池田洋介日記帳
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2004年7月2日(金) "みだり"の意味
最近言葉ネタが多いですが。

この間久しぶりに近鉄電車に乗っていたら、たまたま僕の立っていた目の前に非常出口をあけるレバーがあって、その横にこんな注意書きが書いていました。

「非常の際は乗務員の指示に従ってください。みだりに車外にでると危険です。」

ふと思ったのはみだりっていう日本語。日常生活の中で使っている例を聞いたことがないよね。でも同じような注意書きが京都の市バスにもあるのです。

「走行中はみだりに運転手に話しかけないでください」

うーん、まあ、なんとなく使いどころは分からなくはないけど、どういう意味かは分からん。なんとなくこの言葉からは「みだら」を連想してしまいますが、さすがに違うよね。まあ、確かにみだらに運転手に話し掛けたら運転手は運転どころではなくなってしまって危険であることは間違いないけど。。

きっとスルッとKANSAI共通各社が利用できる専門用語に違いない。そういうことにしとこう。
2004年7月8日(木) いやはや
暑い、暑い。まさしくうだるような暑さです。

「まさしく」なんて言ってみたものの、実は「うだる」の意味はよく知りません。ってか多分、みんなよく分かっていません。よく分からないものに例えられる暑さとは何だろう?今日は暑さ以外のものに「うだる」を使ってみたいと思います。

(江角マキコ調で)
「将来、うだってもいいわけ?」

(英作文っぽく)
「彼にうだるくらいなら、犬にうだったほうがましだ!」

(円陣を組んで)
「うだっていこー、オウ」

(お母さんが書置きで)
「戸棚の中におやつがうだってます。」

わけがわからないのはきっと暑さのせいです。
2004年7月20日(火) 辞書的配列
とある人からこんな話を聞きました。

「最近の高校生は"辞書的配列"と聞いてもピンとこないらしい。
いまどきの生徒は本の辞書を引かずに電子辞書を使うからね。」

なるほど。と頷いてしまいました。いまどきの生徒どころか、先生だって例外なく電子辞書を使っています。僕のノートパソコンにも英次郎が入っていますし、英文を読むときには必ず使っています。とにかく速いうえに持ち運びも便利。と、考えると本当に最近「辞書を引く」という行為をしたことがないのです。

昔、学校の先生が「単語は辞書で引きながら覚えていくもんや!」としきりに主張していましたがそれも今は昔です。そもそも単語を覚えるという行為と辞書を引くという行為の間にそれほど相関関係があるとは思えないし、この理屈は"勉強とは苦労してやるものだ"という昔ながらの精神論の名残かなと僕は多少冷ややかに見ています。多分僕の学生の時代にこんな便利なものがあったら、絶対に使っていたはずです。

語学学習における電子辞書の有用性を充分に認めているうえで、最初の言葉をきいてちょっとはっとしたわけです。危惧というほどではないにしろ、電子辞書によって実は我々の世代が常識的にもっていたある種の概念が失われていっているという驚きがありました。
それがいわゆる"辞書的配列"、数学的に言えば集合の元を"並べる"という概念です。

数字には"基数"としての概念と"序数"としての概念があります。例えばある電子辞書が"英単語20万語収録"と謳っていれば、この20万語は"基数"としての概念です。これは紙の辞書にも電子辞書にもあります。しかし紙の辞書にあって、電子辞書にないものが"序数"の概念です。

紙の辞書には単語がいわゆる"辞書的配列"によって整然と並べられており、私たちはそれを利用することで目的の単語にたどり着くことができます。その中で私たちは知らず知らずうちに集合の元を"並べる"という考え方を身に付けています。20万語が整然と順序だてて並べられる、これによって20万という数に"序数"としての意味が入ります。

しかし電子辞書にはこの概念はありません。20万語はあくまで単語全体の総体としての認識であり、必要な単語を"どこからでも"取り出すことができるものです。"どこからでも"と書きましたが、紙の辞書を引いたことがない人にとってはこの"単語に場所がある"という考え方自体すでにないのです。

集合論は数学の基本ですが、それがどんなに抽象的なものであれやはり根源的な部分で日常的な感覚に裏打ちされています。辞書を引くことのない子供たちは"序数"の概念を果たしてどのような過程で発達させていくのでしょうか。便利さの中で失われていくものは、直接的には見えないところにあるのかもしれないと思うと少し怖い気もしました。
2004年7月25日(日) Twenty Four
この1週間の休みを使って「Twenty Four」をすべて観ました。あー、疲れた。

