池田洋介日記帳
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2004年12月1日(水) 学と美
京大の学園祭で計画されていたミスター&ミスコンテストが中止に追い込まれたらしいですね。このようなコンテストは女性蔑視につながるとか(ミスターもあるのにね)、学問の府たる京都大学の風潮にふさわしくない(お化け屋敷はどうなんだ?)とか言っているらしいですが、なんともよく分からない言い分です。

例えば学歴社会。生まれながらにして頭のいいものもいますし、努力してそれを身につけるものもいます。残念ながらどんなに努力しても学校の勉強なんてさっぱりできないものもいるかもしれません。しかしそんなことは関係なくとにかく学校の勉強のできる人はいろいろな面で社会的に優遇される世の中です。成績の順をつけるなんて日常茶飯事ですし、頭のいいものを選抜する入学試験という制度もあります。頭のいいものは企業が引き抜いてくれます。それは企業にとって使える人材だからです。もちろんちやほやされて企業に入ったものの、さっぱり使えないと見捨てられ落ちぶれていくものもいるでしょうが、それは自己責任ということでそれを社会のせいだなんていえば「甘えるな」と怒鳴られるのが関の山でしょう。ある意味健全な学歴主義社会がここにあります。

上の文章の「学」の部分は「スポーツ」や「音楽」や「お笑い」に置き換えてもほぼ違和感はないでしょう。しかし、しかしです。これが「美しさ」に置き換わるととたんに非難の大合唱。これってどういうことなのでしょう?お笑い芸人の面白さを一般の人がボールの数で決める番組はOKだけど、水着の女の子のセクシーさを投票で決めたらNG?いい曲を聴いてゾクッとなる感覚は健全だけど、美しい女性をみてゾクッとなる感覚は不健全?成績悪いと首を切られる野球選手は自業自得で、旬が過ぎたと首を切られる女性アイドルは同情に値する?なんかそういう考え方にこそ女性蔑視の根っこが存在しているようにしてなりませんけどね。

まあ100歩譲って例えば京都市が市民の金を使ってそういうイベントをするのはいかがなものかとかいうのなら理解できなくもない。でもこれは学生主催のしかもお祭りのイベント。もっと言えば「ミス&ミスター京大」だぞ。もらってうれしいのやらうれしくないのやら、なんとも微妙で悲哀さえ感じるタイトルではないですか。こんなのにいわゆる「イカ京(いかにも京大の略)」が出場して優勝さらったりしたら面白いじゃないですか。いってみればしゃれなのです。こんなたわいもないしゃれに噛み付いてくる頭の固い大人がいると思うと本当に切なくなりますね。

みなとみらいの大道芸が禁止されたニュースのときと同じような脱力感を感じるニュースですね。しゃれの分からない大人が世の中をどんどんつまらなくしている典型的な例がここにもあります。
2004年12月2日(木) 学生料金
私、未だに床屋さんを学生料金で利用しています。

誤解のないように言っておきますが、僕は別にケチケチではないですし、お金に困っているわけでもありません。僕もできれば大人料金を払いたいのです。しかしいつもなんとなく流れ的にいいだすタイミングを逸しているのです。

京大の近くの散髪屋。しかも平日の昼間に普段着でやってくる若い客。これは店から見ればどう考えても学生です。そして当然のように「学生さんですよね」と聞いてくるのです。うん、これは自然な流れだ。この自然な流れに逆らってまで「いえ、僕社会人ですから。」
というのは勇気がいるのです。

たとえば友人と帰り道に話していて、もうあと少しで別れるところだなというときにタイミング悪く会話が新しい話題に切り替わってしまったりすることがあります。そんなときに「じゃあ、僕ここなんで。」と切り出しにくくなってしまいますよね。そんなとき僕はとりあえずその話題が終わるまで友人に付き合って、ちょっと遠回りして帰ります。そう、弱気な僕は自分を曲げてでも自然な流れの方に従うのです。自然な流れにわざわざそむくのは勇気がいることなのです。

誰か僕に言い出すきっかけを下さい。
2004年12月4日(土) 盗作疑惑
安倍なつみの詩盗作疑惑がワイドショーの話題になっていますが、およそ創作活動に関わったことのある人でこれを他人事と思える人はいないのではないでしょうか。パフォーマンスの世界でもパクリの話題はよく取り上げられます。

実を言えばなっちの謝罪の文章を読むとその気持ちは分からなくもないのです。自分の気に入った作品があってそれを長い間自分の中で転がしているうちに、いつの間にか心に溶け込んでしまう。そしてなんらかの拍子にあたかもそれが自分の発想であるかのようにでてきて、それがそのまま作品になってしまう。これは決して言い訳ではなく良くあることなのです。悪い事に他人からみればはっきりそうと分かるものでも、自分の中では一旦消化されてでてきたものであるために、他人のアイデアであることに本人では気づかないのです。

