池田洋介日記帳
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2001年1月1日(月) 新しい世紀
はーい、みなさんあけましておめでとうございます。

今年は年越しを家で迎え、八坂神社に初詣(おけら参り)に行こうと思ったのですがあまりの人の多さと、降り始めた小雨に途中で断念。

でも楽しい年初めでした。

でも考えるとすごいね。21世紀ですよ。子供の頃から"ものすごい未来"という言葉の代名詞として使われてきた世紀ですよ。核戦争が勃発して人類が滅亡の危機に瀕しているはずの世紀ですよ。車は空を飛び、天気予報は1秒刻みになり、イヌの散歩もオートマチック化されているはずの世紀ですよ。ネコ型ロボットが開発され、みんながタイムマシーンを使うようになってタイムパトロールが出現しているはずの世紀ですよ。(あれこれは22世紀だっけ?)とりあえず現実のものとなってみるとちょっと感動。

でもこれから"21世紀"に代わる言葉は何になるのでしょうね。今まで21世紀という言葉が持っていた"まだ先のことだけど、現実的にやってくる範囲の手の届く未来"というニュアンスを表す言葉がなくなってしまうわけだからね。"21世紀の子供たちに私たちは何ができるのでしょうか!"っていっつも言ってる共産党も困るでしょう。

まあとりあえずも新しい世紀、僕もいろいろな決意を新たにしております。とりあえずしばらくは"今世紀最初の"という言葉が僕の中で大流行しそうです。

それではみなさま、今年もよろしくです!

2001年大予想1
バンダイが売り出したハイパーシェイカーカップが大流行
2001年1月2日(火) タイムカプセル
今から15年前、1985年といえばつくば科学万博が開かれた年です。当時僕は小学生だったのですが、家族揃ってこの科学博覧会に行ったのを結構鮮明に覚えています。熱い太陽が照りつける中、2時間以上も行列を作ってアトラクションに行きました。当時としては画期的な会話するロボットや立体映像の映画なんかがあって、子供心に21世紀に思いをはせたものです。

そのときそこで面白い企画をやっていたのです。21世紀の自分や友達に年賀状を書こう!という企画です。そこで投函した年賀状は15年間郵便局に保存され21世紀の初めての元旦に届けられます。つまりまさしく昨日がちょうどその日にあたるというわけなのです。昨日この年賀状を受け取った人は本当にビックリしたでしょうね。まさに過去から今の自分に向けてメッセージが届くわけなのですから。

昨日ふとテレビでこの話題をやっているのを見ていて、自分がこのとき当時の友人宛にこの年賀状を送ったのを思い出しました。何を書いたかはすっかり忘れてしまいましたが、きっと汚い字で恥ずかしい文章を書いているのでしょう。この友人とは家を引っ越してからはほとんど会っていません。まだ彼からはなんの連絡もこないのですが、もし無事彼の元に届いていたとしたらさぞかし驚いているでしょうね。僕も是非15年前に自分が書いた文章を見てみたいものです。

そういえば21世紀に開こうといってタイムカプセルを埋めた人はかなりの数になるのではないですかね。そうするとしばらくはタイムカプセルの話題が新聞やTVを賑わすことになりそうです。
2001年1月4日(木) ドラクエZ日記その2
たとえ21世紀の始まりであろうと、正月というものはいつもと同じようにだらだらと過ぎていくものです。友達と新年会をしたり、朝までビデオを見ていたりすると日付の感覚がすっかりなくなってしまい、気づけばもう4日。

この暇な時間を利用して、ちょっとドラクエを進めて見ました。だいぶ話も進み、初めて愛しのスライムとの戦闘を体験。そうなってくるとやっぱり面白いですね。

相も変わらず家宅不法侵入を繰り返し、物品を破損し、窃盗略奪の限りをつくしながら物語りは進んでいきます。Zになっても主人公の傍若無人さは衰える事を知らないようです。

まあ昔は主人公は1国の王子様だったわけだし、戦争のさなかだったからみんなは目をつむってくれていたのかもしれませんが、今はなんたって平和の世の中で、しかも主人公はたんなる漁師の息子だからねー。さすがにちょっと人間的に問題があるかも。

そんなことを言いつつも、今日も種を植えた花畑にきれいな花が咲いて喜んでいる子供の前で、花をむしっては投げてほくそえんでいる僕がいるのでした。
2001年1月5日(金) 映画の中の数学
昨日の夜、ビデオに撮っておいた「CUBE」という映画を見ました。お金をかけなくてもいい映画はできるんだよという見本みたいな斬新で素晴らしいカナダの映画です。

あらすじはさておきこの映画の中では数学(算数?)というものが非常に大きな役割を果たしています。ところが映画の中に数学が出てくるときは決まって
「数学というのは一般人には到底理解できない得体の知れない難しいもの」
という扱いをされてしまいます。「とりあえず難しそうな言葉を使っておこう!」っていう感じなのね。まあこの映画も例外にもれずそうだったのですが、数学に関する知識が少しあると苦笑してしまうシーンがちらほらあります。

数字の謎を解明しようとするシーンの1コマ(概略)
女学生:罠を見破る方法は素数ではなく因数の数なのよ。
男:計算できるか?
女学生:数が大きすぎるわ。因数を計算するのには計算機が必要なの
男:暗算で計算しろ。おまえならできる。
女学生:暗算できる人なんていないわ。この数字を見て、567、898、545よ。因数分解できない。567だけでも無理だわ。天文学的な数字よ!

