池田洋介日記帳
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2001年4月2日(月) 最後の授業
今日はこの6年間務めた大阪の塾の最後の授業がありました。この春でこの塾をやめることになったからです。実はこの塾とは設立当初からのお付き合いなのです。

我ながらこんなに遠くまでよく毎週通っていたなと思います。電車で片道1時間半、交通費にして2000円近くの距離です。場所もほぼ奈良との県境にあたるような片田舎。しかも大手の塾ではなく、近所の子供たちを集めてやっているような個人経営の塾です。京大生がわざわざ教えにくるなんて全く考えられないようなところなのですが、僕が文句もいわず今まで通っていたのは、やはり教えることが好きだったのと、なによりこの塾が僕にぴったりあっていたからなのでしょう。

塾講師というものは大変不思議な職業です。中学校や高校の先生に比べれば、資格が必要なわけでもなく、なるためにそれほどの努力もいりませんが、正直な話学校の先生の100倍も生徒がしっかり話を聞き、頼りにもされるのです。どんな子供でも塾に来ると、とりあえずは机に向かい、多少騒ぎはするものの素人の大学生の話を聞いていますからね。この塾は受験のための進学塾ではなく、こういってはなんですがむしろできの悪い子供たちが集まるような場所でした。だから来るのは学校では先生のいうことなど全く聞いていないような子供たちなのです。そんな中でどんな簡単な物事でも一旦わからない子供の目線に立ち戻り、何がわからないのか、どうしたら分かるようになるのかを考えながら教える癖を付ける事ができたのは僕にとって大きな収穫でしたね。

6年間というのは考えてみればかなり長い期間で小学生だった子供が高校生になっていたりする年月なんですよ。その長い間に蓄積された大量の落書きが壁を埋め尽くしていました。それは退屈な授業の合間に物言わぬ壁にぶつけたたわいもない駄洒落であったり、下ネタであったり、不満や、鬱憤であったり、若き心の葛藤であったりするわけです。眺めていると赤いペンの小さなまる字で書かれた

「切ないよ、苦しいよ」

っていう文字を見つけてちょっぴりセンチな気持ちになりました。誰もがこの時期、どうしようもなく不安定で繊細な心に、数学の公式なんかではとても解決しないような悩みを抱えながら、誰かと争ったり、恋に迷ったりしている。そんな君たちに果たして僕は何かを届ける事ができたのでしょうか?

もちろん金八先生の最終回の音楽をくちずさみながらそんなことをしみじみ考えていたわけです。(あいかわらず時計をちらちら見ながら)

帰り道、まだ開きかけの小さな桜のつぼみにちょっぴり冷たい雨が降っていました。大丈夫、新しい春はもうすぐそこまで来ています。
2001年4月4日(水) 高校野球
僕はプロ野球というのは子供の頃から全く興味がありませんでした。むしろ大好きな番組がプロ野球の時期はつぶれてしまったり、映画を録画しておいたのに野球が延長して台無しになってしまったりしたという苦い思い出しかなく、嫌いで仕方がなかったのです。

でも高校野球は別なんですね。毎年この時期がやってくると、どうしても高校野球の結果が気になって仕方がなくなってしまうんです。毎年毎年違ったドラマが生まれて、新しい感動が生まれてくる。今日の決勝戦は深夜にダイジェストを見ただけですが、本当にすごかったね。まさに決勝にふさわしい名勝負でした。

思うに何故に高校野球にこれほどの魅力があるかというと、もちろん地元のチームが出てくるなんていう楽しみもあるんだけど、それにも増してこれがあらゆる意味で負けたらそれまでの正真正銘のたった一度の勝負だからなのですよ。甲子園に出場する機会なんて人生の内に何度もあることではないんです。まさしく人生でたった一度の大舞台に、1試合1試合をこれが最後かもしれないという思いで、全力を尽くしてプレーする。そのひたむきな姿にやっぱり感動させられるんですね。確かにプロの技術には及ぶべくもありませんが、プロ野球のどんな名選手もどんな好プレーも高校野球の持つピンと張り詰めた緊張感に勝てるものではないのです。