恥ずかしながら僕が大道芸を始めたころの芸なんて完全に人のコピーでした。しかしそれを続けていくうちに人から指摘を受けたり、自分でそれに気づきながら反省し、少しずつ自分のオリジナルのものを抽出してきたわけです。しかしその今でさえ、同じ過ちをしてしまっている可能性はあるのです。パクリはダメだ、オリジナリティーを大切にしろと言うは簡単ですが実践するのはどれほど難しいことか。自分の中から自然に湧き出してきたものは、そうであるゆえに本当のオリジナルではない可能性があるのですから。

パクリは確かにいけないことではありますが、それをあたかも絶対悪であるかのように声高に非難する人を見るともっと謙虚になれよと思わずにはいられません。俺は誰のパクリもしていないと胸をはって言ってのけることのできる創作者は果たしているでしょうか。創作に関わる者は他人に対しても自分に対してもパクリに対して十分"謙虚"であるべきなのです。もし誰かの作品がパクリだと思ったら、本人にそれを指摘してあげる。もし誰かが指摘してくれて、自分でもそう気づいたのなら素直にそれをひっこめる。それで十分じゃないですか。それを超えて人を非難をできる資格のある人なんていないのです。もちろんパクリとはっきり自覚しながらそれを続けているなら非難されても仕方はないと思いますが。

いわばパクリは必要悪。誰しも一度は通りそれを反省し、踏み台にして自分オリジナルを模索していくものです。そのたびに創作活動をやめろなんていわれたらたまったもんではないでしょう。なっちがんばれ。
2004年12月5日(日) 流れ行く言葉
今年の流行語大賞
「ちょー気持ちいい」
これって流行ったかな?まあ「インパクトのあった言葉」であったことは間違いないかな。ストレートに発せられた「若者語」が言葉の乱れに眉をひそめる大人たちにすらある程度受け入れられたという点も興味深いところです。

それはさておき、毎年流行語が選ばれると、その関係者が授賞式に登場し喜びのコメントをしたりしますが、それってどうなんだろう。そもそも「流行語」ってほめ言葉でしょうか?「流行」とは文字通り流れ消え行くもの。そのときは盛り上がってもやがて飽きられ捨てられていくはかない運命を背負っているものです。試しに去年の流行語の「マニフェスト」「へぇ〜」「なんでだろう」など、どれをとっても今口にすると若干の薄ら寒さを禁じえないものばかりです。

アマデウスの冒頭の印象的なシーンを思い出します。昔一世を風靡した作曲家サリエリが音楽に疎い牧師に自分の曲を聞かせますが、牧師はどの曲も知らないと申し訳なさそうに答えます。しかし最後に演奏した曲を聴くと「その曲なら知っている。それはあなたが作ったのですか?」と目を輝かせて聞きます。サリエリはなんともいえない絶望と嫉妬の表情を浮かべながらこう答えるのです。「違う、これを作ったのはモーツァルトだ」。

本物は決して流行しない。言葉だって本当に「実」のある便利な言葉はじわじわと浸透しそれという意識なしに「人口に膾炙」していくものなんでしょうね。「流行語」なんていわれたのはそれが「本物」でないといわれたのも同じこと。まあスポーツ選手や政治家の言葉なら問題ないけど特にお笑い芸人は喜んでる場合じゃないぞ。アンタの芸は来年は流れ行って消えてるかもしれませんから!残念!

最近姿をみかけないのはなんでだろう?斬り!
2004年12月13日(月) 幸せの貯金
いまテレビを見ていたらセキスイハイムのコマーシャルが流れていました。阿部寛が「幸せの貯金できますか?」って聞くやつ。まあとりあえず突っ込んどくと

幸せの貯金なら「貯幸せ」じゃないの?

まあ、ホントどうでもいいけど。
2004年12月19日(日) かっこいいとはこういうことさ
塾から帰る途中の阪急快速急行の中、いつものようにパソコンをひざの上にのせてたたいておりました。そのとき足元にペットボトルのお茶をおいていたのですが、列車の振動でそのペットボトルが倒れ、それがころころと向かいに座っていたおっちゃんの足の方向に転がっていきます。運悪く向かいのおっちゃんはそのことに全く気がついていません。パソコンがひざにあるため身動きがとれず、横のおばちゃんもそれをみてひそひそと話しはじめるという微妙な空気。気がつかない振りはしていましたが内心、「どうしよっかなー、なんかパソコン持ったままおっちゃんの足元までペットボトル追いかけるのもかっこ悪いしなー、いっそこのまま見て見ぬふりを決め込んでしまおうかなー」と心の中で葛藤しておりました。そのとき!

