池田洋介日記帳
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2000年12月8日(金) 日記始め
どうも掲示板が僕の日記のようになり始めたということで、それならいっそ日記を作ってやれということで日記を作りました。

ジャグリング日記になるかどうかはとりあえずなんか書いていこうと思いますが、気まぐれな僕の事ゆえどうなるか分かりませんね。

まあ、所詮日記なんて物は自己満足のもので…

それではよろしく
2000年12月8日(金) ドラクエZ日記その1
いきなりジャグリング関係ないやん。(はは)

ずっと前にドラクエZを買ったものの、ずっとやらずに放置していておりました。でもまあそろそろやってみようかと少しずつやっております。それで最近ちょっとずつ根本的な問題に気づきだしてきたのですが

RPG、僕に全然向いてないかも。。。


まあ人の話をあまり聞かなかったり、ストーリをすぐに忘れてしまう僕がいけないのですが今回も始まって30分もしないうちに何をしていいのか分からなくなってしまいました。しかも平和な世の中やし。敵も出てこないし。スライムはどうしたー。大ナメクジはどうしたー。

今回の舞台は世界にたった一つしかない島で、もちろんここが世界でただ1つの国らしい。島の人もこの島以外には世の中には大陸はなく人も住んでいないと思っているという設定。ところが王子様はこの島以外にも未知の大陸があるに違いないと思っているようです。なるほど、なるほど。

っとここまできて激しく疑問に思ったのですが

世界にたった一つしかない島で"島”や"国"という概念が果たして存在しうるのか?

だってそうでしょ。同じようなものがいくつかあるから概念というものができるのであって、たった一つしかないのならそんなものは必要ないはず。だから登場人物が「この国は本当に平和で…」とか言っているのはちょっと変なのです。例えば明治時代の人が「もうすぐ第1次世界大戦がはじまる!」とか言ってたら変でしょう。

うーん、細かいところが気になってしょうがない。前途多難ですがまあ少しずつ頑張ってみます。とりあえずはやくスライムに会いたい。


2000年12月10日(日) あー雨だ
今日は天保山パフォーマンスデビューの日だったのですがあいにくの雨で仕方なくキャンセル。12月24日までデビューはお預けとなりました。

仕方がないから新しいCGIプログラムでも作ろうかな。

2000年12月10日(日) 笑いに関して思うこと
昨日近鉄の瓢箪山という駅で切符を買おうとしていた時、硬貨を入れるところに黄色いシールが張ってあって

新500円硬貨使えます

と書いてあったのをみました。これをみて思わず吹き出してしまいました。

いや別にこの文章自体はおもしろくもなんともないんだけど、いま駅の改札はほとんどすべてが

新500円硬貨は使えません

と書いてあるのが普通でしょう。てっきりそうだと思って読んだので"使えます"のところでなんか笑ってしまったというわけ。へー、でも新500円玉が使える券売機は初めて見ました。

それはそうとこのとき生じた笑いって考えてみると面白いですね。当然こう来るに違いないと思っていたものが予想外の方向に行ってしまう。そのときなぜかおかしさがこみ上げてくるのです。期待していたものが見事に裏切られる気持ちよさっていうのも笑いを作る1つの要素なのでしょうね。

昔よく落語を聞いていたのですが、落語というのはけっこう予定調和的な笑いの世界です。それはそれで楽しいのだけど、僕の大好きだった桂枝雀さんの落語はその予定調和的な世界をとことん裏切ってくれる落語でむちゃくちゃ笑った記憶があります。

落語はたいてい前節があって、そこから突然ストーリに入っていく(大抵は2人の人間の対話から始まる)ものですが、例によって枝雀さんは前節のあと
「こんちは、へいこんちは」
と会話口調でストーリに入ります。誰もが落語が始まったと思った瞬間
「ってな具合に落語は始まるわけですが」
と前節に戻ってしまったときは大爆笑してしまいました。(しかもこれを3回ほど繰り返す。)

でもこういう笑いを作る人ってやっぱり大変だなと感じます。だってもしみんながその笑いに慣れてしまったら、もはやそれは予定調和になってしまうんだからね。常に自分が作ってきたものを壊していかないと新しい笑いは生まれてこなくなるわけです。

その券売機で買った切符を握り締め、今はなき枝雀さんに思いをはせながら電車に乗り込んだのでありました。
2000年12月11日(月) ドラクエの世界が球ではない理由
今日練習の帰りに佐々原とクラインの壷について話していたときにふと思いついた話題。(ちなみにクラインの壷は裏と表がない閉平面のこと)

ドラクエの世界(といってもYまでしか知らないけど)は地球と同じように世界地図がちゃんとあります。しかもそのマップはずっとまっすぐに進みつづけると必ず元の場所に戻ってきます。(つまり上に進んだら下からでてきて、右に進んだら左から出てくる)

このことから僕たちは当然のことながらドラクエの世界は地球と同じような球形をしているとイメージしていますがこれは本当でしょうか?これを突き詰めると意外な事実が浮かび上がっています。なんとドラクエの世界は球形ではないことが証明できてしまうのです。

まあやってみましょう。例えばドラクエの世界でマップ上のある地点に立ち、そこから上方向にまっすぐ飛んでみましょう。(鳥とか空飛ぶ絨毯を使えばOKね)そうすると当然のことながらしばらくした後に元の地点に(下から)戻ってきます。ってことは今飛んだ軌道を線でなぞってみたとするとこの軌道は閉じた曲線(円)になるはずです。