"一生懸命"。使い古されて色あせた言葉だけど僕は今でも大好きな言葉ですね。誰かが何かのために、もしかしたら他の誰かのために、その人の全てをかけて無我夢中で取り組んでいる姿に僕は心を揺り動かされます。それが例え何の意味ももっていなくても、あるいは悪い事であっても構わないです。昔大学の入学式後のオリエンテーションの最後に突然応援団が教室に入ってきたことがあります。そこで数人が前に一列に並んで声を張り上げながら「フレーーーフレーーーー」ってやってくれた時僕は正直感動して涙がでそうになってしまったんです。なんでこの人たちは見ず知らずの僕たちのためにこんなに一生懸命になってくれているんだろうって。そこには中途半端な照れもない、変な損得勘定もない。だからこそその枯れんばかりのだみ声が今尚耳に残って離れないのです。

人前で演じるということもそういうことでありたいですね。自分が演技に慣れていけば慣れていくほど本当に大切なものがおろそかになっていっていることを、今日の試合を見て思い知らされたような気がしました。
2001年4月5日(木) ビラ配り
今日は新歓のビラ配り。暖かい春の陽気で桜も満開。フレッシュな新入生たちが身体測定にやってくる日です。順番を待っている新入生がおびただしい数のサークル勧誘員に囲まれ、両手に抱えきれないくらいのビラを渡されるというのが毎年のように繰り返される恒例行事です。行列は実に100m以上続き、新入生には1時間以上もの間ずっとうっとおしい勧誘員の相手をしなければならないという過酷な運命が待ち構えています。

まあ、それで今日は僕も途中からそのビラ配りに参加して、まだ全く京大色に染められていない初々しい新入生たちをなんてかわいらしい奴らだろうと暖かい目で眺めながらナイスにトークを繰り広げていたわけなのです。

その中にサッカーの中田によく似たなかなかかっこいい男がおりました。
「きみちょっと中田に似てるね。」
というと案の定話に乗ってきました。ここは得意のセールストークで
「ジャグリングって知ってる、いやみんな最初は初心者でね…」
とかなんとか話していると、彼も快く話しに応じてくれるのです。
うーん、なかなかの好青年。好感触を抱いていると彼は最後に屈託のない笑顔を浮かべながらこなことを言い出しました。

「すいません、失礼ですがおいくつなんですか?」


グサ、( ̄▽ ̄;)<==========


(え、何、どうしてコイツはこの若々しい青年(二十歳くらい)に向かって年を尋ねてるんだ?まさか老けて見えるとか??いやまさかそんなはずはないよね。あ、そうかコイツは今なんかのジョークを飛ばしたに違いない。この退屈な場を盛り上げようとしているんだ。いや、きっとそう、そうに違いない)

「はは、それなかなか面白いよ。じゃ、またいつでも遊びに来てね。」

そして彼は去っていきました。うーん、僕ってなんて大人なんでしょう。まさかこんな若造相手に僕が本気になるわけないじゃないですか。とりあえず今年中田似の奴がドーナツの練習を見学に来たら迷わず追い返してください。
2001年4月7日(土) 花はさかりを
「花はさかりを、月はくまなきをみるものかは」

確か受験時代に勉強した「徒然草」の中の一節ですね(間違えているかもしれませんが)。反語表現なので意味を取り違えてしまいがちなのですが、口語訳すると「桜の花は満開の時を、月は雲ひとつない満月をみるのがいいのだろうか。いやそうとは限らない。」って言う意味です。何もかも完璧な状態なのではなく、散りゆく桜の花や、雲に見え隠れする月のような不完全な状態でこそものの趣はいっそう増すのだという日本人の美的感覚を見事に表現したすばらしい言葉です。僕は古典の勉強はあまり好きではなかったのですが、この一節は何故か印象に残っています。