これは中学生でもおいおい、って思うでしょう。ちなみに因数(factor)の数とはその整数を割る事ができる素数の数という意味で使っているようです。そんなものは素因数分解ができれば簡単に求まります。(整数を因数分解することはできません。)

ちなみに女学生が天文学的な数字といった567の因数を求めてみると
567=3×3×3×3×7
なので因数の数は2なのです。

暗算できてるやん!


さっきまでこんな計算よりよっぽど難しい素数の判別をすらすらやっていた少女が、中学生でもできるこんな簡単な計算を「暗算できない」といい、こともあろうに「天文学的」計算とまで言ってしまうのはちょっぴり無理があるのではないかい。

巨大なキューブの謎が数学の法則によって説明されるというパズル的な要素は面白いのだけど、結局映画の中ではその法則は説明できてないんだよね。もうすこしその辺が納得できるように作りこんで欲しかった気がします。

でもアイデアやプロットはすごく良くできている傑作です。
2001年1月7日(日) お料理
今年の目標の1つはできるだけ外食を控えて自炊すること。今までほとんど外食に頼ってきたけどさすがにこのままいくと金銭的にも、カラダにも良くないだろうからできる限り自分で栄養のあるものを作って食べよう!と決意しました。

っとはいうものの実は僕の一番の苦手は料理なんですよね。料理に向いている人と向いていない人の2種類がいるとしたら僕は間違いなく向いていない人です。

料理は技術や知識も必要ですが、毎日の自炊を続けていくのに一番必要なのはマメな性格と、どんなにお腹がすいていても自分で料理をして食べる手間を惜しまない忍耐力ですね。僕の友達でもいつもスーパーのチラシをチェックして安い食材があれが買いだめをしておき、いつでも冷蔵庫にあるものでぱっぱとおいしいものを作ってしまうという信じられない特技を持った人はたくさんいますが、僕にはとても無理なのです。新聞の広告なんて一度も目を通さないし、困ったことに僕はめんどくさがりなのでお米を洗ったり、玉ねぎの皮をむいたり、後片付けをしたりそういうのがうっとうしくてしょうがないのです。

しかも僕は家の手伝いなどまるっきりした事がなく、中学,高校では調理実習などなかったので食べ物に関する知識などほとんどないのです。料理始めるまでニンジンに皮があるなんて知りませんでしたし、レタスやきゃべつや白菜の違いはいまだにわかりません。スーパーに行っても何が安くて、何が高いのかさっぱりです。

しかしまあ努力するのです。できる限り頑張って料理の腕を挙げていこうと思います。いつまで続くか分からないけどね。今日は僕の数少ないレパートリーの中でも特にお世話になっているカレーを作りました。肉はないので代わりにえのきをいれて"えのきカレー"の出来上がり。なかなかおいしいです。
2001年1月8日(月) 炊飯器
炊飯器を買うとついてくるお米の計量カップってあるでしょう。ちょうど一合分測れるやつ。実は困ったことに大掃除でお米の袋を捨てる時に一緒に捨ててしまったらしく、なくなってしまいました。

それで慌ててお店に買いにいったのですが、あれがどこに行っても売っていないのです。不思議でしょ。日常よく使うものだからどこにでも売っていそうなものなのに、探してみるとどこにもないのです。ってことは何?炊飯器を買ったときについてくるカップを無くしてしまうなんてことは普通は考えられないってことなんでしょうか?ちょっとショックです。

そうそう炊飯器で思い出したんだけど、僕は炊飯器はてっきりご飯を炊く道具だとばかり思っていたのですが、ずっと前友人の家の炊飯器でおそろしい発見をしてしまいました。炊飯器の内側に水量を表す1合、2合…っていう線があるでしょう。その線のところをよく見てみると、細い線があって小さい字で

ラーメン


って書いてあったのです。一瞬、目を疑いましたね。炊飯器会社のアメリカンジョークか何かかと思ってしまいましたが、説明書を見るとちゃんと書いてあるんです。「ラーメンの作り方」って。何と炊飯器ではラーメンも作れるのですねえ。

作り方はいたって簡単。線のところまで水を入れてスイッチを入れて沸騰させ、そこにラーメンをいれるだけ。もちろんさっそくやってみましたが、結構うまくいきました。でもね、でもね、あえて言うけどね、

鍋でやったほうが早くない?


ちなみにこの話にはさらに強烈なオチがついておりました。その"ラーメン"の線の反対側にさらに細い線がついていてそこに同じような小さい字で文字が。

ワイン



\( ̄▽ ̄*)/ わーーいん


いやもう、突っ込む気をなくしてしまうほど強烈でした。これはさすがに試せませんでしたが、炊飯器でまさかワインが作れるなんて。

それで計量カップはどうしたかって?家にあった普通の計量カップを代用しています。ちなみに1合=180ccらしいです。皆さんもカップを無くしたときのためにこの数字は覚えておきましょう!
2001年1月9日(火) 式というもの
僕は基本的に式と名のつくものは好きではありません。

入学式や卒業式にはできるなら参加したくないし、結婚式や葬式なんて自分のときは絶対にやらないでおこうと思っています。別に式自体を否定するわけではございませんよ。確かに式という形によって物事のけじめをつけ、新たなる決意をしたり、心を引き締めることは意味のあることだと思います。でもね、形だけが残って本質的な心が失われてしまったら何の意味もないわけ。結婚式にいくらお金を包んでいくかで議論したり、葬式のとき祭壇の派手さを気にしたりするのを見ると心底冷めてしまいます。