もしこの世界が球ならば球状の閉じた曲線は必ず球面を2つの部分に分けるはずです(つまり円の内側と外側)。だからこの曲線の内側にいる人はこの線をまたがなければ円の外側にでることはできません。

ところがドラクエの世界ではこの線の右側に立っている人が右側にまっすぐすすめば、この線をまたがずに線の左側にこれるわけですからこれはドラクエの世界が球でない事を示しているわけです。

それではドラクエの世界はどんな形をしているのか。結論からいえばドラクエの世界はドーナツの形(トーラス)をしているのです。なんて意外な事実!長方形の地図の対辺を向きをそのままにつないでみれば、ほーら、ドーナツ型になるでしょ。だから地球ではなくて地ドーナツなのです。

うーん、そうするといろんな疑問が湧き出てくる。ドーナツ型の星では重力はどんな風に働いているんだろうとか、ドラクエ3の世界では昼と夜があったけど恒星はどのような軌道で回っているのだろうとか…。なんてメルヘン。

ちなみにファイナルファンタジーはZと[しかやったことがないけど、この世界はちゃんと球状をしていた記憶があります。(マップが立体的に書かれてたからね)そうでないと宇宙に飛び出した時の星の見え方に矛盾がでてくるからね。(ファイナルファンタジーはそこまで考えていたのか!すごい)

ちなみにドラクエZですが、まだ最初のほうでちんたらしておりますのでマップなど手に入るわけもありません。(っていうか世界でただ1つの島らしいしなー)この世界のマップがどんなのかちょっと楽しみ。でもドラクエはやっぱりドーナツでしょね。
2000年12月12日(火) 灰色の小型ねずみ
はい昨日の日記はちょっとマニアックでした。反省して今日は普通の日記。

今日は寺町にマウスを買いに行ってきました。っていうのも僕のパソコンのマウスがどうにもこうにも言う事を聞かなくなってしまったからなのです。

動くには動くんだけどかなり気合がいります。例えば左に動かしたい時はマウスを右斜め上方に持上げ、マウスパッドに左に叩きつけるようにします。このとき「えい!」とか「この!」とか叫ぶとさらに効果的。僕は最近すっかりこの扱いに慣れてしまって、このマウスにほのかな愛情すら感じていたのですが、家に遊びに来る人が口をそろえて動かしづらいとかいらいらするとかいうので、今日は思い切って電気屋さんに足を運んだ次第です。

それで遂に買ってしまいました!灰色でちょっと小型のマウス(USB端子)。さっそくドライバをインストールしてマウスをつないで見ました。どれどれっと…。

はい、告白します。正直言って僕はそのときかなりショックを受けました。

動かしやすー


マウスを全然押さえつけなくても、滑らすだけで僕のパソコンの上のピカチュウのポインターが縦横無尽に動くのです。いままでマウスのゴキゲンを伺いながら恐る恐る動かしていた日々はいったいなんだったのでしょ。しかも僕を驚かせたのはマウス中央のくりくりと回転するローラー。なんとこれを回すだけでウィンドウをスクロールできるという優れもの。いままであのマウスで必死になって小さな▼ボタンをクリックしていた日々が走馬灯のように脳裏を駆け巡っていきました。

僕のかわいいマウスは速攻引出しの奥に埋葬される事になりました。
2000年12月13日(水) 何故市バスでは1万円札が使えないのか?
今日は久しぶりに京大まで練習に行きました。

最近自転車の鍵を無くして、大学まで歩いていくのが億劫だったのでずっと近くの公園で1人練習してました。でも今日はえい!と気合を振り絞っていざ出陣です。

…ってまあ結局バスで行ったんだけどね。

それで京都大学に向かうバスの中で財布の中に小銭がほとんどないのに気づきました。あわてて数えると170円。運賃は220円なので50円足らないのです。札入れを見るとなんと1万円札が1枚きり。しまったー両替できーーん。

そうなのです。京都の市バスは1万円札は両替してもらえないのです。実はこの状況におちいったのは1度や2度ではなく結構何度もやってしまっています。それでこういうときはどうするかというと素直に降りる時に運転手さんに

「すいません、うっかり小銭を持ってくるのを忘れてしまったんですけど」

と申し訳なさそうに言えば運転手さんも

「仕方がないから、次乗ったときに払ってください。」

と言って降ろしてくれます。(結局この約束は実現される事はありえないので無銭乗車ってことになるんだけど。)でも僕にとってこれは結構勇気がいるんですよね。別に悪い事をしたわけではないのにちょっぴり罪悪感を感じてしまいます。

しかも今日の車掌さんはちょっと怖かった。恐る恐る話を切り出したら
「それは他の誰かに両替してもらわないとうちらはどうしようもできんのや」
と少し怒った口調で言い返されました。僕が困ってると
「しゃーないから今あるだけでいいから払っていって。」
と言われました。

これにはさすがの僕もちょっとむかつきましたね。

「その態度は何?だって僕はちゃんと運賃に見合うだけのお金は持っていたわけだし、おつりが返せないのはそちらの都合でしょ。両替が必要なのは僕ではなくあなたなんだからあなたがお客さんに両替をお願いするべきでしょう!」

と大声でどなり散らしたい気持ちをぐっと押さえて結局なけなしの170円の小銭を払っておずおずとバスを降りました。

だいたい今時ゲームセンターでも駅の券売機でも1万円札はほぼ間違いなく使えるのにどうして市バスは使えないんでしょ。やっぱり安全性の問題?それとも単なる怠慢でしょうか。