今日鴨川で花見をしたのですが、実は今日は見事な満月で、しかも桜の花はいままさに満開の状態でした。そのあまりに完璧な風景に思わず前述の一節を思い出してしまってという訳です。これを見たら吉田兼好は果たしてなんと言っただろうと柄にもなくいにしえに思いをはせてしまいました。ある風景を見てずっと昔に聞いた言葉が急に輝きを帯びてくる、勉強をする本当の意味なんて実はそういうことなのかもしれませんね。
2001年4月8日(日) 言葉のキャッチボール
会話をしているときに真剣に相手と自分が言葉のキャッチボールをしているように感じる瞬間というのは楽しいですね。そんな時は僕は一気に自分をハイな状態に持っていくことができます。

会話というのはよくキャッチボールと例えられるわけで、相手が自分に投げたボールをちゃんとキャッチして、それを相手にきちんと投げ返す。その繰り返しで成立しているのです。でもね、いっつもいっつもストレートを投げていたらつまらないでしょ。だから僕はたまに意図的か無意識的にか相手の予想外のところに変則的なボールを投げてみることがあります。要するに結構理不尽な事を口走ってみたり、一見関係なさそうなことを言ってみたり。それで相手の反応をみて一人楽しむのです(ちょっと暗いね)。

それで大抵はこの人は何を言っているのだろうとか、聞かなかったことにしようとかいった感じで和やかな雰囲気のもと放ったらかしにされるのですが、時にその変則球を相手がちゃんとキャッチして投げ返してくれるときが僕としてはすごく気持ちいいのですね。さらに相手が自分の思っても見ないような変則球を返してくる事があるともっと楽しくなる。そうなるとまさに真剣勝負のキャッチボールみたいになって、意味不明な会話で2人でどんどんハイになってしまうんですね。そんなこと結構ありませんか?

僕が「あ、この人頭いいな」って思うのは(もちろんこれは僕だけの基準でしかないのですが)、まさにこの会話のやり取りの中で、相手が自分の意図をちゃんと解釈して、それをさらに膨らませて自分の予想もしない言葉を返してくれた時なのです。頭の回転の早さというのかな。別にのろけるわけではないですが、今僕にとってこれが一番うまいと思える人は村川さんなんですね。よく2人でしゃべっていると漫才しているみたいって言われるのですが、僕の意味不明なボケに対して絶妙の返しをしてくれます。本当に頭のいい人です、彼女は。

最近はかおりJRとしゃべるのも結構お気に入り。今日はお酒もないのに2人でかなりハイになってました(すこしまわりがひくくらい)。なかなか安上がりな性格かもね。
2001年4月9日(月) ハイテンション
昨日の話のちょっとだけ続き。

ハイになるというのは、体が何らかの化学物質(詳しくは知らない)をたくさん分泌する事で、精神的にものすごく高揚した状態になることです。だから人前であがって頭が真っ白になってしまったり、恋をしてのぼせてしまったりするのと同じように結局は生理現象なんですね。これも詳しくは知らないので適当なことを書きますが、お酒をのんだり、薬を使ったりして人間がハイテンションになるのも、アルコールや薬の中の何らかの物質がその作用を活発にするからなのですよ(多分)。

っていうことはですよ、人間の体は自分の中でその何らかの化学物質を生成すれば、自分をハイテンション、つまりは酒に酔っ払っているのと同じ状態にする事はできるはずなのです。別にアルコールや薬物に頼らなくてもです。思うに人前で芸をする人(もっと言えば芸術というものに携わる全ての人)の絶対的な条件は自分をいつでも好きな時にこのハイの状態にもっていけることではないかと思うのですね。これは才能もあるだろうけど、訓練次第で身に付ける事ができるはずです。

芸をする時にこのハイの状態になりきれない人は、どうしてもそこに"普段の自分"が見え隠れしてしまうのね。つまりは人前で演じる事、自分をさらけ出す事への"照れ"がはっきりと表面に現れてしまうのです。それが見えてしまうと観客はどうしても不安になります。自分は果たしてこの演者に自分の全てを預けていいのだろうかと。結局は演者も観客もどこにも感情移入できぬまま宙ぶらりんの状態になるのです。

酒に頼らずともハイになれる、そしてその上で自分を完全にコントロールすることができる、それを芸人というのだと思うのです。
2001年4月10日(火) 演じるということ
なにか結構真面目な話題が続くのですが