気持ちの表現というのはいくらでもあるし、それは人それぞれで違うもの。どんなきらびやかな衣装より、1通の手紙の中の一言にその人の美しさを感じる事もあるし、みんなで集まって泣きあうよりも、1人部屋の中でそっと故人の面影をしのぶほうが心休まることもあるのです。それをすべて決まりきった型の中に押し込むような式はどうしても好きにはなれないのです。

それはそうと何でこんなことを書いているかというと、ニュースをみていると昨日の成人式の話題をやっていたから。成人式の時に必ずといっていいほど取り上げられるのが新成人のマナーの悪さ。会場では話しも聞かずに友達とおしゃべりをするは、平気で携帯のベルを鳴らすは、クラッカーを鳴らすはで大暴れ。そんな新成人たちを見て「明日の日本は大丈夫なのか」と大人たちが真剣な顔で憂いておられます。

まあ確かに一部の成人式はひどいありさまだったみたいだけどね。でもですよ。それを憂うくらいならいっそのこと成人式なんてやめてしまえばいいのではないの?そうまでして"式"をやろうとする意図はいったいどこにあるのでしょう?だいたい成人式は誰も彼も着物が着られて、懐かしい友達と会える同窓会くらいにしか考えていないのです。それにすべての20歳を集めようというのだから中にはそりゃヤンキーみたいなんもいるでしょう。それをすべて1つの会場に集めて偉い人が小難しい説教をたれるのを静かに聞けというのほうが無理な気がするのですが。本当にそれをしたいのなら、エンタテイメント性が絶対に必要なの。イベントとしての魅力がない、式としての心もない、そんな催しには誰も自発的に参加しようと思わないのです。

20歳というのは大人になる1つのけじめ。その意味を理解して、立派に日本を支えていく人もいるだろうし、30過ぎてもばか騒ぎしている人はばか騒ぎしているのです。成人式をやるならもっと厳かなものにして、入場規制もして、それにふさわしい人だけが参加するようにしたらいいし、もしくはいっそイベントと割り切ってモーニング娘のコンサートでも開けばいい。どっちつかずな式ならいっそやめたほうがまし、というのが僕の意見です。

「今の若者は…」と世を憂うほど僕も年はとっていないかなと…ちょっと20歳を弁護してみたりしてみました。
2001年1月10日(水) 髪を切ったって…
掲示板を覗いたら"すもももももも”さんが髪を短く切ったと書いています。「私に会ったことのある方は想像してください。」と書いてあったので、想像してみました。確かNFのときに会ったはずなのですが、どんなに思い出してもそのときの髪型は思い出せません。長かったような気もするし、短かったような気もするし正直全く覚えていないのです。

そうそうこの間の大晦日に久々に村川さんに会ったのです。そんで普通にしゃべってたらなんかだんだん向こうの機嫌が悪くなってきて、どうしたのかなーと思ったら
「ちょっと私をみてなんも思わへんの?」
「いや、別に…」
「私、髪の毛をストレートにしたんやけど…」

( ̄▽ ̄;)ひょえーーーーーー
(#そう言えば前はちょっとパーマをあてておられた気もするし…思い出せないー。)

という出来事もありました。

そういや今日も末吉が佐々原のメガネが変わったのを会った瞬間に指摘してたし。
(あれから昔の佐々原のメガネの形を考えてみましたがどんなにがんばっても思い出せませんでした。)

どうして、どうして!どうしてそんな芸当ができるの。僕もたまには気の利いた大人っぽく、
「あ、ピアスかえたんジャン、それちょっといいね。」(標準語)
とか女の子に言ってみたいのです。でもどういうわけか人の顔立ちとか髪型とか服装とかを記憶する才能に僕は恵まれなかったようです。殺人犯人を目撃して、あとで警察に聞かれてもほとんどその特徴を記憶していない自信があります。

思うに僕は物事を記憶するシステムが人とはどこか違っているのです。ほら、人間はなにかを見たときそれをあるがまま記憶するのではなく、何らかの抽象化を頭の中で行い、自分にとって必要のない情報は排除しているっていうでしょ。だから同じ物を見ても、それが脳の中でどう把握されるかは人それぞれなの。きっと僕の頭の中では全てのものはジャグルマスターの針金くんのような形まで抽象化されているのです。そうに違いありません。

だからもし僕が"すもももももも"さんの髪型を全く覚えていなかったとしても、それは誰もマクドナルドのコーヒーの値段を記憶していないのと同じくらい当たり前のことなのであります。

なーんて、すいません。今度会う時はちゃんと覚えておきますーーー。
2001年1月11日(木) 取扱説明書
パソコンから、自転車から、はたまたコンドームにいたるまで世の中のありとあらゆる製品には取扱説明書というものがついております。日常でよく使うものの説明書って見ないことが多いでしょう。でもこれが案外面白いのですよ。じっくり読むと前回の炊飯器でラーメンみたいな意外な発見が楽しめるわけ。

説明書を作る立場の人から見れば、それを使う人の身の危険が及ぶようなことにはとりわけデリケートになるわけで、使用上の注意や警告には気を使っています。もし説明書に注意が書いていない事を消費者がして怪我でもしたら責任問題になりかねませんからね。だから注意や警告にはそれを使う人がやることが想定されるありとあらゆる事態を書かなければいけません。こういうところを読むと"誰がそんなことすんねん"っていうような注意まで書いていて結構笑えたりします。

例えば携帯電話の説明書に
"携帯電話を電子レンジにいれないでください"
って真剣に忠告してあるからね。理由は発熱、発煙、発火、破損の恐れがあるからって、そりゃそうだけど。まあその昔電子レンジに猫を入れて乾かそうとした人もいたみたいだから…企業側も大変なのですね。