今日の練習もディアボロばっかりやってました。やっぱり1人でやるよりみんなでやるほうが絶対楽しいですね。
2000年12月14日(木) ジャグリングの練習
おっと、ひさびさのジャグリングの話題だ。

ジャグリングの練習をしていて、最も楽しいと思えるのはなんといっても今まで自分ができなかった技が初めてできるようになった瞬間だっていうのはきっと誰でも同じでしょうね。とりわけ長い間できなくて苦しんでいた技が1回でもきまった瞬間は、うれしくてうれしくてみんなに知らせて回りたいくらいになります。(実際よくやってるけどね。)

1回でもできるってことはそれだけで十分価値のあることなのです。なぜかっていうと自分にはその技が必ずできるってことが証明されたことになるわけだからね。(それが例え1%の確率だったとしてもです。)

さて1回でも技ができればあとはそれを何度も何度も繰り替えして成功率を高めていくという練習をしていくわけなんですが、実は多くの人にとって(もちろん僕にとっても)ジャグリングを練習する楽しみが最も顕著に感じられるのはこの過程ではないかという気がします。さっきできたはずの事が次にやったらできない。でもたまに何故だか分からないけどできてしまう。その違いっていうのは最初は全然分からないのです。でも試行錯誤を重ね、いろいろな事を意識しながら、何回も、それこそ何百回も繰り返すうちに、おのずと問題点やうまくいくコツが飲み込めてくる。そして少しずつ少しずつ成功率が上がっていく。そんなふうに自分が上達していくのが肌で感じる事ができるのは本当に素晴らしい事です。そんなときは下手をしたら何時間も夢中になって同じ練習をくりかえしていることもよくあります。(そのときの僕の目は少年のように輝いているのです…多分)

ところが困った事に技の安定度と練習のモチベーションというのは反比例するものなんです。ある程度うまくなってしまうと、それを成功した時の感動というものはだんだんうすれてくるわけで、そうなるとまた更なる感動をもとめて違う技を練習したくなりがちです。ジャグリングを楽しむというスタンスに立てばこれはこれで全くOKなわけですが、ショーとしてのジャグリングを完成させるという点ではこれでは不十分です。

ジャグリングの練習の最も楽しい時が1%を60%にする過程だとすれば、ジャグリングの練習で最もつらい時は60%を100%にする過程であるような気がします。そしてこの努力をするかしないかが単にジャグリングがうまい人で終わるか、本当に人を感動させるジャグラーになれるかの大きな(もしくはほんの小さな)違いであるということが次第に分かってきました。ここでの練習はいかに成功させるかではなく、成功してあたりまえのことをいかに"失敗しないか"ということです。"失敗しない事"。こんな単純な事が実はいかに難しい事であるかは人前でショーをした事がある人なら誰でも身にしみて分かっているはず。そのためには筋トレ同様、同じことを何度も何度も繰り返すという地道で一見なんの進歩も感じられない努力を続けるしかないわけです。

自分で言うのもなんなのですが、実はこのような地道な作業というのは僕はけっこう好きなのです。だから他の人がたぶんやらないような単純なトレーニングも黙々とこなせてしまう。これは僕の取り得のひとつかな。

現時点で僕の上をいく人が独りでもいるなら、その人を超えたい。それこそが僕を駆り立てる原動力です。
2000年12月16日(土) Just For Laugh!
何かをみて鳥肌が立つほど感動するという経験はそうあるものではないです。特にテレビを通して見るときは、どうしても生で見るより迫力が少なく感じるので感動も薄れてしまうものです。

でも今日みた映像は正直見終えたときゾクっとする寒気を感じました。それほど素晴らしかった。思わず真夜中に独りで声をあげてたくらい。

見たのは海外の「Just For Laugh!」というテレビ番組(何年か前に衛星放送でやっていたやつ)なんですが、毎年行なわれるモントリオールのコメディーフェスティバルの映像を編集したものです。そこに出てくるパフォーマーはどのひとりをとっても世界一流のパフォーマー。ジャグリングの芸というのはほとんどないのですが、ジャンルというものを超越して、パフォーマンスというのは何かということを改めて教えてくれる芸ばかりです。

なにより僕が驚いたのはその発想の奇抜さ。こんな単純な事が芸になるんだとかどうしてこんな事ができると考えついたのだろうとかいうものばかりでした。それがしっかりした技術や演出と一緒になったときこうも人を感動させる事ができるものなんですね。

素晴らしい芸というのは理屈を越えて人の心の奥を揺さぶるものなのです。
2000年12月17日(日) 忘年会と今日の出演
昨日はドーナツの忘年会。すごくたくさんの人が参加していて懐かしい顔ぶれにもあえたのでとても楽しかったです。カラオケでもひさびさにミスチルを熱唱!うーん、しびれる。

それから末吉の家にたくさん押し寄せて、NFのビデオや「Just For Laugh」のビデオ鑑賞。みんなでわいわい言いながらビデオを見ました。本当に楽しい時間で気づいたら朝の4時。うわー、明日(今日)出演依頼あるのにー!