今日アトリエ劇研というところで劇団などが参加するオムニバスのライブがあり、JugglingDonutsのメンバーも参加しました。DonutsLiveを見据えて、DonutsLiveと同じメンバーが当日と同じ順番でほぼ同じ内容の30分のショーをしました。

自分のショーの内容はというと正直散々な結果でした。ほとんどが僕の個人的な技術ミスであり、それが積み重なって演出的にもまったく中途半端なものになってしまいました。久々にかなりへこんでしまいましたね。僕としてはこのショーをほんの肩ならし程度に捕らえていたところがあり、少しなめてかかっていたところがあったのは否定できないですね。本来絶対しなければならない照明のチェックや直前の通し練習もこのときは全くしていなかったのは、今思えば考えられないことです。昨年のKBSテレビ出演の時の反省が全く活かされず、また同じことを繰り返してしまっています。

それに加えて僕たちは舞台上で演じるということにかけては全くの素人なんだなということを、劇団と同じステージにたって思い知らされもしました。思えば舞台上の立ち居振舞いの基本すら僕たちは分かっていないわけなんですね。そこに立っているだけで様になってしまう、たった1つの動作で自分の世界や感情や立場を表現してしまう、そんな存在感はやはり劇団の人と僕たちとでは圧倒的に違うのです。

もちろんジャグリングのショーの最終的な目的はジャグリングのテクニックを見せる事にあると僕は思っています。しかしそれはやはり演じるという最も基本的な技術にしっかりと裏打ちされたものでなければいけない。そうでなければやはり人を心から感動させる事はできないのだと思います。今までの芸を繰り返してきて最近自分が感じ始めた違和感はやはりここにあるのです。

もうすぐDonutsLive本番。少しうぬぼれていた自分に気付いたのが今日の収穫です。今日の失態を絶対に繰り返さない覚悟でこれからの1週間は猛練習していこうと思います。
2001年4月11日(水) 
この20数年間、髪型や服装には全く関心を持たずに過ごしてきました。別に髪なんて伸びすぎてうっとうしくならない限り気にしないし、1週間くらい平気で同じ服をきてすごしていたりします。よく人は僕の事を"ファッションセンスないね"って言います。別に否定はしないのですが、正確に言うとそれは違います。センスがないのではなく、ファッションというものが僕の生活の中で重要な位置を占めるようなことが生まれてこの方一度もなかっただけの話なのです。もし僕がジャグリングと同じくらいファッションを自分の中で重要なものだと位置付けて夢中になり始めたりしたら、もしかしたらものすごい才能を発揮するかもしれないじゃないですか。

ただどんなに服装に無頓着な僕でも、ジャグリングの衣装を選ぶとなると話は別でこればっかりはどうしても自分で服を選びに行かなければならないのです。それでまあ今日は四条近辺のいろいろな服屋さんで、おそらく僕が普段は1年かけても観察しないくらいの量の服を見て回る羽目になったわけです。で、こう改めて見ると世の中にはいろんな服があるものなんですね。で、服にはいろいろな名前がついているんですよ。ズボン、シャツ、コート、ジーパン、ベストくらいのボキャブラリーしか持ち合わせない僕は店員に服を説明するのも一苦労です。

でも今日は生まれて初めて服装というものを真剣に考えてみた記念すべき日かもしれないね。初めてファッション雑誌なるものまで眺めてしまいましたよ。店に並んでいる服だけじゃなくて、道を歩いている人やデパートの店員の着ている服を見ているのも僕にとってはなかなか新鮮な体験でした。どうしてあの2人組みの男はそろいもそろっての十字架のネックレスを首からかけ、重そうなチェーンをポケットから垂らしてジャラジャラ鳴らしながら歩いているのだろう、とかそういうことが気になって仕方がありませんでしたけど。でまあ、今日思ったのは服を眺めるのもなかなか楽しいものだなと。おっと、これはひょっとして僕の中でファッションセンスが芽生え始めたのか。池田ブランドができる日も近いです。