それと自転車の説明書をみてビックリしたのが
"走りながら足で発電ランプの操作をしないでください"
僕はてっきりあれはそうやって使うものだとばかり思っていたのですが、足を車輪に巻き込む恐れがあるため、正しくは停車して手で操作しなければいけないようです。でもそれなら手元にスイッチつけとけばよかろうに。あれを製作した人は明らかに足で操作することを意図していたと思うのだけどな。

特に多いのがこの一文

この製品をその本来の用途以外の目的で使用しないで下さい。


はは、でもこんなことを言われたらジャグラーは何一つできなくなるんだよね。そうです、ジャグリングというのは常に日用品を本来の目的以外で使用することによって生まれてきたのです。だからもしジャグリングが世の中で大流行して、けが人が続発したらメーカーさんも大変です。

この製品を3つ集めて投げたり、あごの上でバランスさせたり、足で蹴り上げたり、1アップピルエットをしてキャッチしたりは決してしないで下さい。


ってね。

はい、余計な心配でした。
2001年1月15日(月) スキー日記
2年ぶりにスキーに行ってきました。場所は長野県の志賀高原。一緒に行ったのは奇術研究会のときの先輩やその友達たち総勢6名。金曜日の夜から夜行バスにのり、土曜日の朝に到着。1泊して日曜日の昼に現地を出発し、日曜日の夜に帰ってくるという結構ハードなスケジュールでした。

初日の午前中は天気もよく、眺めも最高でした。木の枝に新雪がデコレーションのようにくっついていてとてもきれいでした。すべり心地も最高!久々に味わう雪の感触とスピード感を満喫していたのです。

志賀高原に一度でも行ったことがある人なら分かってくれると思いますが、あのスキー場はとにかくむちゃくちゃ広いのです。端から端までリフトを乗り継いでいくだけでもゆうに半日はかかります。泊まった宿はそのスキー場のちょうど東端だったのですが、ちょっと調子に乗って、西端まで行ってみようという計画を立てました。

まあ今思うとそれが間違いの始まりだったのですが、途中から天候が悪化してすごい吹雪になってしまったんです。滑っている時は全く問題ないのですが、辛いのはリフトに乗っているとき。帽子をかぶっていなかったので顔や耳に冷たい雪が正面から吹き付けてもう死にそうなくらい寒かったです。結局西端の山頂にはたどり着けたものの、景色は全く見れず、しかも帰りはリフトが止まってしまい、滑るのを断念。結局シャトルバスで宿まで帰りました。

山の天気は変わりやすいとは言いますが、実感しました。

それで2日目は体調をくずしてしまい、しかも相変わらずの吹雪だったので僕は宿に残ってロビーで寝ておりました。せっかく長野まで行ったのにちょっともったいなかったかな。

でも夜はみんなでお酒を飲んで、ゲームをしたり、しゃべったりしてそれはとても楽しかったです。正直いうと僕はスキー自体よりもアフタースキーのほうが好きだったりするのです。和室にみんなで集まって騒いだり、温泉に入ったり、おみやげを買いに行ったり。修学旅行みたいでいいですよね。

しかしそれにしても年末に始まった風邪が未だに治らないというのは問題ありますよね。こんなに何度もぶり返していてはもはや誰にも同情されなくなってしまいそうなので、今日は病院に行って風邪薬をもらってきて安静にしていることにします。
2001年1月16日(火) 100円ショップ
風邪で一日中寝ているのも飽きたので近くの店でクラシック音楽のCDを4枚ほど買ってきました。「クラシック名曲集」みたいなベタなやつ。結構高い買い物をしたと思うでしょう。でも総額420円なんですねえ。そう最近では100円ショップでCDまで買えてしまうのです。驚きです。

暇な時は僕はよく100円ショップに買い物に行きます。昔の100円ショップはこれは普通に買っても100円もせんやろうと突っ込める品々が大手を振るっていたものですが、最近の100円ショップは本当にすごいですね。日用品、文具にとどまらず、上に挙げたCDから化粧品、文庫本、生花、スナック菓子、スポーツ用品、ジョークグッズに至るまで所狭しとあふれんばかりの商品が並んでいます。正直これからは100円ショップだけで日常の生活品はすべてそろえられるのではないかと思うくらい。1時間くらいうろうろしていても全然あきません。

ジャグリングのネタ探しにも事欠きません。
2001年1月19日(金) ネットのエチケット
今日は日本のITのあり方に一石を投じてみようと思います。

僕のマンションは今流行りのインターネットつきマンションと言うやつで全室に専用ケーブルが引いてあり、LANでつながっています。要するに24時間ネットにつなぎ放題なのです。最初のうちは入居者も少なく非常に快適だったのですが、最近は著しくパフォーマンスが落ちてきました。どうやらマンションの中でストリーミング(音楽や動画をダウンロードしながら再生すること)をしている人がいると、大量の回線が独占されてしまい、他の人が回線を使えない状態になるとのこと。それでこの間マンションにストリーミングや大きなファイルのダウンロードをなるべく控えてくださいという張り紙がされていました。

それに関しては大勢が回線を共有している以上当然のことだと思いますし、別に異議はないのですが、それより僕が引っかかったのがこの張り紙の表題。大きな文字で「マンションのネチケットについて」と書いてありました。