家に帰って出演の準備をして2時間くらい寝て、眠い体をひっぱりながらなんとか予定時間に伊丹に到着。にもかかわらず、案の定というかなんというか彰は寝坊して1時間遅れてきました。(こらー)

今日の出演は30分手順を4回も通したのでとってもハードでした。でもだんだんお客さんは集まってきてそこそこ良かったです。クライアントも満足してくれたようでひとまず合格かな。(彰は遅刻したのでマイナス30点)

伊丹という街は初めていきましたが、阪急の駅の周辺はすこしひなびた感じを受けました。(あくまで僕の主観ですが…)一時期はものすごく栄えていたのが、すこしずつ力をなくしていったという空間に独特の雰囲気。家の実家の周辺もそういう臭いがあるのですごくよく分かります。例えるならずっと昔に録画した洋画をひさびさに引っ張り出してきてみる時に感じる印象です。(わかりにくいー)

それはそれで僕は好きなんだけどね。
2000年12月18日(月) ホームページと格闘
今日は一日CGIと格闘していました。
気づいたらご飯を食べるのもすっかり忘れてた。
絶対体に悪いなこれは。

ふと新聞を見たら列車衝突事故だと。これを聞いてまっさきに信楽高原鉄道の事故を思い出しました。なにしろあの事故は僕の高校時代の実家の目と鼻の先で起こったことだからね。(しかも僕は当時毎朝あの電車で通学していたのです。)

高原鉄道の事故は信号機のトラブルが原因で実はあの事故の前にも一度トラブルがあったことが分かってます。でもそのときは電車が見切り発車せずに1時間ずっと信号所でとまっていたので事故にはならなかったのです。何を隠そう僕はその時その電車に乗っていたからね。心の中では「早く動けよ!」とか思ってたのですが、今となってはそのときの車掌さんに感謝です。よくぞ止まっててくれたねえ。もしそのときの車掌さんの判断が間違ってたら、きっと日本のジャグリング界を背負って立つ尊い若者の命が1つ消えていたのですよ。(ん、それは言い過ぎ?)

でもきっとこういう紙一重の生命の危機は頻繁に起こってて、それに単に僕たちは気づいていないだけなのかもしれないですね。
2000年12月19日(火) 電車のアナウンス
バイトの都合上JRや阪急や京阪などの電車に乗っている時間が非常に多いのですが、ここ最近携帯電話についての注意を促すアナウンスが次のように変わりました。

「混雑した車内での携帯電話やメールの使用心臓ペースペーカーなどに影響を及ぼす恐れがあり他のお客様の迷惑になりますので、電源をお切り下さいますようご協力をお願い申し上げます。」

どこが変わったのかというと上の太字の部分が新しく加わったのね。つまりいままでは"通話をご遠慮ください"だったものが"メールもダメ"、しかも"電源を切れ"と少し厳しくなったわけ。しかもその理由は"心臓ペースメーカーに影響を及ぼす"から。確かに携帯電話は電源が入っているときは常に電波が飛んでいるわけだから理屈は通っているよね。

しかし、しかしです。僕はこのアナウンスを最初に聞いた時から違和感を感じてしょうがなかった。特に"心臓ペースメーカーに…"というクダリ。世の中に心臓ペースメーカーをしている人がどのくらいいるのか恥ずかしながら僕は全く知りませんが、影響を及ぼすというのはどのくらいの影響を及ぼすということなのでしょう。もちろん影響を及ぼすのは確かでしょうが、それをいうなら電子レンジや無線の電波や宇宙から飛んでくる粒子にだってさえ影響を受けているはず。問題はその程度なのです。もし携帯電話の電波の影響で心臓ペースメーカーが誤作動し、その人の生命に危機が生じるとすればこれは大変な事です。本当にそうなら電車に入る人が携帯の電源を切っているかを駅員がチェックして、必要ならそういう人たちの専用の車両を作ってあげるくらいはしてあげる必要があります。

でも本当にそうなのかな、と僕は疑問なのです。一体JRや私鉄各社はこれについてどのくらいの調査をした上でこのアナウンスを流しているのでしょう。携帯電話が登場した一時期の電波に関する風説(携帯電話でがんになるとか、電波塔の近くにいる人の自殺率が高いだとか)がありましたが、そういうものと同様たいした調査もせずに流しているように思えてならないんですよね。もっと悪意に解釈するならペースメーカーをしている人という肉体的な弱者を利用してマナーアップを図っているようにもとれる。今までなら携帯電話を車内で使うのは単にマナーの問題だったのが、こんなアナウンスをされたら完全に"悪者"になってしまうわけですからね。

正直なところ最近は電車の中で携帯を使う人もそれほど大きな声ではしゃべっていないので全く気にならなくなりました。(それなら別に隣の人としゃべってるのと変わらないしね)。それよかJRや私鉄の皆さん。電車の中で大声でわめき散らしている高校生や子供たち(とその母親)のマナーアップを呼びかけたほうがよろしくありませんか?僕としてはあっちのほうがよっぽど心臓に悪影響を及ぼすような気がして仕方がないのですけどね。
2000年12月20日(水) いい季節
火曜日にいつもバイトで行っている梅田の早稲田セミナーの近くに僕のお気に入りの道があります。TBSとLOFTにはさまれたとおりなのですが歩道にアーチ上に光のゲートができていて夜になるととてもきれいなのです。ちょうど光のトンネルを通っていくような気分になれます。特に今の時期はクリスマスシーズンとあいまってカップルたちが集うとてもロマンチックな通りになっています。

突然ですが僕はクリスマスが好きです。

いや正確に言えばクリスマスが好きなのではなくクリスマスシーズンが好きなのです。街の雰囲気も、音楽も、どことなく慌しげな人並みも、ひんやりとした空気も何もかもひっくるめてこの季節は僕をわくわくさせてくれます。

