」という概念が得られる。自分の生まれた日は1つしかないにも関わらず「誕生日」が毎年やってくるのは、ある周期で繰り返しやってくる「自分の生まれた日と天体の状態が似通っている日」が同一視されているからである。このように異なるものを同一視するという考え方は私たちは知らず知らずにやっている。

逆にこういう例を考えよう。10年前の自分と今この瞬間の自分は果たして「同じ」であろうか。当たり前じゃないかと言われそうだか、これとて何をもって「同じ」なのかと突き詰めると実は定かとはいえない。「私はもうあのころの私とは違うのよ」なんてよく言うではないか。人間は5年、10年もたてば性格も、体型もまるっきり変わってしまうことがある。1986年のワールドカップメキシコ大会の英雄マラドーナと2006年のドイツ大会の観客席ではしゃいでいた太った男は果たして同一人物と言えるのか。あるいはジキル氏とハイド氏のような二重人格者は同じ人物だろうか、違う人物なのだろうか。我々が人やあるいは自分を「同じ」だとする認識の背後にも、時間、空間、記憶の連続性によってもたらされるある種の同一視が存在していることに気付く。

違うものを同じものであるとみなすことが同一視、というよりも、逆に何を「同じ」とみなすかによって何が「違う」かが規定されるとも言える。それゆえに数学において対象の認識は、まず「何を同一視するか」を定義することから始まる。

評価する

「あとはこの関数のこの部分を評価してあげればいいんですね」
なんとも数学らしい独特の言い回しだと思う。生徒はテストの点数によって評価され、予備校の先生は生徒のアンケートによって評価される世知辛い世の中であるが、数学の先生が関数を評価するのはこれとは意味が違う。実際のところ「評価する」の厳密な意味はなんなんだろうか、僕も良く知らない。よく知らなくても使っているうちに何となく分かった気になる言葉なのだ。おそらくは収束を調べたり、大小関係を比べたり、真偽値を判定したりするときに使われるのだ(と思う)。

収束

「ある値に限りなく近づくこと」と教科書には書かれているが、「限りなく近づく」ってどういうことなのだろうか。実はその辺りは高校数学の中ではほんわかと霧につつんでごまかしている部分なので、あまり突っ込まず分かった気になっておくのがいい。触らぬ神にたたりなし。

なお打ち上げで2次会、3次会、… n次会と進みいつの間にか記憶を失い、気がついたら友達の鈴木の家で寝ていたという状況を「昨日の飲み会は鈴木の家に収束した」と言い表す。

トリビアル

「ここの証明はトリビアルですから...」

大学初年度の数学の授業で先生が連発する摩訶不思議な言葉である。なんとなく語感が「トリビアン」に似ているため一瞬先生がルー大柴に見えるが、もちろん先生は感極まっているわけではない。トリビアルとは日本語で「些細なこと」「明白であること」の意味。今では「トリビアの泉」のおかげですっかり全国区の用語になった。へえー。

「トリビアル=明らか」という言葉は何かと悩ましい言葉である。どのレベルで話をしているかによって何が明らかで何が明らかではないかは変わるもので、大学の先生がトリビアルといっても生徒にとってはちっともトリビアルではなかったりする。もちろんそれを逆手にとってさっぱり分かってないことを「トリビアル」の一言で逃げるテクニックは昔からある。なおテストでやるとまず間違いなく見抜かれるのでくれぐれも多用しないように。

トートロジー

循環論法、同語反復、常に真であるような命題のこと

「悪いことは悪い」なんていわれて、なるほどと納得してしまったら負けである。そんなのわざわざ言われなくても成り立つに決まっているではないか。「すべての白い犬は白い」と言っているようなものだ。「私は私の母親の子供です」と言っているようなものだ。この「成り立つに決まっていること」がトートロジーだ。数学の証明をしていて何時間も数式をこねくりまわした挙句やっと出た結論が最初の仮定と同じだっという悲劇は後を絶たない。そういうときは遠くの空を見ながら「数学なんて所詮トートロジーさ」とうそぶいてみるのもいいかもしれない。

まあ、どんなにかっこつけたところでトートロジーとは同じことの繰り返し、つまりは結局何も言っていないに等しい。にもかかわらず世の中にはなんとトートロジーがあふれていることか。路上詩人が色紙に「僕は僕なんだ!」とかもっともらしく書いて売っているが、それを喜んで買う人がいるのは世界七不思議のひとつだ。「合格できることをしたものが合格できるんだ」なんて予備校講師が自信満々に言うとなんかすごいことをいわれているような気がして納得してしまうのも何故だろうか。そう思うとトートロジーは意外とこの世界を動かしている。そんな気がする。

アルゴリズム

ある特定の目的を達成するための処理手順、またはその手順をまとめたもの

たとえば料理のレシピには材料とその調理方法が時系列にまとめられており、料理のセンスがない人でもその手順にそって進めば人並みの料理が作れるようになっている。つまりレシピとはおいしい料理を作るためのアルゴリズムといえる。しかし例えば人を感動させる本を書くのは多分にセンスの問題であり決まりきった手順などはないし、将棋で必ず相手を打ち負かす手順も残念ながらいまのところ見つかっていない。つまりヒット作を生み出すアルゴリズムや将棋の必勝アルゴリズムは(いまのところ)ないのである。

2つの整数の最大公約数を見つけるのに、中学生のように共通の素因数を見つけて割っていくという方法は共通の素因数の見つけ方については個人の裁量に委ねられており(基本的にしらみつぶしに見つけるしかない)アルゴリズムということはできない。しかしユークリッドの互除法は一定の操作を繰り返し行うだけで誰がやっても自動的に最大公約数が見つかる手順でありこれはアルゴリズムといえるのである。数学の問題には解を求めるアルゴリズムが決まっているものがあり、そういうものは数学のセンスなんて関係なく決まった手順を踏めば必ず答えが出せる(例えば整式の割り算や微分計算など)。数学の才能がないと嘆く前に、高校数学の必要最小限のアルゴリズムを覚え、それについては最低限きちんとこなせるようにしておこう。もちろんすべてがアルゴリズムだけでは片付かないところに数学の面白さがあるのだけどね。

ちなみに僕はこの言葉を覚えたての頃、友人の前で得意げに「アナゴリズム」と口走りしばらく馬鹿にされ続けた苦い記憶がある。できれば消し去りたい過去である。