「ネチケット」


みなさん。この言葉どう思います?もちろん「ネットのエチケット」ということを意味する造語でアメリカではごく普通に使われています。日本にも輸入され数年前からこの言葉は少しずつ浸透を始めました。でもね、なんとなくこの言葉は日本語にしてはいけない気がするのです。みんな雰囲気に飲まれてしまって口にはだせないでいるけど、80%くらいの日本人は絶対心の中そう思っているはず。だってそんな気がしませんか。ためしにこの言葉を3回繰り返してみましょう。

「ネチケット、ネチケット、ネチケット」


絶対笑ってしまうでしょ。日本語にするとなんかの駄洒落かジョークのようにしか聞こえないのです。とてもじゃないけどIT時代の最先端を行くインターネット技術の礼儀と節度を歌った由緒正しい言葉のようには聞こえないのです。おそらく日本語独特の語感のよるものだと思うけど「ネチ」という言葉には「ネチネチ」から連想される陰気でくらいイメージがつきまとうのです。そのほかにも「グチ」とか「ケチ」とか「イラチ」とかチで終わる単語はどうしても否定的な意味合いを持つものが多いです。だから口にしたときにばかにされている気がして、気持ちよくはないのです。

昔から独自の素晴らしい外来語を作ってきた日本人じゃないですか。どうしてこういうときに日本人お得意の和製英語をつくらんのかね。例えば「ネットマナー」とかでいいじゃないですか。そのほうがよっぽど意味が分かりやすいし、語感もいいじゃないですか。

新しい言葉を輸入する時は日本人としての語感やセンスを大切にしようよ。とにかく絶対「ネチケット」はおかしいって。みんな惑わされるな!目を覚ませ!
2001年1月21日(日) 衝撃の事実
今まで黙ってたんだけど実は

僕はデビルマンだったのです。


とかいう衝撃の事実を書いてみんなを驚かせてみたいのですが、残念ながら僕は裏切り者の名を受けてすべてを捨てて戦ったことはないし、デビルカッターで真空を切り裂いたこともありません。

今まで黙ってたんだけど実は

僕は彼氏がいるんです


とかいう衝撃の事実を告白して、「あーやっぱりそうやったんや、でもなんとなくそんな感じがしてたよね。いや全然気にする事ないよ、そんなこと」といいつつもみんなが少しずつ距離を取り始める孤独感を味わいたくもあったのですが、残念ながら僕は男の子には興味はありません。(いや、ホントに…)

うーん、このテーマについて書くのはなかなか難しいですね。

まあ、ここに書くことができるくらいの秘密なら僕は別に最初から秘密にはしないだろうし、逆にここに書いたらしゃれならんような秘密なら僕はおそらく一生涯誰にもしゃべらずに心の中にしまっておくのです。秘密っていうのは自分の中だけにあるからこそ価値があることで、もしそれを誰か他の人と共有してしまえば意味を無くしてしまうものだと思うのです。

「これ秘密だけど…」、「今まで黙ってたんだけど…」なんていう前置きを付けて語られる言葉は実は本当の秘密でも何でもないわけで、逆にそれを言っている本人が誰かに知って欲しいと思っていることがほとんどです。でも秘密っていう言葉は僕の中ではもっと重みがある言葉で、もっと輝きのある言葉で、それでいてある種の暗さを秘めているような言葉なのです。僕はそういうものを誰にも触れられない心の奥深くにおいて、時々観察する事が好きなのかもしれません。だから僕は一旦秘密にすると決めたことは、例えどんなに親しい人でも心を許せる人にも絶対に言わないのです。

だから例え僕のTシャツの中に実はピョン吉くんが住みついていたとしても、僕はそれを自分だけの秘密として墓場まで持っていくでしょう。
2001年1月22日(月) ストリートミュージック
ジャグリング以外に興味のあることというテーマで、皆さんが余り知らない僕のストリートミュージシャン(自称)としての一面を語っておきましょう。

大学2回生のときに僕はジャグリングを始めたのですが、ちょうど同じ時に始めた趣味があります。それがギターを弾くことです。ギターを弾き始めたきっかけは合宿に行ったとき先輩が海辺でギターをいわゆる弾き語りするのを聞いて、「かっこいいーー」と思ったからです。それから楽器屋さんで安いギターを買ってきて毎日のようにコードを押さえる練習をしました。正直僕はギターをやるまで楽器なんてものは小学校の縦笛以来触った事がないような人で、音楽的な知識もほとんどゼロに近かったのです。それでもとりあえず「いとしのエリー」がギターでひきたくて本当にむちゃくちゃ練習しました。

それからアルペジオを覚え、3フィンガーを覚え、かなり難しい曲も弾きこなせるようになりました。それで初めてストリートで弾き語りをしたのはギターを練習し始めて1年後。今思えばよくあんな未熟な腕で歌ってたなーと思うのですが、当然一晩中歌っても1000円にもならないようなものでした。でもたまに立ち止まって聞いてくれる人がいたり、100円でも投げてくれる人がいた時は本当に嬉しかったのです。

自慢ではないですが、それから1年くらいで僕の腕も音響機材も格段に向上して、一晩で1万円から2万円をかせぐ、京都の木屋町ではちょっとした有名人になったのです。固定ファンもたくさんいたんですよ。

今でこそ「ゆず」などの影響からか弾き語りを町でたくさん見るようになりましたが、僕がやっていたころは本当に弾き語りなんてほとんど京都にはいませんでした。だから始めるときはいつもかなり緊張したものです。でも町の一角にギターを持って座り、次第に暮れていく町の様子や人並みを眺めているのはとても感慨ぶかいものがありますよ。自分の歌が町の風景に溶けていって、見ず知らずの誰かの心に届くなんて素敵でしょ。何時間も何時間も僕の歌を聞いてくれる人がいて、「本当によかった。」「感動した」っていって言ってくれたときなんか、本当に弾き語りやって良かったって思う瞬間なのです。