クリスマスはキリスト教の祭りだからとか、欧米の文化だとかいってクリスマスのことを否定する人たちの気持ちは僕にはよく分かりません。だって誰だって子供の頃はこの季節は何かしらの期待に胸を躍らせていたはず。なにも後から無理矢理理由をこじつけて、クリスマスを嫌いにならなくてもいいのにね。

何気なく見た風景や、誰かのちょっとした仕草や、遠い昔の記憶がふと思い出されるとき、それはいつもぴりっとした寒さをともなってやってきます。それはきっと寒さが人の心を内側に向けてくれるからなのです。忘れられない思い出は寒さとともに心の中にしまいこまれるものだからなのです。この時期になると昔のクリスマスの楽しい思い出たちが心に満ちていくのはきっとそういうことなのです。

うーん、たまにはこういう文章もいいでしょう。
2000年12月21日(木) 好きなもの
日記といいつつ単に僕のミニエッセイになっているのがすこし気になりますが、取り立てて報告するほどのことが今日は起こらなかったので仕方がないのです。

確かにAstroさんの言うとおりこれは日記であって日記とは非なるものです。なぜなら僕がここに書いている文章は誰かが見ること、もしくは誰かに見せる事を前提にかかれている文章だからです。だからこの日記を見てその人の内面を知る事ができると思うのは間違いなのです。知る事ができるとすれば、それはその人が自分を他人にどう見せたいと思っているかということです。

昨日に引き続きは僕の好きなものについてのお話。

ミスチルが好きです。日本や世界のどのバンドに比べてもやはり一番好きです。桜井さんの切ない歌声が好きです。共感できる歌詞が好きです。不条理を内包したメロディーラインが好きです。

村上春樹が好きです。特に「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」が好きです。非現実と現実がどこかでつながっている独特の世界観が好きです。自分の中の規範を、なにがあっても守りつづけようとする主人公の生き様が好きです。

僕が自分をすごいと思えるのは一旦好きになったものは、まず間違いなく嫌いになることはないということですね。
2000年12月22日(金) 年賀手紙
僕の日記の更新がだれより早いのはきっと真夜中(日を越えてから)この日記を書いているからですね。思ったよりたくさんの人が読んでくれているみたいで、そう考えるとけっこう書くのもエネルギーを使います。今日は何の話題にしようかな。

そうそう年賀状の季節がやってきました…っていうのは世間一般の人たちにとってはってことね。最近僕はめっきり年賀状を書かなくなってしまいました。今年の干支は何?って聞かれてもさっぱり分からなくなったのがその証拠です。

小学校や中学校のころはものすごく楽しんで書いてたんだけどね。当時はプリントごっこやパソコンのような便利なものはないので、文字も絵も全部手書きで。僕はかなりの凝り性で1枚に30分から1時間かけて書いてました。一人一人に違うクロスワードパズルを作って送って、みんながビックリするのをみて楽しんでいたりもしました。

どうして書かなくなったのかねえ。よく分からないけどだんだん年賀状を書くことが義務のように感じ出したからでしょうか。僕は自分から進んで何かをする時はすごく頑張るんだけど、自分がそれをやらされているっていう気分になってくるととたんに気力を失ってしまう傾向にあります。なんで新年だからみんなにハガキを送るの?どうして「あけましておめでとう!」って書くの?って思い始めると僕は意地でもそんな形式には縛られないぞ!っていう気になってくるのです。

でも手紙を書くことは嫌いではないんですよ。こんな事書いておいてなんだけどもらうのはもっと好きなのです。手紙というのは電話やメールと違って何度も何度も読み直して、言葉を搾り出しながら書くものなのです。だから手紙をもらうとその文章だけでなくその文章を書いている間自分のことを思っていてくれたのだという時間の重さも一緒に感じられる気がします。

だから正直年賀状をもらうとうれしいのです。だからもらった人には例年30分以上かけて返事の葉書を隅々まで手書きで書いていますからね。これは形式に縛られているのではなく、僕の気持ち。(形式じゃないのでお年玉つきあることはあまりありません。はは)そうだ今年は年賀状じゃなくて、年賀手紙ってのを書いてみようかな。はい、これは先着5名様までです。

てわけで皆さん僕に年賀状を下さい。
2000年12月23日(土) 風邪と格闘
風邪をひいてしまいました。

原因はわかっています。この間家に遊びにきた人々(病人含む)たちが風邪の菌をめいいっぱい部屋に撒き散らしていったからです。ここ数日なだめすかしながらなんとか押さえつけてきたウィルスも、痺れをきらして暴れだした模様。

風邪をひいて何がつらいって、じっと寝ていなければならないのがつらい。(って割には全く寝てないんだけど。)昼間にじっと寝てるなんて僕にとっては苦痛以外の何物でもありません。うおー遊びにいきたいー。

今日最後の練習日なのにな。でも明日は天保山のパフォーマンスがあるしな。やっぱり安静にしておくべきかな。うーん、そうだ、こういうときこそドラクエだ。今日は1日中ドラクエの日にしよう!…でもやっぱり練習行きたいなー。岡田さんがIJA2000のビデオを持ってくるのかな。うおー見たいみたい。

とにかく昼までは寝ることに決定。
もう風邪をひくと文章をまとめようという気力さえおこりません。
2000年12月24日(日) クリスマスイブ
1日、間を空けたのでこれでやっと日記本来の姿に戻った事になります。そうです。日記とは本来その日1日に起こったことを書くものなのです。