で衣装はどうなったかって?結局たくさんありすぎて頭が混乱してきたので次に持ち越しになりました。だれかいい衣装を選んでください(結局はそうなんかい)。

2001年4月13日(金) 天気予報の恋人
君の愛は信じてる 天気予報くらいにね

ってかなり昔のチャゲ&飛鳥の歌詞の中にありましたよね。"信じている"って言いながらも実のところは"天気予報くらいにしか"信じてない。つまりは君の気まぐれな愛なんて当てにしてないよって遠まわしに言っているなかなか洒落た言い回しです。

で、この歌詞からも分かるように昔は"天気予報"というものは"不確かで当てにならないもの"の代表選手のように思われていたのです。確かに僕が子供の頃は当日の天気ですら外れている事がよくあったような気がします。でもね最近の天気予報って当時に比べはるかにあたるようになってきている気がしませんか?データは常に蓄積されているわけだし、コンピューターの進歩でシミュレーションの技術が格段に向上したこともあるでしょう。今は1週間先の天気を天気予報が見事に的中させる事も全く珍しい事ではなくなってきました。実際週末の天気などはインターネットで結構チェックしていますが、それがかなり"当てになってしまう"んですね。

近い未来、バックトゥーザフューチャーの映画のように時間単位で正確に天気を予報してくれる日もくるかもしれません。そうなると一番最初の歌詞の意味も全く変わってしまうわけですね。時代が変わるというのはそういうことなのです。
2001年4月14日(土) 爆笑オンエアバトル
先日NHKのミッドナイトチャンネルで爆笑オンエアバトルという番組(再放送)をやっていたのですがむちゃくちゃ面白くてすっかりはまってしまいました。こんな面白い番組が今までやっていたのに知らなかったのはとても悔しいです。

番組の主旨としては若手のお笑い芸人たちが100人の観客の前で決められた時間の演技をし、それが終わった直後に観客がその芸人が面白いと思ったら目の前にあるレールにボールを投票します。投票されたすべてのボールはバケツの中に集められ、そのバケツの重さでその芸人を「オンエアしてよいか」が決まります。もし規定の重さに満たなかった場合はその芸はテレビでオンエアされることすらないわけです。

この番組が他のお笑い番組と一線を画しているところは「お笑い」を完全に"競技"として捕らえているところにあります。制限時間を設け、その決められた時間の中でオチのあるまとまったものを作らなければならない。しかもやるネタは毎回変えなければならないので、そのネタが面白くなければどんなに人気があろうが、容赦なく落とされます。その明快さが見ていて非常に爽快なのです。

芸人たちも毎回趣向を凝らし、いろいろな設定、今までにない笑いに挑戦してきます。見ていると「こんな笑いのとり方もあるんだ」ということに気付かされて感動させられることがあります。僕が見たのは年間のチャンピオンを決めるチャンピオンシップのセミファイナルだったのですが、正直本当にレベル高いですよ。笑いも"技術"なんだということを気付かせてくれる番組です。

昔ダウンタウンの松本仁志が「お笑いも格闘技のような競技にして、大御所も若手も一緒になって誰がナンバー1なのか決めようやないか」ってなことを"遺書"の中で書いていたのですが、この企画ってまさにそれじゃないですか。一度ダウンタウンもトンネルズもナインティーンナインもウッチャンナンチャンも今テレビのバラエティーで活躍しているような芸人全員がこの番組に出て競い合ってもらいたいと本当に思いますよ。キャラや実績なんて関係なし、完全にネタだけで勝負して今この番組のトップを走っている若手に挑んで欲しい。果たして勝てるのでしょうかね。
2001年4月15日(日) 笑いに関して思うこと2
「笑い」のセンスって言うのはやはり感受性豊かな若い頃に最も発揮されるものだというのはもう否定しようがないですよね。若者たちは中年の人々の笑いを「おやじギャグ」と言って馬鹿にし、逆に中年の人たちは若者の笑いを「何をくだらないことを」といって馬鹿にするという構図があります。しかしこの2つの間には明らかに違いがあります。若者は中年の人がおもしろいと思っている笑いのポイントを全て理解した上で「面白くない」と言っているのに対して,中年の人は若者が何を面白いと思っているのかすら理解できないで「面白くない」と言っているのです。笑いのセンスに関してはやはり圧倒的に若者に軍配が上がるわけです。