弾き語りをやっていたときの決して忘れる事ができないあるエピーソードが1つあるのですが、それについて書くにはもうスペースが少ないので、またの機会にゆっくり書いてみたいと思います。

なんかこの文章を書いてたら急にまたギターを持って町に繰り出したくなってしまいました。
2001年1月23日(火) 幸せの青い鳥
幸せの青い鳥の話って結構有名なんだけど、あれってちゃんと本を読んだ事がある人ってどのくらいいるのだろう。ちなみに僕はストーリーはなんとなく知っているんだけど、原作を読んだ記憶は全くありません。童話の中の短編なのか、それとも1冊の本になるくらいの長編なのかも分かりません。もしかしたら、ヘンデルとグレーテルとかニルスの大冒険とかとごっちゃになってしまっているところがあるかもしれませんが、ストーリーは身もふたもなく書いてしまえばこんな感じですよね。

主人公(男の子と女の子)が伝説の幸せの青い鳥がいることを聞いて、その鳥を探しに行く。それでいろいろなところを探し回るんだけど全然みつからなくて、あきらめて家に帰ったら部屋の鳥かごに青い鳥が入っているのを見つける。

自分の家にそんな珍しい色の鳥を飼っていながら、それに気づかない主人公もよっぽどですが、まあそういう突っ込みはなしとして、結局この話は何を言いたかったのでしょうね。よく聞くのは「結局幸せっていうのは捜し求めて見つかるものではなくて、案外自分の身近なところにあるものだ。」ってやつね。でもこれってちょっと主人公が浮かばれなくないですか。だって散々方々を歩き回ったのは骨折り損のくたびれもうけってことになってしまいますよね。最初から何もしなかったら幸せはすぐに見つかったんだから。だからこの解釈は僕は納得できないのです。

原作の中でその主人公がした青い鳥探しの旅はどのように描かれているのか、ってことが気になりますよね。だってその旅の中で主人公の中で心の葛藤や、成長があったかもしれないでしょ。そういうものを経てもとの場所に戻った時、そこに捜し求めていた青い鳥を見つける。もしそういうストーリーだったとしたらこの話の解釈は全然違いますよね。「幸せって言うのはあなたが一生懸命青い鳥を探そうとしたその行動の中にこそあったんだよ。」っていう解釈のほうが僕としてはしっくり来るのです。

"幸せ"というのは何かある静的な状態を指す言葉で、いったん手に入れれば永遠に続いていくもののように語られる事が多いですよね。あたかも幸せという目的地があって、そこはとても快適で安定した場所であるかのように誰もが思っているのです。でも、"幸せ"ってもっと動的で刹那的なものなのだと僕は思いますね。だからいつまでも続いていく幸せなんてないし、それはそれでいいのだと思う。幸せは籠の中に入れて守っていこうとしたとたん、輝きを失ってしまうものであるはずなのです。

だからこの話の続きを勝手に作るとこうなるのです。主人公は籠に入った青い鳥を見つけて、しばらくそれを眺めるのですが、おもむろに籠をもって外にでて、籠のふたを開けるのです。「さあ、出ておいき。」主人公がそういうと青い鳥はすこしためらった後、ぱっと羽ばたいて大空の向こうに消えていきます。そして主人公はもう一度その青い鳥を探しに行くのです。
(以下無限ループ)

なんて深そうで内容のない文章でしょ。
2001年1月24日(水) 続青い鳥
昨日の青い鳥の話にみなさんいろいろ突っ込んでくれてありがとうございます。
なるほど青い鳥は童話ではなく、戯曲だったんですね。

インターネットで調べてみると、いろいろ分かりました。作者はメーテルリンク、主人公の男の子と女の子の名前はチルチルとミチルでした。この名前はよく聞くんだけど、まさかこのお話の主人公だとは思っても見ませんでした。いろいろな発見があるものです。

それにしてもこの物語、思っていたよりもはるか内容があって奥が深いんですね。白状しますと昨日はもっと子供向けのお話だと思って、軽い気持ちで突っ込んでました。メーテルリンクさんごめんなさい。主人公は旅の間でさまざまなことを体験していくことや、最後に青い鳥が逃げてしまうというエンディングも初めて知りました。
あらすじについては以下のページ参照のこと。
http://www.key.ne.jp/ako/Xbooks/bluebird.htm
しかも僕の大好きなクリスマスの物語だそうです。今度図書館で借りて読んでみようかな。ちゃんと読んだらまた読書感想文を書きますね。

ところでテーマからはちょっとはずれてしまいました。テーマは「しあわせーって感じる瞬間」。うーん。やっぱりおいしいものをお腹いっぱい食べた時!