奇跡はおきたのです。

なんとペットボトルはおっちゃんの足に当たった衝撃でくるりと180度向きを変え、あろうことかそのまままっすぐ僕のところに戻ってくるではないですか。芸人池田洋介、こんなチャンスを無にするはずがありません。パソコンの画面を見つめながら、さもそれが当たり前のことのように転がってきたペットボトルに手を伸ばしててとり、ふたを開けて颯爽とお茶を飲んでやりました。隣のおばちゃん連中騒然(想像)。

神になった気がしました。
2004年12月21日(火) 受信料
白状します。学生時代NHKの集金が来るたびに居留守を使ってました。テレビを消音にし、集金の人が何度も扉をたたいて僕の名前を呼ぶのを心を痛めて聞いておりました。運悪く扉を開けてしまったときは、「すいません、今お金ないんで、、」と見逃してもらっていました。そのくせ毎週オンエアバトル楽しみに見ていました。そんな自分に胸はちくちく痛んでおりました。この場を借りてお詫びいたします。本当に申し訳ありません。

受信料支払い拒否が急増しているそうです。未納というとあんなにかっこ悪かったのに、支払い拒否というとなんか途端に正義感満ち溢れたかっこいい人になってしまう。なんておいしい言葉でしょう。どうせ不祥事起こすのなら僕が学生のときにして欲しかったね。確かにNHKの不祥事が相次ぎました。トップの人にも問題があるかもしれません。でもなんだかんだ言って先週の視聴率ランキングをみると報道部門上位はほとんどがNHKではないですか。災害時にだって真っ先にチャンネルを合わせるのがNHK。それだけNHKが信頼にたる、安心してみることができる情報を発信しているってことでしょう。NHKスペシャル、驚異の小宇宙「人体」やアインシュタインロマンをみて、子どものころ胸を熱くしました。あの番組がを見て生物学や物理学を真剣に志した若者がどれほどいたことか。あのクオリティーの番組を作れるのはNHKの資金力と人材力あってのこと。「ピタゴラスイッチ」のような地味だけど良質な作品を見れるのもNHKが視聴者やスポンサーにこびる必要がないからです。

支払い拒否っていうのなら、私はこの生涯NHKからなんの影響も受けていないし、これからも絶対にその恩恵にあづかるつもりはないと言い切るだけの覚悟がないとね。そうでないのなら偉そうにしないでもっとこそこそしなさい!ドアの音におびえながらちくちく心を痛ませるのが正しい未納の姿勢です。

僕はNHKには恩義を感じていますし、学生時代何度も見逃してもらった借りもあります。だからせめてもの罪滅ぼしに今はきちんと受信料を払っています。だからNHKさん!有能な人材を集めて、素晴らしい番組を作ってください。集金のおっちゃんも正義感づらして不払いしている連中からしっかり受信料を巻き上げてください。ただ貧乏な学生だけはホント勘弁してあげてください。よろしくお願いします。
2004年12月31日(金) 
奇しくも「今年の漢字」が発表されたあとに、これほどまでこの字が似合う年は無いであろうと確信させる出来事が起こったまさしく災いの一年でした。同時多発テロでの死者が3000人、イラク戦争での死者がのべ数万人って言って騒いでいますが、それをはるかに上回る10万人以上の命をたった一瞬で持ち去ってしまう自然の脅威は人間の業を軽くあざ笑っているかのようにも思えます。死者のほとんどは貧困層の人たちという話もあります。金持ちの家は2階建てのコンクリートの頑丈な家だったので流されなかったけど、貧しい家は木の平屋であっという間に波にさらわれてしまったとか。まさに三匹の子ブタを地で行く話です。自然の前に人間みんな平等というのはやっぱり嘘でした。自然とは残酷なまでにかくも合理的なのです。なるほどダーウィンの進化論が主張した自然選択とはこのことだったのか。

一方で奈良の女児誘拐犯が逮捕。もうここまで来るとみんなよってたかって紀宮さまの結婚を阻止しようとしているとしか思えません。

遠くの地で起こった未曾有の大災害、ほんの少し遠くで起きた新潟の地震、そしてかなり身近で起きた一人の少女の殺人事件、それが全く同列の意味をもってしまう場所にいる私は現在2日から始まる授業の予習をしなくちゃと気をもみつつ、今日の大晦日の夜に見る番組を吟味したりしています。いつもどおりの年の暮れ模様です。

テレビは今年起こった暗いニュースを読みあげ、沈痛な面持ちで「来年は皆様にとって良い年であるように」と締めくくります。しかしどんな年も「皆様にとってよい年」などあるはずはなく、きっと来年もどこかで天変地異がおこり、そして誰かが不条理な死を迎えるのです。受信料をもらっているわけでもなく、スポンサーがついているわけでもないこの日記では正直に祈らせてもらいましょう。願わくば来年の災いが降りかかるのは僕でもなく僕の身近な人でもありませんように。僕にとって、僕の身近な人にとって来年も良い年でありますように。

今年の毒の吐き納め。皆様よいお年を。
yosuke@juggling-donuts.org
 
 
 

Akiary v.0.42