実際昔面白かったお笑い芸人も年をとるに連れて確実に面白くなくなっていっているわけです。これはある意味宿命なのかもしれませんが少し寂しい気もします。僕の大好きなダウンタウンでさえ、やはり最近はパワーダウンしているのがはっきりと分かります。もちろん今でも高いレベルを保っているのはさすがですが、笑いに関する瞬発力、発想の鋭さに関しては昨日の日記で書いた"オンエアバトル"にでてくるような若手に完全にお株を奪われていますね。

でもね、一言言わせてもらうなら全盛期の「ダウンタウン」は本当にすごかった。ちょうど「ごっつええ感じ」が放映されていたころの最も脂の乗りきった時期の彼らのエネルギーにはおそらく誰もかなわないだろうね。特に「ガキの使い」のフリートークのレベルの高さは彼らが天才たる所以をはっきりと示しています。葉書であたえられたテーマに対して松本が完全にアドリブでぶっ飛んだボケをし、それに対して浜田が絶妙の返しをする。そこには前回の日記で書いた「言葉と言葉の真剣勝負のキャッチボール」がありました。

彼らのフリートークの1つに「ゴリラとおっさん」というのがあるのですが、これは今でも鮮明に覚えている大傑作です。2人のアドリブがどんどん増幅され最後の強烈なオチにたどり着いた時は大爆笑でした。
2001年4月22日(日) 祭りの後
澤口さんのパワーに圧倒され、日記が滞っていましたが、本日復活。

ドーナツライブ見事成功しましたね。もちろんまだまだ未熟な点もたくさんあったのですが、まだまだ若いサークルだし、これからどんどんノウハウを蓄えて、技術だけでなく演技、演出の点でも磨きをかけていきましょう。早くも来年のライブが楽しみになってきました。今の2回生、3回生、頑張れよ。

何百人の観客の興奮の拍手をもらう事ができる瞬間なんて人生のうちでそんなにあるものではないんです。で、それを一度でも味わってしまうとこの世界から抜け出せなくなってしまう。30を過ぎても劇団で利益度外視で仕事を続けている人の気持ちが分かったような気もします。パフォーマンスは人生をかけてでも続けていく価値がある、ってことなんですね。きっと。

今ちょっと脱力状態が続いていますが、もうすぐ連休でストリートも多くなってくるので、気合を入れてストリートネタを作っていこうっと!
2001年4月24日(火) 悩み
人に悩み事を相談された時、それに応対する方法は2つあります。

1つはその人が気持ちよくなるようなウソをつく事、
もう1つはその人が傷ついたとしても本当のことを言う事です。

僕は何故かとりわけ年下にとっては頼れる人に見られることが多く、結構悩みとか相談されることがあるのですね。お陰でずいぶんウソをつく事がうまくなってしまいました。

大体自分は悩んでいる、悩んでいるって言う人に限って、本当に悩んでいることなんてほとんどないんです。答えがわからなくて途方にくれてるんではなくて、答えは明らかなのにそれを認められないだけ。取るべき行動はいくらでもあるのに、それをせずに目を背けているだけ。悩んでいるふりをして、悩んでいる自分を誰かに見て欲しいと思っているだけ。そういうものでしょ。

悩みを人に相談しようとするのはそれを解決したいからじゃない。そんなことがだんだん分かってきたかな。それならそれで僕は別に構わないのです。それなら僕は精一杯優しいふりをし、精一杯相談にのる振りをして、その人に都合のいいウソをつき続けるだけのことです。

でもね、本当に相手のことを大切だと考えるなら、やはりずばり本当のことをいえる自分でありたいな。そしてもし自分が悩みを相談した時、自分の痛いところを鋭く指摘してくれる友達がいれば、そういう人こそ大事にしなければね。

ちなみに僕は今まで一度も人に悩みを相談した事はないけどね。
2001年4月25日(水) フェロー
今日は河合のフェロー勤務の初日。4時間の間テーブルに座って、やってくる生徒の質問に答えていたわけですが、この仕事僕にかなり向いているかも。なかなか楽しかったです。