ありきたりですいません。




2001年1月26日(金) 普通電車と特急電車
全くどうでもいい事なんですが、各駅停車の電車の事を普通電車といいますよね。ということはなんでしょう。JRや私鉄の会社の人たちは「電車とは本来各駅に必ず停車するものであり、それが普通なんだ!」と認めているってことですよね。その割には普通電車に比べて、明らかに急行や特急の本数が多いし、車両もお金がかかっているし、扱いが違いますよね。そんなことなら急行電車のことを普通電車といって、いまの普通電車は遅行電車とか言ったほうがいいのではないかと思ってしまいます。

新幹線が特急料金をとるのもちょっと納得がいきません。だって新幹線って最初から速く走るつもりで作ったんでしょ。じゃあ新幹線は速くて普通ってことじゃないですか。新幹線を特急料金と言い張るのなら、東京から大阪まで6時間かけていく普通新幹線を作りなさい。それなら納得してあげよう。

まあそんなことはどうでもいいのですが、今日の本題は何かというと僕は普通電車というものにえもいわれぬ愛着を感じているってこと。だって普通電車って結構肩身狭い思いしてるでしょ。「〇〇にはこの駅で特急に乗り換えると先着いたします。」とか言われたら、どんなに特急が込んでいてもみんな普通電車を降りて、特急に乗り換えちゃったりします。普通電車にしてみればたまりませんよね。「おれ、こんなにすいてるんちゃうん。楽に座れるんちゃうん。どういうこと?」っていう気持ちでいっぱいでしょう。みんなが降りたがらんとした車内に座っているとそんな叫びがひしひしと伝わってくるんです。

ちなみに僕は1人の時で大して急ぎの用がない時はすいている普通電車を利用します。だって高々10分、15分の違いならゆったり座って本でも読んでいたほうが有意義な時間が過ごせると思いません?どうしてみんなそんなわずかな時間を節約するために無理して特急に乗ろうとするのでしょ。まるで一刻も早く電車から降りたがっているかのようです。

電車の中で過ごす時間というのは僕にとってとても貴重な時間です。そこでたわいもない考え事をしたり、本を読んだり、数学の問題を解いたりしているとアッという間に時間は過ぎていきます。今のジャグリングの手順もそのほとんどは電車の中で考えついたものです。僕はこの4年間毎週1回、片道1時間半もかけて電車で大阪の塾にバイトで通っていますが、正直全然苦痛ではないんですね。むしろなくてはならないものになりつつあります。

皆さんもたまには普通電車でゆっくり進んでみましょ。
2001年1月27日(土) 変な日本語
バイトが多くて電車で過ごす時間が多くなるとどうしても電車ネタが増えますね。

電車のアナウンスよくあるやつ。
「お年より、お体の不自由な方、妊婦の方には席を譲りあってお座りください。」
今日阪急の中で何気なく聞いたのですが、よくよく考えるとこの日本語ちょっと変な気がする。いったい誰と誰が譲り合って、誰が座るのか良くわかりません。

このアナウンスから想像される光景は
「あ、どうぞこの席に座ってください」
「いえ、いえ、結構です。どうせすぐ近くの駅ですから。」
「いや、あなた妊娠してるみたいじゃないですか。こんなところに立っているのはお腹の赤ん坊に良くない。絶対座るべきです。」
「いえ、どうぞお構いなく、このくらいの試練を与えたほうがいいんです。この子は将来父親が誰かも知らずに生きていかなければならないんですから。あなたが座ったほうがきっと世の中の恵まれない子供たちの役にたつでしょう。」
「いや、何を訳のわからない事を言ってるんですか。とにかく座ってください。」
「ここで私がくじけたら、誰が年老いた母親の面倒をみるのですか。そんな今にも私の赤ん坊は受験戦争に巻き込まれようとしているのです。さあどうぞ座ってください。」
「あー、もうなにがなんだかわからない。じゃあ分かりました。とりあえずちょっと狭いですけど一緒に座る事にしましょう。」

ってな感じになるでしょう。

こういうときは単に「…の方に席をお譲りください。」というべきだと思うのです。例えば「車内では席を譲り合って座りましょう」という使い方なら分かりますが、はっきりとした対象に対して席を譲り合うっていうのは変でしょう。まあ別に意味が分かるから構わないんだけど、なんとなくこの言葉から想像を膨らませたら面白かったので書いてみました。

それと今日もうひとつ面白かったのが駅の人が駆け込み乗車をする乗客に

駆け込まないで下さい、駆け込まないで下さい!

ってマイクで叫んでいるのね。でも客は全然言う事を聞かずにどんどん乗り込んできます。何度も叫んでいるうちにこの駅員さん、だんだん感極まってきてのでしょう。

駆け込まないで下さいお願いだから、駆け込まないで下さい!

1人で(心の中で)爆笑。


2001年1月28日(日) ドラクエZ日記その3
ようやくドラクエも軌道に乗り、プレイ時間も20時間ほどになりました。

よくも悪くもドラクエというゲームはすごいゲームです。何がすごいって数々の不条理が当たり前のようにまかり通って、それを誰もが良しとしているというところでしょう。

例えば戦闘でパーティーが全滅したら普通はその時点でゲームオーバー。主人公が死んだ以上物語が進むはずがありません。ところがドラクエでは主人公が復活し、教会からスタートします。それも物語の続きとしてです。これは考えてみればすごく不条理なことで、果たして全滅した場所からどうして主人公はそこに戻ったのか、なぜ命を取りとめたのかなどは一切説明されません。

まあ、そんなことを言えば一番すごいのはこの世界の"生死"の概念かもしれません。なんとこの世界では教会の神父にお金を払えば、いつでも人を生き返らせることができます。しかもその値段はその人間のレベルが上がれば跳ね上っていくのです。まさに神をも恐れず合理主義が平然とまかり通っています。しかしそれほどの強力な力をもった神父も一般人や自分の身近な人の死に対しては無力になってしまいます。
神父「戦いでたくさんの町の若者が死んでしまった。なんということだ!」
主人公「おめえが生き返らせればいいじゃん!」
などという突っ込みはご法度です。