今日はクリスマスイブです。街に出たらやっぱりカップルがいっぱい。なんか楽しげな雰囲気が満ち溢れています。みんなそのことしか頭にないんかいー!(謎の突っ込み)ってちょっと思いもしますが、まあそれでいいのです。別に今日が誰の誕生日であろうが、そんなことは誰も気にもとめず、ケーキ屋さんは繁盛し、街はデコレーションで彩られて、子供たちは喜び勇んでおもちゃ屋さんに走るのです。それがクリスマスイブ。そんな中今日は天保山でパフォーマンスをしてきました。

風が強かったせいもあるのですがミスがかなり多かったです。というか風のせいというよりは完全に練習不足なんだけどね。体調がすぐれなかったせいもあって本番前の練習を怠っていました。これでは絶対に良い芸はできません。

それとやっぱり場数を踏んでいないという、経験の差を歴然と感じもしましたね。今日はビットさんやオクチさんと一緒だったのですが、正直2人が集めた人数の半分も集める事はできませんでした。つかみというものをもっと研究しなければいけないとともに、もっともっと流れを練らなければだめ。ちょっと痛感しました。オクチさんの芸は本当に参考になりました。それと2人の話を聞いて思ったのですが、プロとして大道芸をしている人はやはり、お客さんを集める事、投げ銭をもらう事に良い意味で貪欲。だからどの時間を選んでどこで演じるか、どこが一番客を集められるかということにはかなり気を使っていました。

そうそう、ビックリしたのが雪竹さんがサンタの格好をしてグリーティングをしていたこと。それもすごく嬉しそうに。でもお客さんはちょっと怖がってました。だって素顔だもん。あの人の生き方も僕にはかなり興味があります。

それでは今日はこの辺で
2000年12月25日(月) クリスマス焼肉
ドーナツのメンバーでクリスマス焼肉。久々に上等の肉をお腹いっぱいたべて幸せな気分になりました。その後また別のところで飲んで、最後はレンタルビデオやで映画を2本借りてきて椎名の家で耐久上映会をしました。

ビデオは「34番街の奇跡」と「アンドリュー」

1本約2時間で夜の1時から5時までの上映。絶対寝てしまうと思ってたけどみんな意外と全部見てました(かおりJRのみ爆睡)。どちらもそこそこ楽しめていい映画でした。今日は映画の感想文。

■「34番街の奇跡」
クリスマスものです。自分がサンタクロースだと言う謎の老人が現れて、ニューヨークの話題になるのです。そのサンタを雇ったデパートは大もうけ。ところがそれを妬んだ別のデパートが、スキャンダルを捏造して、そのサンタを精神病院に送ろうとします。争いは法定に持ち込まれニューヨーク中の注目の的に。困ったのは法廷。もしサンタを精神病院に送れば子供たちの夢を壊してしまう事になるし、かといって彼をサンタだということを認めてしまえば法定が「サンタクロースが実在する」ということを公に認めてしまうことになるからです。

もちろんこれに現実主義者で離婚歴のあるキャリアウーマンや、サンタなんて実在しないと言われてすっかり夢をもてないでいる彼女の子供や、そのキャリアウーマンに密かに恋焦がれる弁護士なんかがお決まりのように登場します。

最後はほぼ予想通りのエンディングです。

でも僕は結構こういう分かりやすい映画は好きなんですよね。ぜったい現実にはこんなことあるわけないやん、とか思ってもやはりちょっぴり感動してしまいました。特に法定の判決のシーン。「みんなに笑顔をもたらす嘘と、みんなに涙をもたらす真実ははたしてどちらが大切でしょうか?」って言う言葉がジーンと来ました。ちなみに映画のキーワードになった「IN GOD WE TRUST」という言葉は紙幣だけでなく、アメリカの発行する全ての硬貨にもかかれています。チェックしてみましょう。

■アンドリュー
人間の世話をするアンドロイドとして作られたロボットがあるトラブルから感情をもつようになり、自分を人間に近づけようとしていくというお話。SFというより感動物です。
これは結構笑えたし、ロビンウィリアムズの名演がやはり素晴らしかった。ただ正直ストーリーにはそれほど感情移入はできなかったかな?

だってロボットと人間の間の恋愛を描くなら、やはりプラトニックなものであるべきでしょう。

でも要所要所に散りばめられていた言葉は結構味がありました。

僕は映画は結構好きでよくみます。でもこの話は(たぶん長くなるので)また機会があれば書きましょう。今日は(今は本当は26日)家に帰って3時まで爆睡していました。では!
2000年12月26日(火) File1 スペアリブの謎を追え!
25日に焼肉屋で話題になった事ですがスペアリブとはどういう意味か。
リブに関しては辞書で調べてみたら
rib:肋骨、あばら骨
という意味が書いていたのですぐにわかりました。それではスペアって何?うーん、これは難しい。というわけで今日はスペアリブの秘密を特命リサーチ200X風に解明してみることにする。

仮説1 宇宙人来訪説


遠く離れた銀河系の端にあるスペア星は地球と酸素濃度、熱放射量が大変似通っており、地球と同じような生命系が存在する事が予測される。今から2000年前、はるかかなたのこの星の幹部が地球に訪れ、下賎の民が食べていた牛肉の切れ端に目を奪われた。
「%&$$#”!#$$%%?(あのものの食べているものはいったいなんだ)」
ということで口にしたその牛肉がスペア星人に大ヒット。さっそく持ち帰り瞬く間にスペア星に広まったという。その事件をきっかけにその骨つきの牛肉をスペアリブというようになったという説。

しかしこれはあまりにも発想に飛躍があり、相対性理論との矛盾を考えてもにわかには信じがたい!