昨日の話の続きのようになるけれどもこの仕事は大部分が悩みを相談される事と言ってもいいんです。今は英語に関する質問よりも、やはり勉強方法に不安を感じていたり、今の授業のレベルについていけなくて困っている人たちの悩みを聞くことの方が圧倒的に多いですね。今の時期河合にくるのはほとんどが浪人生なわけですから、やはり漠然とした不安を抱えている人は多いのですよ。

面白い事に受験生のほとんどが質問の時に最初に口にする言葉は
「本当に初歩的な質問なんですけど・・・」
とか
「私、英語全くわかってないんですけど・・・」
という言い訳の文句です。ま、実際それは初歩的な質問であり、英語が全くわかってない人であったりするのですが、間違ってもそんなことは言わないのね。逆にその質問がいかに大切なものか、そしてその人がいかに英語の才能があるかということをさりげなく相手に伝えるのです。昨日の言葉で言えば「ウソをついている」んですね。はい、まさにこれは僕の最も得意とする分野です。

身もふたもない言い方をしてしまえば、今のこの段階で漠然とした悩みに対して具体的な方向付けをすることなんてできるわけがないのです。さらに言えば生徒もそれを本当に求めているわけではない。結局彼らは自分の悩みや苦しみを誰かと分かち合いたい。そして今やっていることが間違っていないことを誰かに保証してもらいたいと思っているんです。だからこの仕事の8割方は相手の話を聞き、優しいウソを返す事に費やします。そしてほんの少しのアドバイスを与える。それは例えば「とりあえず今の勉強法をしばらく続けてみようよ」とか、「今はつらいかも知れないけど絶対に結果に結びつくから頑張ってみよう」とか冷静に読めば何の根拠もない、実際はアドバイスにも何にもなっていない言葉です。

でもそれが実はこのフェローの役割。もし生徒がその言葉を信じてとにかく前進してさえすれば、それは必ずやこの2ヶ月先、3ヶ月先に結果になるはず。とにかく全てが嫌になって立ち止まる事をさせないのが一番大切ってことですね。

あ、ちなみに悩み相談ばかりをしているだけでなく、ちゃんと英語の質問や添削もやってますよ。今日ちょっと面白かったのが次の英訳問題。

(問題)
睡眠不足で車を運転するのは危険です。
(受験生の解答)
It is dangerous to drive a car without sleeping.

この英文を読んで、運転席でうとうと眠りながらも車を運転している様子が頭に浮かんできてちょっと(心の中で)笑ってしまいました。正しくは

It is dangerous to drive a car without having slept well.
もしくは
It is dangerous to drive a car when you haven't slept well.
とでもするべきなのでしょうかね。

この違いを理解させるのは結構大変でしたが。
2001年4月26日(木) 僕のサーカス
劇団とっても便利のオリジナルミュージカル「僕のサーカス」を見てきました。

かなりよかったし、勉強にもなりました。脚本や演出を大野さんという一人の人が手がけているのですが、一人の頭の中にあるイメージが大勢の人間によってあのような形になって示されると言う事にすごく刺激を覚えましたね。

よく考えると僕は今まで舞台を見ることはほとんどありませんでした。だから結構舞台では当たり前のように行なわれる事が新鮮なんですね。例えば舞台の切り方。1つのステージでサーカスを演じる人とそれを見ている客というのを表現する時に舞台の一方の端で観客が正面を向いて並び、もう一方でサーカスの団員が演技をする。これでその状況を見事に表してしまうのです。

ステージの上ではそこにある空間も時間も実際の空間や時間以上の意味を持ってきます。役者が舞台の端からもう一方の端に歩くだけで、それが何十キロも離れた場所への移動や長い年月を表現してしまったりします。役者が話すときの目線を180度動かすだけで、それが実際の会話と心象描写の転換を表現してしまったりします。