"時間"の概念もかなりゆがんでいます。例えば旅人の宿屋に泊まると普通に考えれば1日が経過するはずです。でも例えばイベントの途中で何度宿屋に止まっても、そのイベントは何事もなかったかのように続いています。だからいまや城が敵の手に落ちようとしている一刻の猶予も許さない事態の中でも、一旦戦いを中断して、宿屋に行ってうまい飯でも食い、一晩ゆっくり休んでから出直しても、その間ちゃんと敵は律儀に待っていてくれるのです。

ずっと前に書いたドーナツ型をしたドラクエマップ(12/11日の日記参照)も相変わらず健在でした。

もちろん昔はこれでも"そんなのはゲームだから当たり前やん"で許されたのです。でもゲームが進化してきた現代、とことんまでリアリティーを追求している今のRPGの流れの中ではこのような不条理はできる限り排除しようとするのが普通なのです。ドラクエと双璧といわれるファイナルファンテジーはこの辺は徹底しています。HPが0になっても死んだとは言わず"戦闘不能"といいます。死んだ人間が生き返るなどということはありえないからです。パーティーが全滅したらもちろんゲームオーバー。時間軸も矛盾が起こらないよう、かなり厳密に行動を制限しています。ファイナルファンタジーのみならずいまのRPGならこんなことは常識のように行なわれる事です。

ところが、ところがです。ドラクエというゲームはこのような不条理を取り払おうとするどころか、むしろ意図的かと思えるくらいこの不条理を残しているのです。しかもそれに対して誰も文句を言わないというのがすごいです。なぜならその不条理はもはやドラクエの世界観として定着してしまったからなのでしょう。まだプレイ時間は少ないですが、客観的に見てこのドラクエZは時代おくれのRPGという感はぬぐえません。ストーリーも相変わらず勇者が悪者を倒すというワンパターンな構成です。でもその稚拙さや不条理をあえてよしとし、旧きよきゲームへのこだわりをあくまで持ちつづけている姿勢は僕はとても好感がもてるのです。

まあこれからもゆっくりとこの世界観を楽しんでいこうと思います。
とりあえず次の石版はどこ?
2001年1月30日(火) 病院
今日府立病院に行ってきました。

半年くらい前から左手に違和感を感じて、トスジャグリングが思うようにできなくて欲求不満がたまっていたのですが、今日こそ徹底的にその原因を確かめてやろうと意気込んでいったわけです。さすが大きな病院だけあって、人もたくさんいました。診察してもらった時間より、待ち時間のほうがはるかに長かったのですが、まあそれでもはっきりした原因が分かるならと我慢して、待っておりました。

それで結論から言うと全く”異常なし”。骨にも神経にもそれらしい異常が全くないのです。レントゲンも取ったし、いろいろな検査もして専門科がそういう判断をしたのなら、それが正しいのかもしれませんが、どうも納得できないんだよね。現にジャグリングする時は目に見えて左手の具合がおかしいしね。しかし逆にそれ以外の状況ではなんの異常もないのです。握力も正常だし、何らかの動作のときに左手が痙攣するなんていう症状もない。そう説明したらあえて理由を挙げるなら「何らかのストレスによるものではないか」と。うーん、自慢ではないが、僕ほどストレスというものに無縁な人は少ないと思うのだけどね。

まあ、結局今日も理由は分からず、とりあえずしばらく様子を見てみることになりました。

お得意のトスジャグリングができないのはちょっと残念だけど、僕としてはなぜかそれほどショックを受けているわけでもないですね。むしろ新しいジャグリングの境地を切り開くよい機会だと思っております。いままで自分がやろうともしなかった新しいジャグリングの技を開拓するのはやはり楽しいのです。

それとダンスやパントマイムなどにもかなり興味が出てきました。これからは技の練習だけでなく、そういう基本的な体の動きも練習していきたいと思っています。そのためにも少しずつ筋トレも始めています。

さあ2月になったら、いよいよ本格的に活動開始です!
2001年1月31日(水) 散髪
今日は2ヶ月ぶりくらいに散髪をしました。前に散髪したのは静岡に行く前くらいですね。

僕の行っているのは京大の近くの散髪屋さん。典型的な街の散髪屋さんと言う感じで、カリスマ美容師などとは無縁のところです。僕は正直な話,髪型なんて長すぎてうっとおしくなければどんなんでもいいと思っているので、床屋さんのおっちゃん(今日はお姉ちゃんだった)との最初の会話はいつもこんな感じです。
床屋「髪型はどんな風にしましょう。」
僕 「うーん」
床屋「長さは耳がでるくらいでいいか?」
僕 「はい」
床屋「じゃあ刈り上げにしときましょうか?」
僕 「はい」
床屋「前髪はどんな感じで?」
僕 「うーん」
床屋「じゃあ眉毛に少しかかるくらいにしとこうかな?」
僕 「はい」

要するに適当に相槌をうって、「はい、はい」って言っているだけ。どうしても答えなければいけない時は必殺技として

「じゃあ普通くらいで」


っていうのもあります。「普通くらい」って言葉ほど曖昧なものはないと思うのですが、まあ大抵はそれでなんの問題もなくうまくいくのが日本文化の素晴らしいところです。

大体「どんな髪型にしますか」って言われて世の中の人はどう答えているのか不思議でしょうがないです。
「前髪は両方に分けて、真中に2,3本さりげなくたらしてください。横はエスパー魔美系で、後ろ髪はベジータ風カットでお願いします。」
とか言ってるんでしょうか?

どんなに年をとってもまだまだ分からない事は多いです。
とにかく頭がすっきりして爽快です。
yosuke@juggling-donuts.org
 
 
 

Akiary v.0.42