松岡チーフ:「またしても宇宙人来訪説は否定か。しかしそうなると本当の理由はなんなんだ。」
伊達徹:「実は全然別の方向から極めて興味深いリサーチが上がっています。」
松岡チーフ:「なんだと、なんなんだそれは!」
吉川美佐:「実は最近有名焼肉店から大変奇妙な噂が広がっているのです。」
松岡チーフ:「奇妙な噂。吉川くん、それはどこの国の話だ。」
吉川美佐:「日本です。」
松岡チーフ:「なにー!」
伊達徹:「高田さん、ファイル145を」

仮説2 実は偽物説


スペアとは本来「予備」ということを意味する。つまり文字どおりとればこれは予備の肉という意味。ということになると本当のリブというものが実は存在していることになる。このことについて私たちは驚くべき証言を得た!

「いや実は冷蔵庫の奥に本物のリブは置いてあるんですよ。でもこれはお客さんにはだせません。だって学生は肉の味なんてわかってないんですから。こっちはただでさえ3000円で蛭子ビールまで出すというアコギな商売をしてるんです。」

しかしそうなると次なる疑問が生じる。果たして本物のリブは誰が食べているのか。これについてさらなる証言を求めたところ意外な事実が明らかになった。

「自分で食べてます。」

以上の結論を総合すると次のようになる。「スペアリブ」とは焼肉屋が学生の心を誘導するためにつけた名で、実は本物のリブではない!しかし我々はその英語のいかにもブルジョワジーな響きに惑わされ、それを本物だと思い込む。それを焼いたときの香ばしい肉汁はエアロゾル化し我々の満腹中枢を麻痺させるのである。そして本物のリブは冷蔵庫の奥に存在し、夜な夜な焼肉屋の店主によって密かに処理されていたのである。

「スペアリブ」の恐怖。それは学生の乏しい食生活につけこむ目に見えない敵である。しかし一方、これは文明化のすすんだ現代社会に焼肉屋がならしている警鐘なのかもしれない!
2000年12月27日(水) 年越し大掃除
僕の部屋は3ヶ月に1回くらい思い出したように掃除をされ、それ以外はほとんど掃除をされないので物がどんどん散らかっていきます。これは熱力学第2法則で説明できる自然現象で僕にはどうすることもできないのですが、まあ21世紀の幕開けくらいはきれいな部屋で迎えようと、これから31日にかけて大掃除を決行しようと決意したわけです。(題して「働け!マクスウェルの悪魔大作戦」)

でとりあえず今日は何をしたかというと、まず電気屋さんに言って蛍光灯を買ってきました。今まで壊れていた蛍光灯を2ヶ月ぶりに交換し、ちょっぴりぬくもりが戻ってきました。

でメインはというと今日はパソコンの中の大掃除。寺町でフロッピーディスクを買ってきてバックアップをしたり、もう使わなくなったソフトをアンインストールしたり、パスワード類を整理したり。邪魔なモンはごみ箱にドラッグアンドドロップ。家の掃除もこんな感じにホイホイと簡単にできればいいのにねえ。でもこれでずいぶんパソコンの中がすっきりしました。

あすはいよいよ部屋の掃除にかかります。ひえー。
2000年12月28日(木) 暦というものについて その1
西暦というのはおそらく誰か偉い人が決めたものなのでしょうが、キリストが生まれた日が(ほぼ)西暦1年ということで作られているものなんでしょ。ずっと長い間僕は疑問に思っているのですが、じゃあどうしてキリストが生まれた12月25日(クリスマス)を西暦1年1月1日にしなかったのでしょう。もしそうなっていれば商店街やデパートは年末わずか1週間たらずの短い模様替えにこれほどまで慌しい思いをしないですんだでしょうし、アメリカ人も会う人ごとに「MerryChristmas and Happy New Year!」という妙に長たらしい挨拶をすることもなかったでしょうに。

"繰り返しや共通点を見出す事"、"全く違うものを同一視する事"、この2つは人間の行なう最も基本的な数学的思考ではないかと思います。例えば僕たちは誕生日という言葉を使いますが、考えるまでもなく自分が誕生した日というのは本当は1つしかありません。しかし私たちは季節の移り変わりから1年365日という"よく似た気候の繰り返し"を見いだし、知らず知らずのうちに365日離れた本来は全く違う2つの日を"同一視している"ことになります。もし毎日毎日の気候が全く変わらない星に生まれていれば、誕生日などという"概念"は存在しなかったに違いないのです。

ですから暦というのはおそらく世の中に初めて登場した人間の数学的な思考の産物ではないかという気がします。最初のふとした疑問から暦の事に興味を持ち、しばらくインターネットで知識をかじってみたのですが、暦の歴史というのは本当に面白いものですね。今、暦の大きな変わり目の時期を迎えるにあたり、暦のことをすこし考えてみるというのもいい機会かもしれません。

ところで今日は掃除をしようしようと思っていたのですが、結局別の仕事に夢中になってやらずじまいになってしまいました。明日こそは!です。
2000年12月29日(金) 片付けというよりも
僕の本格的な掃除は、まず棚や引出しのものをいったんすべて外に引っ張りだすことから始まります。それで棚や引出しをきれいにしてから、もう一度1からしまい直すのです。そうするとけっこう懐かしいものがいっぱい出てくるんですよね。昔の手紙とか、写真とか、そういうのを思わず読み出したりしているともう大変。何時間たっても掃除が終わりません。