例えばこんなシーンがありました。まず団長が期待いっぱいの観客(ステージ下手奥)を前にこれから始まる素晴らしいサーカスのショーの紹介をします。観客の大きな拍手のあと、照明はステージ中央を照らします。ステージの中央にいるそのサーカスの演出家が、自分にはこのサーカスの演出ができなかったと言い、悲痛な表情でその理由を語り始めます。それが終わると再び照明は全体を照らします。団長は申し訳なさそうに客に最後の言葉を述べ、観客は不満そうな顔を浮かべながらステージ奥に消えていきます。

この演劇を見ている人にとってはサーカスの演出家(役の人)が一人でしゃべっている様子が見えるだけなのですが、そこに表現されているのはその演出家によってなされたショーの内容です。つまりその演出家によってなされた「ひどいショー」を(ステージ上の)観客が見て、不満げに帰るというシーンをこのような形で表現してしまっているわけです。

こういう表現ってステージならではですよね。狭い空間と限られた小道具だけを使い、時間と空間を超越したあらゆる世界を表現する。それにはどうしても見ている観客の想像力が必要になります。それを助けるのが音響であり、照明であり、役者の動きなのです。

つまりはそれを「演出」というのですね。
2001年4月28日(土) 僕のサーカスその2
再びこの演劇の感想。やっぱりいいものを見たときにはそれを言葉で残しておきたいから。前回は演出的な話だったので今回は内容に迫ろうかな。

この演劇で僕にとって最も印象的なのは「手紙」なんですね。

かつては愛し合っていたけど今は離れ離れになった男性に女性が送ったたった1通の手紙。団長が渡し忘れていたため、結局ずっと後で男性はその手紙を受け取る事になります。でもその手紙には中身が入っていないのですね。それを団長は「うっかりどこかで落としてしまったかも知れない。」といいます。

その後のシーンで男性が(おそらく夢の中で)女性に「あの手紙にはなんと書いてあったの?」と尋ねます。女性はそれに対して「分からないの?」と答え、その直後にその会話は別の出来事によって途切れてしまいます。

普通に考えれば女性が離れている男性に送る手紙には「会いたい」とか「今でも愛している」とかいう言葉を書くのが普通ですよね。でもこのやり取りを聞いて、あの手紙にはもっと深い、暗示的な意味があるような気がしてくるのです。そもそも本当に団長はその手紙の中身をどこかで落としたのかな。ひょっとしたら最初から手紙の中身なんて入っていなかったのかも。とかね。

ここは僕の解釈でしかないのだけど、結局あの手紙が暗示しているものは「もう2人は元通りにはなれない。」ってことなのではないかなって思った。時間と距離が2人の間に何かぽっかりとした穴を作ってしまったから。パズルが意味しているのは2人の関係で、欠けたピースってのはその穴のことなのね。結局どんなに2人がまだ愛し合っているとしてもパズルのピースが1つでも欠けてしまったら2度とは元の状態に戻れない。だからあの芝居はあんな悲しい終わり方をするしかなかったのです。

人間っていうのは1つの状態は未来永劫ずっと続いていくものだと根拠もなく信じてしまう。で、いざ、それが取り返しのつかない状態になったときも、必死になって今までの状態に戻そうと意味のない努力を繰り返してしまうのですね。結局それはピースの欠けたパズルを完成させようとしていることなんです。本当にやらなければならないことは新しい白いキャンパスを用意してそこで1から新しいパズルを組み立てていく事。そんな単純な事に気付かず、不毛な努力を繰り返している人、きっとたくさんいるよね。

それとね、澤口さん。僕は主人公が言った「君がやさしすぎるから僕はダメになるんだ」って言葉の意味もなんとなく分かりますよ。人にやさしくすることなんて簡単なことじゃないですか。特にそれが自分の好きな人ならなおさら。「やさしさ」なんて言ってみれば相手に対する優越感の裏返し。そう思うのはちょっと意地悪すぎますか?でもそう考え出した時、急に優しさがとてつもない重荷に思えてくるってことがあるのですね。

うん、なんだか読んでて自分も恥ずかしくなるような文章だね。まあ、いいか。たまにはこういう文章も書きたくなるのです。
yosuke@juggling-donuts.org
 
 
 

Akiary v.0.42