一応説明しておくと、このドラマはある1日(24時間)の出来事を24話に分けて描いた作品。つまり1話で1時間、ドラマの中の時間が実際に見ている側の時間と完全に同期しながら、進んでいくという画期的な構成で、今かなり話題のアメリカドラマです。

内容は書きませんが、しかしすごいドラマでした。このクオリティーでドラマが作れてしまうというのがなんだかんだ言ってもアメリカのすごいところなんだよね。24話構成ですが、見始めると次が気になって止まらなくなります。夕方に見始めて、気づいたら夜の1時だったり。でもリアルタイムだから、あー1日ってこんなに長いんだとしみじみと思い知らされたりします。

まあ、いろいろ突込みどころもありましたが。特にエッチシーン、リアルタイムだとしたら早すぎだろ!とか。

明日からまた仕事が始まります。がんばろー!
2004年7月27日(火) 床上浸水
今日6時くらいに家から電話があって、何事かと思ったら僕の部屋に"湖"ができてたとのこと。何のことかと思ったら京都はものすごい土砂降りで窓から思いっきり雨が入り込んでいたらしいです。そういえば今日でかけるときははいい天気だったから部屋の窓を開けっ放しにしておいたんだった!

案の上、机の上に置いてあった書類とかその他がびしょびしょになってしまいました。まあ、そのくらいは乾かせばなんとかなるとして、一番の痛手はDVカメラが水に完全に浸ってしまってご臨終してしまったこと。10万円があっという間にパーです。ぬおー。このパソコンがかろうじて難を逃れたのが不幸中の幸いでした。

まあ福井や新潟の人たちの受けた被害にくらべればささやかなものですけど。自然とは無情なものです。
2004年7月30日(金) 押しも押されぬ
Yahooニュースで言葉に関する面白い記事が。最近言葉ネタには敏感に反応してしまいます。慣用句で誤って使われていて、かつそれが定着しているものがかなりあるらしいです。
文化庁 平成15年度「国語に関する世論調査」の結果について参照

誤「押しも押されぬ」->正「押しも押されもせぬ」

正直びっくりでした。恥ずかしながら今の今まで「押しも押されぬ」が正しい用法だと信じてたので。なんとなく意味も通るしね。「押すことはあっても、押されることはない」みたいな。(ニュアンス的には「勝るとも劣らぬ」みたいな感じ、、あ、それだと「押すも押されぬ」になるのかな??)

さっそく調べてみると確かに辞書には「押しも押されもせぬ」と書いてあります。ところがインターネットで検索してみると

押しも押されぬ...8,320件
押しも押されもせぬ...3,010件

圧倒的に誤法の方が使われているんですね。もうこうなるとどっちが誤法なのかも分からなくなってきます。

思うに慣用句は「慣用」されるが故にその本来の意味は薄れていくのが普通ではないのかな。例えば「おはよう」と人に挨拶するときに、その本来の意味であろう「お早う」を連想する人はまずいないのです。だとすれば慣用句にとって重視されるのは語の意味より「語感」です。

その意見は的を射(い)ているよ。(正)
その意見は的を得(え)ているよ。(誤)

それはありうるかもね。(正)
それはありえるかもね。(誤)

コンピューターによるシミュレーション(正)
コンピューターによりシュミレーション(誤)

これらは誤りが浸透したいくつかの例ですが、何度も繰りかえし読んでいるとやはり誤法のほうが断然「語感がいい」のですよ。よく使う言葉なら、舌が回しやすいほうがいいってのは自然な流れ。誤って使われだすのにはやはりそれなりの理由があるわけで、ある意味これって言葉の宿命のような気もしてくるんですよね。

古文の受験勉強で「現代語とは意味が違っている」という単語が山ほどでてきて、それを必死になって覚えたのを思い出します。あれもいわば間違った使い方が定着してしまった分かりやすい例なのではないでしょうか。もし現在進行形で起こっている誤法の定着に目くじらを立てるのなら、「ありがたい」、「あやしい」なんて言葉だって言葉本来の意味に戻してつかうべきなのかってことになるだろうしね。

まあ、いろいろな議論があるところでしょうが、言葉の進化の過程ってのは単純になかなか面白いものです。
yosuke@juggling-donuts.org
 
 
 

Akiary v.0.42