しかも掃除の間、ずーとラジカセでミスチルをかけていました。昔の曲から延々と。それで部屋で1人で大声で一緒に歌を口ずさみながら、ミスチルダンスをしておりました。これも今日の仕事がはかどらなかった原因の一つ。僕は歌が大好きです。よく観察していると分かりますが、一人でいる時や自転車に乗っているとき、練習をしているときも常になんか歌を口ずさんでいます。そして1人で幸せな気分になれるのです(けっこうお手軽な性格です)。やっぱり人の生活に潤いを与えてくれるのは言葉であり、メロディーなのだよ。

ってなわけで今部屋にはまだ山ほどの物たちがベッドの上や床に散らかっています。とりあえず仕事は明日に持越しです。どこに寝たらいいのやら…。

突然ですが数学の問題です。
0.2422 ≒ 1/a + 1/b + 1/c
となるできるだけ切りのいい整数a,b,c(負でも良い)を見つけなさい。
答えはまた明日。それでは!
2000年12月30日(土) ずいずいずっころばし
お部屋の片付け&模様替えも一段楽して、今日は近くのスーパーまで年末の買出しに行ってまいりました。さすがに大晦日ムード満点で店内にはお正月の歌が流れていました。

ふと耳を澄ますとあの有名な日本童謡「ずいずいずっころばし」が流れてきたのであります。まあ買い物をしながらこの曲を聞くになく聴いておりました。で、改めてよく聞いて思ったのですがこの歌の歌詞はすごいね。なにがすごいって全然意味が分からない。

だってこうですよ。
ずいずいずっころばっしごまみそずい
ちゃつぼにおわれてどっぴんしゃん
ぬけたらどんどこしょ。

もうなーにがどんどこしょなのやらさっぱり分かりません。
よく20何年間もこの意味も分からないこの歌を口ずさんでこれたもんだ。
だれかこの歌の意味を教えてちょうだい。

昨日の問題の答え(の一例)
a=4,b=100,c=400

1/4 - 1/100 + 1/400
=0.25-0.01+0.0025
=0.2425≒0.2422

です。もちろんもっと近づける事は可能ですができるだけ
切りのいい数字にしようとするとこれがベストですね。

さてじゃあ次の問題です。この問題は僕たちの日常生活に深い
関わりのある物に関係があります。それはなんでしょう。
まあ、今までの日記の内容から推測すれば簡単ですが。

さあ、明日はいいよ20世紀最後の日です。
アートコンプレックスでの出演もあるし、楽しみです。それでは!
2000年12月31日(日) 今世紀最後の日記
暦の話の続きです。

1年というサイクルを考える時昔の人が基準にしたものは月と、太陽。これは自然な発想です。前者が太陰暦で後者が太陽暦ね。今現在国際的に使われているのは太陽暦ですが、太陽暦にも実は2つの歴史があるのです。

問題は1年というサイクルが1日の整数倍にならないところです。物の資料によれば

1年=365,2422日

なのであります。昔の人も365,25日くらいまでは分かっていたらしく4年に1回366日の年をつくってこの問題を解決していました。これがいわゆる閏年です。

これでしばらくは何の問題もなかったわけですが、しかし塵も積もればなんとやら。このわずか0.078の差が積もり積もって長い年月の間に少しずつ暦のずれが生じはじめたのです。このことに気づいたのはなんと16世紀のこと。1500年間このずれが蓄積されればなんと11日余りも暦がずれてしまうのです。

これはまずいと新しい暦が考えられました。このとき新しい暦を考える人はできる限り周期的にこの誤差を修整するあたらしい規則を考えなければいけなくなったわけです。ここで登場するのが昨日の数学の式なのです。

0.2422 ≒ 1/4 - 1/100 + 1/400

この式によれば4年おきに最初の分数が1になり、100年おきに2番目の分数が-1になり、400年おきに3番目の分数が1になります。つまり新しいルールは
1.4で割り切れる年は通常の年より1日増やす。
2.100で割り切れる年は通常の年と同じ。(+1-1=0)
3.400で割り切れる年は通常の年より1日増やす。(+1-1+1=1)
となるわけ。

これが現在使われているグレゴリオ暦で、この暦に切り替えるとき1582年10月5日をグレゴリオ暦の10月15日としました。つまり日付を10日進ませたのですね。この10日ってのは特に厳密な根拠があるわけでもなさそうなのですが。

以上マメ知識でした。

暦というのは繰り返す悠久の時間の流れに人間が勝手につけた区切りなわけですが、その暦を人間は生活に利用する一方、逆に暦に生活を左右されてもいます。別に仏滅だろうと大安だろうと、13日の金曜日だろうと6月の花嫁だろうと、そんなことは気にもとめないで地球は同じように回っているはずなのです。

それでもやはりこれを意識してしまうのが人間の文化なのです。新しい事を始めようと気を奮い立たせたり、過去をしみじみと懐かしんだりするのはやはり何かしらのきっかけが要るわけで、それがほどよいタイミングでやってくるように工夫しながら昔の人は時間に区切りを入れて、意味をもたせてきたのだと思うな。

さてさてそういうわけでまもなく21世紀という大きな区切りがやってくるわけですが、僕もこの新しい世紀に向けて自分を変えていこうと今気持ちを奮い立たせている最中です。来年が僕にとって大きな飛躍のある年であることを祈り、ついでにみなさまにとって素晴らしい1年である事を少しだけ祈りながら20世紀最後の日記としたいと思います。

みなさま良いお年を。
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Akiary v.0.42